金貨三万枚
「ふうん、それにしては随分、親しそうだったじゃない?」
ナギアの口調には、軽いからかいが混じっている。あの気持ち悪い男、コラプトの大商人、ラスプ・グルービー。なるほど、あんたの知り合いだったのね、と。もちろん、問われたから、説明したに過ぎない。
今、俺とナギアは、使用人用の控え室で休んでいる。さすがにあのまま外にいたら、汗だくになってしまう。見るからに暑苦しい状態では、オブジェとしての役目は果たせない。
それにしても、よく俺のことを覚えていたものだ。もう三ヶ月は経つというのに。彼ほどの金持ちなら、日々、美少女、美少年に囲まれているはずだ。俺の肉体のランクからすれば、なるほど上等な代物であるにせよ、そこまで執着するまでもないはずだ。何より、彼にはドナがいる。
それに、あの口調。醜悪さはどうしようもないが、態度そのものは実にフランクだった。子爵の邸宅にいたから猫をかぶっていただけなのかもしれないが、俺はそこに、彼の知性を感じた。
「まだフェイのこと、欲しいのかもよ? かわいがってもらったら?」
ナギアのねちっこい声が、耳元に聞こえる。この「欲しい」「かわいがって」という辺りに、妙なアクセントがついている。
「誰にそんな言い方を教えてもらったんですか」
明らかに性的なニュアンスを含んだ表現に、俺はそう問い返した。まだ七歳の少女が口にするには、あまりに下品だ。
「別に? 私が何か変なことを言ったっていうの?」
こいつ……
「いいえ? ところで、グルービー様は、かわいらしい女の子にも優しいそうですよ。なんなら、声をかけてみたらいかがですか?」
「冗談でしょ?」
鼻で笑いながら、ナギアは強調した。
「あんな田舎の商人の相手なんか、やってられないわよ。私はそんなに安くないんだから」
「彼はご主人様にも一目置かれる大物ですよ? じゃあ、誰ならいいんですか?」
「当然、秘書課の人に決まってるじゃない。次の執事候補となら、結婚してあげてもいいわよ。小姓の腕輪をつけた人ならね」
この屋敷における頂点は、子爵一家を除けば、当然、執事だ。だが、小姓の腕輪を手にしたのは、彼一人ではない。メイド長の夫などは、主として陸上で活動する隊商のリーダーだが、やはり腕輪を与えられている。ナギアの父はまだ、小姓の身分を獲得していないが、このまま実績を積んでいけば、いずれは確実にそうなるだろう。
俺も少し、嫌味を言ってやることにした。
「身分の高い男性がお好みですか」
「当然でしょ? なんなら、そうね、ウィム様が育ったら、お手付きになってもいいかもね」
金と地位がある相手なら誰でもいいのか、と言ってやったつもりなのに、全然こたえていなかった。それもそうか。こちらの世界は、現代日本とは違う。結婚するならまず相手の財産や身分から。それが常識なのだ。ただ、それにしても、現実的過ぎるし、意地汚すぎるとも思う。
「きっと奥方様はお許しになられませんよ」
「あら、わからないわよ? 自分の息子のことだものね」
普通、貴族には、正妻の他、数人の側妾がいるものだ。ところがここ、トヴィーティ子爵家には現在、その手の女が一人もいない。
理由は単純。今の奥様が、それを毛嫌いしているからだ。普段は、どこかほんわかムードの女性なのに、いざ浮気となると、すぐさま鬼神に変貌するらしい。実際に目にしたことはないのだが。なんでも、彼女の母がルイン人貴族で、セリパス教徒だった影響なのだとか。
しかし、お家の維持は貴族にとって最大の関心事。一人息子のウィムが男児を産ませられなければ……夫の浮気は許せなくても、息子なら。
「でも残念ですね。部署を変えてもらわなければ、僕もナギアの婚約者になれたかもしれないのに」
「やめてよ! あんた、自分が誰だと思ってるの? 奴隷でしょ? 奴隷で、黒髪で、フェイなのに!」
フェイ、というところを、彼女は強調した。俺がそう呼ばれるのを嫌っているとわかっていて。
前世と同じく、こちらの世界にも、厳然として差別が存在する。フォレス人の多くは、自分達こそ、調和の取れた人種であると考えている。だから、それ以外の人種、民族については、どこかいびつな存在だと決めてかかっている。
例えば、彼らからすれば、ルイン人は「田舎者」で「粗野」、そして「大飯食らい」だ。サハリア人は? この辺に定着しているイメージは「金に汚い商人」「凶暴」といったネガティブなものばかり。サハリアの、更に南にある大陸に暮らすシュライ人については「野蛮」「不潔」と散々だ。
なら、都会人であれば評価するのか? いいや。帝都の住民に対しては「身勝手」「狡猾」「淫乱」と容赦ない。実はこの悪口、他の民族がフォレス人について語る際に、挙げられることがあるものだ。
そして俺のこの黒髪……ハンファン人については? 実は「滑稽な奴ら」というイメージがある。
それはこういうことだ。ハンファン人は、フォレスティアまでは滅多に来ない。大抵の商人は帝都までの往復で満足する。だが、例外的にここまでやってくる連中もいる。その代表が、芸人の集団だ。わかりやすく言うと、サーカスだ。
彼らは芸人であるがゆえに、客の前で様々な技巧を披露する。中でも花形を務めるのが、少年の軽業師だ。華やかに彩られた衣服をはためかせながら、バッチリ化粧を施した少年が、何度も何度も宙を舞う。それはそれは、実に見事なものらしいが、この少年の名前……正確には芸名なのだろうが、これが大抵「フェイ」なのだ。
意味合いとしては、羽毛のように舞う、とかなんとか、そういうニュアンスらしい。どこのサーカスでも、花形の少年の名前はフェイだ。こうしておけば、演者の名前が呼ばれた瞬間に、お客は次に何が起きるかを予想できる。
で、これが、チーレム島を挟んで正反対の位置にある、遠い遠いフォレスティアにおいては、フェイ即ちハンファン人、という図式に簡略化されてしまっている。
なるほど、彼らは芸人だから、舞台の上では派手な振る舞いをするし、滑稽な仕草も見せる。それがハンファン人のすべてではないはずなのだが、とにかく、彼らのことをよく知らないフォレス人は、「滑稽な奴ら」と決め付ける。
俺がこの「フェイ」という呼び名を嫌うのは、そういう理由からだ。黒髪だからハンファン人。ハンファン人だからフェイ。フェイってことは……人そのものより、人についているラベルばかりを見る。そういう考え方が垣間見えるし、人をこばかにした呼び名だから、不愉快なのだ。
つまり、今、ナギアは、こんな滑稽な変な奴とお付き合いなんて、真っ平御免、と見下してくれたわけだ。
子供相手に張り合うのも大人気ないとは思うのだが……俺は、一度溜息をついてから、思っていることを口に出した。
「前に一度か二度しかお会いしたことはなかったですが、お父様は立派な方でした。お母様も、さすが子爵家で乳母を務めるだけあって、とても上品な方です。なのにどうして、息子と娘がこんなありさまになってしまうの」
「こんなありさまって何よ!」
俺が親のことを持ち出した瞬間、突然ナギアは怒りを剥き出しにした。
「見たままですよ」
「なによ! あんたに何がわかるのよ!」
「わかりますよ。周りの大人が悪すぎる。それと本人も、そういう環境に流されている」
「なっ……」
それこそ、ナギアがどれほど怒り狂ってすごんでみせても、俺にはまったく恐怖感がない。俺はいつでもここを出て行けるが、彼女は屋敷での暮らしに執着しているのだ。
「悪いことは言いません。お父様も外国で、お母様もお仕事ばかり。寂しいのはわかりますが、その憂さ晴らしにくだらないことばかりしていると、そのうち本当に下品な人になってしまいますよ?」
「なっ……こっ……このっ、フェイのくせに……」
顔を赤くしたり青くしたりしながら、彼女は言葉に詰まった。自覚はあるのだろう。俺は冷え切った目で、そんな彼女を見つめていた。
なんとか俺への反論を捻り出そうとしていたナギアだが、ここで時間切れとなった。
出入り口の扉に、ノックの音が響く。
「フェイ、いるか?」
裏方を務める青年の声だ。
「はい、ただいま」
はて。
お客様がお帰りなら、俺だけじゃなく、ナギアにも声がかかるはず。
急いで部屋の外に出ると、彼は一気に言った。
「お客様が、グルービー様が、お前をご指名だ。本来なら、出入りなんか許されないんだが……粗相をしないように、気をつけろよ?」
五分後、俺はさっきの「芍薬」の部屋に立ち入ることとなった。但し、今度はもう、寛ぎながら周囲を見回すなど、できそうもない。
俺は室内に立ち入ると、主人に一礼し、続いて客であるグルービーにも頭を下げた。俺の身分だと、挨拶の言葉すら、下手に口にできない。相手にそれを聞く、という動作を強いるからだ。
「さて」
俺の姿を認めると、子爵はグルービーに向き直った。
「お望み通り、フェイを呼びましたが」
「あり、ぐひっ、がとう、ございます」
脂肪をつけすぎた彼が、こちらを向いた。
「では、改めて、ぶふっ、さっきの話を」
そう言われて、子爵の表情が微かに険しくなる。
「フェイ君」
グルービーは、俺の名前が変更されたのに合わせて、こう呼びかけてきた。
「うちで、働いて、みないかね」
「は……」
そんなことを言われても、俺は子爵の所有物なわけで。
って、まさか? この男、そのためにわざわざピュリスまで来たのか?
「閣下」
俺から視線を外すとグルービーは、相変わらずのだみ声で、しかし断固たる口調で、はっきりこう言った。
「彼を譲って、いただけませんか。落札額の五倍、金貨三万枚までなら、即座に、お支払いできます」
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