押し花
昼過ぎに書類の整理が終わった。いつものように、本を小脇に抱えて中庭に出る。自分の部屋よりこちらのほうが明るいからだ。とはいえ、そこまで本を読みたいわけでもない。さすがに三年近くもいれば、すべて読みつくしてしまった。この『暗黒時代戦争史』も、目を通すのは四度目だ。
どこに腰を下ろそうかと、フラフラしていると、危なっかしい光景が視界に入った。
「……って、待った! 待って!」
木工場だ。ドナが両手でトンカチを振り上げ、足元の木片に叩きつけようとしている。そんなに振りかぶったりしなくても、ちゃんと釘は刺さるのに。
「……ノール?」
俺に声をかけられて、彼女は手を止めた。
「金槌は、そんな使い方をするものじゃないよ。何をしているの?」
「あれ、作ってるの。刺さらないの」
尋ねられて、彼女は足元の木片を指差す。どうやら、釘を打とうとしていたようだ。しかし……なるほど、これは刺さらないわけだ。
「ここを使っていいって、誰かに訊いたの?」
「ミルークさんが、いいって」
「そっか……」
彼には珍しく、間の抜けた判断をしてしまったようだ。
使うということは、金槌や釘で、木工作業をするということだ。無論、ドナがそれらの道具を悪用するはずもない。
だが、彼女にこれまで、そうした経験があっただろうか? さして危険はあるまいと、彼が自分の常識で考えた結果がこれだ。
「使い方は、誰に教えてもらったの?」
「……えっ?」
やっぱり。
でなきゃ、誰もこんな真似はしない。釘の代わりに、ネジを木の板に打ち込もうだなんて。それに、金槌のサイズが大きすぎる。この重さでは、ドナには扱えないだろう。
「ちょっとだけ、道具を変えようね」
俺は一式を彼女から取り上げて、倉庫に走った。予備の木片をいくらかと糸鋸、それに小さいサイズの金槌に木槌、細い釘も何本か、引っ張り出す。
「これを使ってみて」
「うん!」
彼女は嬉しそうに、それらを受け取った。
「何を作りたいの?」
「うんと……あれ!」
彼女が指差した先には、色とりどりの花……の乾燥したものがあった。押し花を木枠に収めたいのか。
よく見ると、あの花は、俺が鳥になって、運んでやった奴じゃないか。
「……取っておいたんだ?」
「うん! 去年は、水に差しておいたんだけど、しなびちゃったから……タマリアが教えてくれたの」
そういうわけか。
押し花は、いったんしおれだしてからでは、なかなかうまくできない。惜しい気はするが、花が新鮮なうちに処置するのがいいのだ。
幸い、俺が摘んできたのは、小さいサイズの花だった。だから、乾燥させるのも簡単だっただろう。
「でも、木の枠だけじゃ、押し花を見られないと思うけど」
「あのね、これ!」
なんと、彼女は小さなガラスの板を持っていた。
「えっ? これ、どこから持ってきたの?」
「街で売ってたの!」
この世界、なんと意外にも、ガラスは少なからず存在する。それも、かなり昔から。リンガ村にはまったくなかったので、びっくりさせられた。ここで暮らし始めて、しばらく経ってから知った事実だ。
これまたあの人物……ギシアン・チーレムが、ハンファンの都市部で生活していた時期に、作り出したものとされている。他に、紙を発明したのも彼なのだとか。魔王は倒すわ、技術革新は起こすわ、本当にいったい何者だったんだろうか。
ともあれ、小さなサイズのものであれば、そこまで値も張らない。自宅の窓を全部ガラスにするとなると、さすがにそれは結構な金額になるが、絶対に無理というほどでもないだろう。俺のいたリンガ村は田舎だったから、ガラス製品が入ってこなかっただけなのだ。
それでも、銅貨六枚程度のお小遣いで買うとなると……その中には、昼食代も入っていたわけだから、かなり厳しかったはずだ。
「屋台のおじちゃんが、あとは木の枠を作ればいいんだよって、教えてくれたの」
「なるほどね」
俺も器用なほうじゃないが、そうとなれば、ここは一肌脱ぐべきか。このままほったらかしにしておいたら、確実に悲惨な未来がやってくる。たった一枚きりのガラスを誤って割ってしまい、涙に濡れるドナの姿だ。それだけなら、まだいい。割れたガラスの破片とか、釘や金槌で怪我をするかもしれない。
「じゃあ、僕も手伝っていいかな?」
俺がそう言うと、彼女は目を見開いた。
「……いいの?」
「うん」
俺の答えから一、二秒ほどしてから、彼女は喜びを爆発させた。
「本当!? わぁ!」
その場でピョンピョン飛び跳ねている。かわいいものだ。
最初に、作りをイメージしよう。ドナは単純に、木片とガラスをサンドウィッチにすればいいと考えていたが、それでは雑なものにしかならない。
まず、ガラス板をはめ込む枠だ。ガラスの各辺を覆うような形の木枠を用意して、その後ろに、ガラス板になるべくピッタリ合う木枠を当てはめる。これを前から釘で止める。つまり、前者がガラスを抑える前面の部分で、後者はガラスを嵌め込む枠だ。ガラスの後ろ側の板は、まだない。
それからガラスを嵌めるわけだが、どうしても多少のズレはできてしまう。その隙間がガチャガチャするのはよくないし、直接、固い木をガラスと隣り合わせにしておくのも、危ない気がする。そこで、薄い和紙のようなもので、微量の繊維を包み込み、これを前方の枠とガラス板の間に挟み込む。
そうしたら、肝心の押し花と、後ろの台紙、それに木の板を後ろに詰めて、隙間を埋める。更に、全体の木の枠と同じ大きさの板をもう一枚用意して、後ろに貼り付ける。この板には、後ろにくぼみを彫っておく。これは、周囲を接着剤で固める。
でも、剥がれるかもしれないから、横にも板をつける。この板を通して、横から、前と後ろの板に、それぞれ釘を通す。なんだか大きすぎて不恰好になってしまったが、もともと俺は、工作は苦手だった。こんなものだろう。スキルだって持っていないし。
最後に、後ろに立てかけるための板をはめ込む。
一通りの手順を説明すると、ドナは「わかった!」と叫んだ。でも多分、覚え切れていない。それで問題ない。俺がしっかりしていれば済む話だ。
ときにドナの手をとりながら、また自分で手本を見せながら、午後の時間いっぱいを使って、なんとか作り上げることができた。ドナは最初、小躍りして喜んだ。
「ありがとう!」
はしゃぎながら、彼女はそう言った。
「どういたしまして」
さて、これで用は済んだ。怪我もしなかったし、これで一安心だ。
ところが、そこでドナの様子が変わった。跳ね回るのをやめて、表情からもすっと笑みが消えた。かと思うと、じわじわと微笑が戻ってきた。ただ、それは、内側からあふれ出る歓喜というより、気持ちいい風を浴びたときのような、透明感のあるものだった。
そして、もう一度、今度は静かな口調で言ったのだ。
「ありがとう」
「あ、うん」
なんだ?
「無事に作れてよかったね」
「ううん、そうじゃなくて」
押し花のことじゃない? そうだ。そのお礼は、最初に言った。では、二度目のは、なんだ?
もしや……その花の出所も知っている?
「じゃあ、何のこと?」
俺はやや、表情を固くして、尋ねた。
だが、彼女は……
「ううんと、えっと、あの……なんだったっけ?」
演技でもなさそうだ。普通に戸惑っていた。
「いろいろありすぎて、わかんなくなっちゃった」
ああ……そうですか。なんだか拍子抜けだ。
ともあれ、用が済んだのなら、部屋に戻ろう。読書するにも、そろそろ薄暗くなってくる。夕食の時間も近くなってきた。
後片付けは彼女がやるだろう。俺は階段に足をかけた。
「ねぇ」
だが、ドナはなおも話しかけてきた。
「どうして……なの?」
「なにが?」
「ノールは、どうして、初めて会ったのに、私の名前、知ってたの?」
しまった。
まだ覚えていたのか。
そういえばつい最近、タマリア相手にも、同じドジを踏んだばかりだった。気をつけないと、ポツポツやらかしてしまいそうだ。今後は意識して気をつけよう。
「前に言わなかった? 髪の毛が黒くて、珍しかったから、そういう名前かなって」
「ふーん?」
苦しい言い訳だ。大人にはまず通用しない。
だってそうだ。俺はなんて呼びかけた? いきなり「ノーラ?」と呼んでしまったのだ。「もしかしてノーラって名前?」と尋ねたのではない。
「じゃあ、どうして?」
「なにが?」
「あの時、どうして泣いてたの?」
それも覚えていたのか。
これも、説明のしようがない。前世の夢をみていた。苦しい頃の思い出だ。だが、これならいくらでもごまかせる。
「昔のことを夢で見たんだよ」
嘘ではない。なにせ、奴隷商人に売り飛ばされるような子供だ。泣きたくなるような思い出があったって、何の不思議もない。根掘り葉掘り訊くな、と言いぬけるのも簡単だ。
「それって、どんな?」
「あんまり言いたくないな。ドナだって、嫌なことは思い出したくないでしょ?」
はい、解決。
納得せざるを得ないはずだ。
「でも、だって」
彼女は、じっと俺を見上げながら、言葉を継いだ。
「ノールが、聞いたこともない言葉を喋ってたんだもん」
……なんだって!?
くそっ、何をやってるんだ、俺は。
日本語で呻いているところを、ドナに見られていたのか。なるほど、印象に残るわけだ。
「ノールって、どこの人? 外国の人なの?」
そんなわけない。ここでそうだよ、と言っても、ミルークに確認されたら、嘘だと一発でバレる。いや、その場合は、ミルークが俺に疑いを抱くのか。俺は彼に、リンガ村出身だと伝えた。ということは、フォレスティア出身であるはずだ。そんな田舎村の幼児が、二歳かそこらで、外国語を習得しているなんてあり得ない。そもそも、俺は彼に拾われた時点で、フォレス語さえ、十分に話せなかったのに。
「まさか。フォレスティアで生まれたんだよ」
一瞬の逡巡の後、俺はにっこり笑ってそう答えた。
大丈夫。ここにはハンファン語を話せる人間はいない。俺の呻き声は、ハンファン語だったことにしよう。ただ、俺は実父の顔を知らない。きっと無意識のうちに、赤ん坊の頃に聞いた親父のことを思い出したんだろう。そうだ、そういうストーリーにしよう。
俺が理由を急いでまとめていると、ドナはぼそっと、悲しそうな声で呟いた。
「……だって、すごく苦しそうだった……」
胸をぐっと突かれた気がした。まさにその通りだ。だが、動揺を顔に出すわけにはいかない。
「ドナ。もうすぐ夕食の時間だよ。そろそろ、後片付けしなきゃ」
話題を切り替えると、はっとして我に返ったようだ。
「僕も手伝おうか?」
「ううん、いい! 自分でやる!」
よしよし。素直に話に乗ってくれて、一度にいくつものことを考えないでいてくれて、俺は本当に嬉しい。
「なら、僕は行くよ。じゃあね」
「あ、うん」
片付けにかかった彼女が、また顔をあげて叫ぶ。
「この押し花、大切にするね!」
微笑ましい限りだ。
まぁ、十年後にどうなっているかは……大金持ちの愛妾になった彼女の手元に、古めかしい、ボロっちい押し花が、まだ残っているとは考えにくい。金銀財宝に取り巻かれていることだろう。
手を振って背を向け、俺は階段を登り始めたところで、もう一声、とんできた。
「私、ノール君みたいな人になるの!」
……なんて言った?
冷や汗が染み出てくる。俺がやっとの思いで振り返ると、ドナは元気に手を振ってきた。
いったい、俺を何だと思っているんだ? 中身は……前世で冴えない生涯を終えた負け犬だぞ? こちらの世界では、それ以下だ。ゴキブリを食い漁って生き延びて、義父と実母をブチ殺し、村から逃げた外道だ。
ああ……何も知らないって、本当に怖い。
俺もかろうじて、もう一度、手を振り返した。
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