僕はオブジェ

 お客様の来訪まで三十分を切った。まずトイレに寄ってから、もう一つの仕事をこなすべく、大急ぎで自室に戻る。クローゼットから、朝の挨拶に使うのとは別の、黒っぽい衣装を取り出して、そのまま風呂場へと駆け込む。風呂場といっても、湯があるわけではない。正確には、特定の時間帯には湯があるのだが、それ以外は水だ。

 そこで俺はすぐさま服を脱ぎ、水を浴びる。今は碧玉の月、まだ夏にはもう少しという時期だけあって、水温は低い。だが、寒がっている場合ではない。使い込まれて小さくなった石鹸を取り出し、大急ぎで全身を洗う。頭もだ。もう、きれいに乾くなんて思わないほうがいい。

 水浴びから戻ったら、まずうがいをする。さっきから走り回って、喉が渇いて仕方がないが、うがいで我慢だ。それから全力で体を拭く。頭髪からも可能な限り水分を拭き取ると、今度は備え付けの香油を塗りたくる。そうしたら、今度はさっきの黒っぽい衣装に着替える。もう、下手に汗をかくような動きはできない。

 なるべく落ち着いた歩調で廊下を進み、ようやく目的地に辿り着いた。館の出入り口の中で、スズランの部屋から一番近いところだ。


「遅かったわね」


 トゲのある声が突き刺さる。俺をねめつけながら、ナギアが花束を抱えて、俺に渡す。彼女もおめかししていて、衣装も白無垢だ。

 すぐに俺の後ろから足音が迫ってくる。裏方を務める、さっきの施設管理担当の青年だ。


「今、門のところでお迎えだ。待機だぞ」


 俺達は返事なんかしない。頷いたりもしない。ただ黙って、前へと向き直る。これは、暗黙の了解だ。今、この瞬間から、俺達の演技が始まる。

 そう、俺のもう一つの仕事、それは……置物になること、だ。

 俺の容姿を思い出して欲しい。自分で言うのもなんだが、黒髪の美少年だ。それが真っ黒な衣装を身につけている。そして相方は? 銀髪の美少女だ。それが真っ白なドレスに身を飾っている。俺達の立つ門の周囲には、色とりどりの花がこれでもかというくらい、並べられている。足元の香炉からは、とにかく金がかかっているらしいことだけはわかる、奇妙な匂いが漂ってきている。これらはすべて、男爵夫人への歓迎の意を示す装飾なのだ。

 そして、だからこそ、俺達は場の雰囲気を壊してはいけない。何があってもこのまま。一枚の絵画になりきるのだ。


 ……と覚悟を決めて立ち尽くすこと、数十分。

 驚くことはない。さっき、男爵夫人の馬車が、この館の敷地に入った。その報告を受けた以上、いつ彼女らがここにやってくるかもわからない。しかし、道草を食っている可能性もある。

 頻繁に来訪するといっても、せいぜい一ヶ月に一度くらい。俺も、男爵夫人をお迎えするのは、これが二度目だ。その間に、季節は移り変わっている。春の最中だった先月から、今は雨がちな時期になり、庭の花も種類が変わっている。大地と草原と森林、それに豊かな農地を愛するフォレスティアの貴族としては、それらをいちいち褒めずにはおかない。ちょっと気取った人物だと、そこで詩の一つでも捻り出さねば、気が済まない。また、館の主としても、立派な庭を拵えて待ち受けるのが、半ば礼儀とされる。

 ちなみに、その間、奥様はずっと待ちぼうけだ。スズランの部屋の近くで、お茶を飲みつつ、のんびりしている。今、男爵夫人の相手をしているのは、恐らくメイド長あたりだ。それで許されるのは、執事が外にいるのと、来客が女性で、しかも非公式な都合というのもある。

 これが通常の公務の場合、もう少し殺伐とした雰囲気になる。客を待つ間、控え室では、綿密な打ち合わせがされる。一方、事前情報次第だが、必要であれば、来客を部屋まで導くのをなるべく遅くしたりもする。ただのお茶会に見えても、政治的な駆け引きが常にあるのだ。また、貴族の子女が社交界にデビューする前などでは、こういう場で経験を積む。お客様をお迎えする際に失礼にならないように、それでいて弱みを見せないように、どんな受け答えをすればいいのか、周囲の大人達に言い含められるわけだ。

 で、その間。俺達はずっと、オブジェのように身動ぎせずに待ち続ける。ただ立っているだけだ。ただただ立つ。何もせず。

 各部署への連絡に掃除にと、あちこち走り回った俺だが、喉が渇いても水は飲まなかった。その理由がこれだ。途中でトイレに行きたくなったら? 持ち場を離れるなんて許されない。当然、漏らすのもアウトだ。

 これは、普通の子供には勤まらない。なんだかんだ、俺に辛く当たるナギアにしても、よく我慢できていると思う。笑顔を浮かべたまま、じっと動かずにいる。こういうところを見ると、多少は評価したくなる。

 俺とナギアが立っている玄関からは、晴れ空がよく見える。この時期のフォレスティアにしては珍しい。日差しも少しずつ強くなってきている。さっき冷水を浴びた際には寒さを感じたが、こうして黒い服を着て立っていると、背中がうっすらと汗ばんでくる。

 なるべく早めに来て欲しい。暑さのせいで、顔色が変わったら困る。熱中症で倒れたとしても、そんなの水分不足でずっと立たせておいた結果だから、俺に非はないのだが、ここではそんな論理は通らない。美観を損ね、主人に恥をかかせた奴隷として、ただただ白い目で見られるだけだ。


 どれくらい待っただろうか。遠くから笑いさざめく女達の声が近付いてきた。いよいよと気を引き締め直す。

 一度見たから知っている。ヘーキティ男爵夫人だ。奥様と同じ、二十代後半の、まだまだ美しい女性だ。鮮やかな緑色のドレスに、同じ色の、つばの広い帽子をかぶっている。気品とか威厳より、親しみやすい笑顔が印象的だ。

 だが、彼女はやはり貴族なのだ。視線を追えばわかる。まともに目を見てしまわないよう、やや顔を伏せてはいるが、なんとなく彼女の視界がわかる。男爵夫人は、いちいち俺達を人として、子供としては見ていない。かわいらしい少年少女が並んで立っている景色、あくまで門の一部として鑑賞しているに過ぎない。だから、ざっと視界に収めると、すっと中へと立ち入っていく。その時、彼女の一言が耳に入った。


「……相変わらず、ご趣味がよろしいんですのね」


 屈託なく、そう言ってのけたのだ。その素敵な趣味のために、子供達は一時間近くも、暑苦しい中を突っ立っていたのに。

 男爵夫人と、その傍仕えが部屋の中に入りきってしまうと、もう俺達の役目は終わりだ。もちろん、帰る時にはまた、同じように立ちっぱなしになるのだが。


 さて、ここからが苦しい時間だ。

 男爵夫人は、ピュリスの近郊に住んでいる。すぐ隣の田園地帯がヘーキティ男爵領なのだ。だから、馬車なら一時間半くらいで行き来できる。今は夏が近く、日が長くなってきていて、だから夕方五時くらいまでは、こちらに滞在するはずだ。

 つまり、丸四時間もの間、やることがない。さすがにこの間も、ずっと立っておれとは言われない。一応、使用人のための控え室で休んでいていいことになっている。但し……


「わかってると思うけど、寝ちゃダメだからね」


 一息ついて座ったところに、頭上から冷え冷えとしたナギアの声が響く。

 わかっている。ここでの居眠りは許されていない。理由はいくつもある。

 一つ目。こんな立派な服に皺ができたら、大問題だ。二つ目。お客様をまだお見送りしていない。呼ばれた時、すぐ駆けつけなければいけない。三つ目。ここでの勤務態度は、接遇担当の評価に関わる。重要なのは生活態度だ。業務時間中である以上、勝手なことをしてはいけない。

 改めて強調したい。勝手な行動をとってはいけないのだ。トイレなど、やむをえない場合を除き、この部屋から出てもいけない。食事は、さすがに朝食べたきり、何も与えないということはないが、用意されているのは、サンドウィッチのようなものと、生ぬるいお茶だけだ。それも、手袋と紙ナプキン装着の上で。更に更に、ここで不要な会話をしてはならない。もし、声が外に漏れて、奥方達に聞こえたら? まあ、現実的に考えて、声が届く距離にはないし、そもそもどうせ、話し相手なんかいないのだが。

 だから、じっと座っているしかない。座っていなければならない。

 はっきり言い切れる。つらいのは、慌てて掃除している時ではない。お客様を出迎えるために暑い中、突っ立っている間でもない。何もしないで、ただただ座っている、この時間だ。

 だから俺は、前にお願いしたのだ。せめてこの時間、読書をさせて欲しい。勉強が進めば、それだけ主人の役に立てるから、と。その陳情は、即座に却下された。

 理由は? 一応、印刷技術があるとはいえ、本はまだまだ高価なものだ。それゆえ、手違いで汚したり、破損したりされては困る。第一、どうして奴隷の少年が、子爵家の蔵書に手を触れられるなどと思うのか。学問をしたいというのなら、そのうち機会は与えられる。数年間、今の役割を勤め上げ、青年になってから、商人になったり、内務班に配属されたりすれば、読み書きとか、その現場で必要な知識くらいは教えてもらえる。だから、我慢せよ。

 ばかばかしい。なんとばかばかしい答えだろう? 俺に厳しく接するのは、まだいい。それだって業務だ。突っ立ったままでいるのも、大事な仕事だろう。一見すると、ただのアホみたいに思われるが、実は重要な意味合いがある。上流階級の人々のすぐ傍で顔を知る、名前を覚える、作法を身につける……その機会を、ただ立っているだけで与えられるのだから。

 だけど、これはなんだ。俺に今できることを確認もしない。なのに、叩けば叩くほど伸びる少年時代を、こうやって無駄にしてしまうのか。今まで、他の子供達の可能性も、同じように潰してきたのか。

 だが、ナギアには不満などなさそうだ。むしろ、この日中に、他の使用人は、暑苦しい屋外で肉体労働に励んでいる。それを涼しい部屋の中から眺めていればいいのだ。しかも、まるでどこかのお嬢様であるかのような、きれいな服を着て。確かに恵まれた地位には違いない。そして、そんな特権的なポジションに、奴隷出身の俺が食い込んでいる。なるほど、気に食わないわけだ。

 くだらない。なんだか、日々、自分が腐っていくような気がする。毎日毎日、いい加減な事務処理に、不完全な情報伝達。無駄に待たされ、理不尽に急がされ、能力を生かせるでもなく、伸ばせるでもなく。そして何かと言われるのは、とにかく生活態度についての注意ばかり。

 こんなところに何年もいたら、俺は本当にダメな人間になってしまう。そうとしか思えない。


 夕方、男爵夫人を見送った後、俺はまた、普段着に着替えてスズランの部屋を掃除した。ここでまた、メイド長のチェックを受けなければいけない。だが、彼女は門前の見送りに出ており、今の居場所がわからなかった。

 既に周囲は薄暗くなり始めている。夕食の時間までには声をかけたいところだ。俺は、施設管理担当の青年に一声かけて、ひとまず部屋を施錠してもらうと、事務室へと急いだ。だが、そこには誰もいなかった。誰か、誰でもいいから、上の人を捕まえなければならない。もしかして、子爵一家のすぐ傍にいるのだろうか? 館の奥、主人のスペースに踏み入るのであれば、この服装ではまずい。いったん自室に戻った。そこも無人だった。夕食前の自由時間だ。子供達も、外で遊んでいるのかもしれない。

 スーツもどきに着替えてから、普段は上級の召使だけが立ち入る領域に、足を踏み入れた。広い館の中、古びた渡り廊下には、ところどころ蝋燭の灯りがあるだけだ。


 そもそも、ピュリスの総督とは、かなりの地位だ。諸国戦争以後、六王国は何れも分裂状態になった。その中で無数の小国が乱立したが、ここピュリスも、一時は独立勢力の根拠地だった。つまり、ここの総督官邸は、かつてのピュリスの王宮だったのだ。もちろん、往時と比べれば規模は縮小されているし、建物のいくつかは建て替えられているが。

 そんな場所に、領地の規模だけでいえば、貧乏貴族でしかないトヴィーティ子爵が着任した。彼は、必要以上の人員を置けなかった。それにまた、貴族にしては珍しく、側室を持たなかった。だから、広い敷地の少なからぬ部分が、無人のまま、放置されている。

 俺は、静まり返った渡り廊下を歩きながら、さすがにこんなところには誰もいないか、と思い直す。どうやら、少し迷ってしまったようだ。見ての通り、蝋燭がいちいち点してあるので、まったく使っていないわけではない。一応、警備もしている。本来ならここは後宮、側室にあてがわれているはずのスペースなのだろうが、それがいないので、たまにしか利用されていない。

 乳白色の大理石が一定間隔でアーチを作る。その柱に点る橙色の灯。その向こうは、半円形にくりぬいたような闇だ。たくさんの人がいるはずの、この館なのに、まるで無人の廃墟を訪れたような気分になってくる。

 引き返そう、と思った時だった。


 物音。

 部屋の中からだ。渡り廊下の蝋燭の光は、奥まで届かない。まさか侵入者が、と不安が一瞬、頭をかすめる。こんなところで事件に巻き込まれて死ぬなんて、ごめんだ。足音を殺して、そっと室内を窺う。

 人型のシルエットが見えた。但し、ひどく小さい。それが動いて、前に出た。橙色の光が、彼の顔を照らす。

 子爵の長男、ウィムだ。まだ二歳の幼児だが、子爵家の跡取りだ。近くに乳母も召使もいないのに、どうしてこんなところを、うろついているのか。

 ともあれ、危険はなかったようだ。俺は、ほっと溜息をつく。


 ウィムはその場に立ち尽くし、俺の顔を不思議そうに見ている。その彼の顔を、俺もじっと見ている。

 彼には、俺がどんな風に見えているのだろうか。召使だろうか。いや、まだ二歳の子供に、身分という意識があるのかどうか。ただ、周りの女達のほとんどが、自分を守ってくれている、それが当たり前なんだ、というくらいの認識か。とすれば、俺は彼にとって、見慣れない人間であるはずだ。

 周囲は相変わらず静まり返っている。他には誰もいない。誰も……

 俺は、黙って手を突き出した。


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 ウィム・エンバイオ・トヴィーティ (2)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク6、男性、2歳)


 空き(2)

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 日々の雑用。学習の機会も、出世の可能性も与えられない現状。おまけに、他人から能力を奪おうにも、出会いの数も極端に限られている。

 接遇担当として、貴族などの重要人物の前に立つことはよくあったが、彼らに手出しはできない。周囲に人目があるので、肉体を奪うのは論外だ。その他の能力については、ろくなものがないのが普通だったし、もし何かあったとしても、子爵家を訪ねた直後に変化があったと気付かれてしまっては……ミルークやタマリアに、秘密を知られかけていたことを思うと、この能力の秘密の保持について、過信はできない。

 つまり、今の日々は、それこそ何を得ることもない、無為なものだ。こんな時間を過ごすくらいならば……いっそここで、貴族の家の息子になってみるのも、悪くないかもしれない。


 だが、それでどうなる?

 俺に肉体を奪われたウィムは、死ぬ。無論、痛みも自覚もない。それどころか、彼らの両親、乳母や侍女も、その変化に気付けないだろう。一つ懸念点があるとすれば、この俺、フェイと呼ばれている少年奴隷が行方不明になることくらいだ。だが、子爵家にとって、そんなのは些細な問題でしかない。

 俺は、貴族の跡取り息子として育てられ、華やかな宮廷生活を送る。誰も俺の正体を知ることなどできない。そしてピアシング・ハンドがある限り、俺が遅れを取ることなど、滅多にない。その気になれば、この国の王位にだって、手が届く……


 突き出した手を、下ろした。

 そんな俺を、ウィムは不思議そうな顔をして、見つめている。

 ほどなく、後ろから数人の足音が聞こえてきた。振り返ると、ランタンを手にした侍女に、その後ろには乳母、そしてメイド長だ。


「……本当に、どうして目を離したんですか」

「申し訳ございません」

「でも、こんなところに……あっ」


 俺は、女達に声をかけた。


「済みません、ちょうど探していました」

「えっと……フェイ? そうだったわね、報告がまだ……でも、今は急いでいるから、また後で」

「ウィム様がこちらに」

「え……なんですって?」


 彼女らは駆け寄ってくると、俺の指し示す先を見た。そこには、はにかんで笑うウィムの姿があった。本人からしてみれば、ちょっとしたかくれんぼのような気持ちだったのかもしれない。


「ああ、よかった!」

「さ、帰りましょうね、ウィム様」


 乳母と侍女が、駆け寄り、しゃがみこんで、ウィムを捕まえる。

 そんな様子を見下ろしながら、メイド長はこちらに振り向き、尋ねてくる。


「よく見つけたのね」

「いえ、偶然です。本当は、お部屋の掃除の確認の件で、責任者を探していたのですが……」

「そう」


 しばらく考え込むようにしていたメイド長だったが、またすぐに言った。


「わかった。スズランの部屋の確認は、後でしておくわ。何かない限り、連絡はいかないから、今日はもう、休んでいいわよ」

「わかりました。ありがとうございます」


 俺は一礼すると、女達に背を向けた。部屋に戻って着替えたら、やっと夕食だ。


 俺はウィムの肉体を奪わなかった。なぜか。

 理由は……いくつかある。まず、俺の能力の枠はもう、埋まってしまっている。であれば、ウィムの肉体を奪うには、何かの能力を捨て去る必要が出てくる。また、フェイの行方不明をどう処理するか、処理されるかが気にかかった。それに、今、ウィムの人生の続きをするとなれば、俺はしばらく、自由に行動ができない。まさか二歳児がいきなり流暢なフォレス語を話すわけにもいかないし、読書なんて、もってのほかだ。果たして、そんな退屈な生活に耐えられるだろうか?

 まだある。トヴィーティ子爵の身分は魅力的ではあるものの、そこまで執着するほどでもない。もっと高位の貴族だって多数いるわけだし、今は王太子に気に入られているから立場も悪くないが、何か状況が変われば、一気に底辺に叩き落される可能性もある。

 何より、子爵の人間性だ。見てくれは立派でも、俺はあの男をあまり評価していない。あんな人間を父親として育つのか、と思うと、少しうんざりしてしまう。


 ……いや。

 そうじゃない。

 問答無用でウィムを殺すことに、躊躇いがあったのだ。

 今更?

 リンガ村で両親を殺害した時のことは、今でもはっきり覚えている。恐ろしい体験だったが、潜り抜けてしまえば、どうということもない。殺しを楽しむわけではないにせよ、必要であれば、手を下すことに迷いなどない。

 だが、今、ここにその「必要」はあったのだろうか?


 俺はせっかくの機会を逃してしまった。今後、ウィムが一人きりになる場面など、そうはないだろう。まだろくに人格らしきものもできあがっていない今であれば、俺がそこに入り込んでも、中身が別人とは悟られにくい。時間が経てば経つほど、ウィムの意識は明瞭になり、その振る舞いは周囲の人々の記憶に刻まれる。なりすますのが難しくなっていくのだ。


 ともあれ、これが結果だ。

 俺は、一度だけ後ろをそっと振り返り、あとはまっすぐ歩いた。食事を済ませたら、少しのんびりしよう。入浴して、今日もあの子供部屋の隅で眠るのだ。

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