碧玉の刻

「君は?」


 俺は、きょとんとして尋ねた。

 黒髪の美少女。その髪は、さほど手入れをしているわけでもないのに、しっとりと重く、彼女の胸くらいの長さに垂れ下がっていた。ただのロングストレートなのだが、この髪質は、天性のものだ。

 一方で、肌は雪のように白い。褐色の肌をもつサハリア人とは違う。こんな子は、収容所にはいなかったはずだ。


「ドナ」


 ややあって、返事があった。

 もともと、冷たさを感じさせるほど顔立ちの整った少女ではあるが、その表情のかげりが気になって、俺は彼女を凝視した。


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 ノーラ・ネーク (3)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク8、女性、3歳)

・スキル フォレス語 2レベル


 空き(2)

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「……ノーラ?」


 思ったことを口に出してしまった。


「どうしてその名前をあなたが知ってるのよ」


 しまった。

 そうだ、俺は彼女と初対面だった。目覚めたばかりでぼーっとしていた。とにかく、言い繕わないと。


「人からきい……」


 言いかけて止める。そうじゃないだろう? 俺はさっきまで寝ていた。教えてもらうチャンスなんかなかったはずだ。


「いやあ、だって、君の髪の毛、きれいな黒じゃないか」

「私はドナ、よ」


 彼女は急に不機嫌になって、そう言った。

 だが、ピアシング・ハンドが示す名前は、ノーラのまま。

 恐らくだが、これは彼女がまだ、自分のことをノーラだと認識しているからだろう。これまで、収容所の他の子供達の能力も盗み見てきたが、みんなちゃんと奴隷の名前になっていた。

 となると、生まれたばかりの赤ちゃんとかは、どうなるんだろう? ゴキブリのときみたいに、種族名で表示されるんだろうか。


 俺が思考の淵に沈んでいると、彼女は胡乱なものを見るような視線を向けてきた。


「で、どうして泣いていたの?」


 そう言われて気がついた。俺の頬には、涙の痕がある。拭ってみた。

 昔の夢を見た。俺の精一杯の真心が、ゴミ屑になるところを。だが、今の俺ならこう考える。あれは真心の形をした、ただの我儘で、甘えだったのだと。だいたい、雨の中帰ってきた家族が、いきなり差し出されたホットケーキを食べたがるとも限らない。俺の誕生日だったから、なんだ? そんなのは、彼らには何の関係もない。俺が勝手に一人で期待して、一人で失望しただけだ。


「ああ、ちょっと昔のことを、ね……」


 そう言っておけば、問題ないだろう。察するに、彼女もここに連れてこられた新入りの奴隷だ。子供が家族を恋しがって泣く。いかにもありそうな話だ。

 言い訳しながら、俺はなんとなく、自分の手の甲をじっと見た。


「……!?」


 息が止まりそうになった。


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 (自分自身) (4)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク7、男性、3歳・アクティブ)

・スキル フォレス語 2レベル

・マテリアル インセクト・フォーム

 (ランク0、メス、1歳)


 空き(1)

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 年齢が、一つ増えている!

 肉体年齢はそのままだ。だが、魂の年齢が一つ、増加している。これは、どういうことだ?


「ノっ……ドナ!」


 俺は取り乱して叫んだ。その大声に、彼女はびくっと肩を震わせる。


「今日は、何月の何日だ? 教えてくれ!」


 俺の突然の態度の変化に戸惑いながらも、彼女は要求を噛み締めると、ちゃんと答えを返してくれた。


「ジャスパー……碧玉の月の十三日目よ?」

「年は? 女神暦で何年?」

「えっ……」


 答えられなくても仕方ない。彼女はまだ三歳だ。月と日を言えただけで上出来だ。質問を変えよう。


「君は、いつここに来た? 昨日? それとも一年前?」

「一昨日」

「そうか」


 頭の中で情報を整理する。

 まだ、はっきりしたことは言えない。だが、そんなに日数は経っていないようだ。


 俺がウィカクスに襲われたのが、碧玉の月の七日目。俺は咄嗟に、頭上にいたカマドウマっぽい虫けらのフォームを奪い、それに成り代わって難を逃れた。

 残念ながら、そこからの記憶は、途切れ途切れだ。あまり思い出したくないが、あれは貴重な体験だった。今のとはまったく違う肉体での活動。それがあんなにギャップのあるものだったとは。視界はあまり利かないが、音はよく聞こえた。それに、今の俺の頭にはない触角が、臭いから振動まで、なんでも伝えてくれた。

 だが、何より重要なのは、劇的な知力の低下だ。自分が何者だったのか、思い出すのも難しかった。最後の最後で、アシタカグモに殺されそうになってはじめて、変身前のルールを思い出せた。あれがなかったら、俺はそのまま食われておしまいだった。

 ぼんやりとしか思い出せないが、あの時、俺は卵を産んでいたはずだ。だが、オスと交尾した覚えはない。となると、俺に肉体を奪われる前に、既に交尾済みだったと考えるのが自然か。そう考えると、俺が虫の姿でいたのは、本当にここ数日のことだったのだ。


 だが、そのたった数日で、俺の魂は年をとった。年をとると、どうなるんだろう? まず、ストックできる能力の幅が増える。それだけか?

 ……もしかして、死ぬんじゃないのか?


 いや、待て。魂の寿命と関係なく、人は死ぬ。この体がウィカクスに傷つけられていれば、肉体の寿命も、魂の寿命もなく、ただ死ぬ。また、俺がかつて奪ったプノスの肉体。あれだって、既に二十六歳だった。仮に奪ったのが、六十近い村長の肉体だったら? やっぱり数年も経たず、死んでいたはずだ。

 どうなんだろう? 俺は次々肉体を乗り換えれば無限に生きられるのか、実はそうでもないのか。


 もし、魂の年齢に上限がないのなら、俺はリスクのある、だが魅力的なパワーアップ手段を利用することができる。たった五日か六日で魂の年齢が一つ増えた。強奪できる能力の枠が増えたのだ。たぶん、乗り移った肉体の寿命が短いほど、加齢も急速になるのだろう。となれば、俺は非常に寿命の短い動物の肉体を奪い、適当なところでそれを手放せばいい。二ヶ月、虫でいるだけで、十年分の能力枠を得られる。

 いや、ダメだ。リスクは何も、直接的な死だけではない。たった数日間、カマドウマでいただけで、俺の精神は崩壊寸前だった。急に人間の体に戻ったので、意識がついていかなかったのだ。

 俺は人間以外の何かになることはできる。それは大変に強い力だ。空飛ぶ鳥にもなれるし、海の中を駆けるイルカにもなれる。しかも、その肉体を使い捨てることさえできる。だが、長時間、その動物の姿でいると、だんだんと考えがその動物寄りになっていってしまう。

 それはそうだ。俺はその動物に「化けて」いるわけではない。俺はさっきまで、カマドウマだった。カマドウマそのものになりきっていたのだ。


「……あなたは?」


 ドナの声で、意識が引き戻される。

 とりあえず、数日しか経っていない。たぶん、そうだ。そう考えることにしよう。


「あなたはって、何が?」

「名前よ」


 そうだった。


「ああ、僕は、ノールっていうんだ。えっと……僕の面倒を見てくれていたのかな? だったら、ありがとう」

「別に」


 美しい顔立ちの少女だ。まだ三歳だが、今からはっきりわかる。ミルークは極上の買い物をした。何かよっぽどのことがない限り、彼女はこのまま、類を見ない美人に育つ。

 だが、その美女の卵の表情は、優れなかった。


「様子を見ていろ、って言われてただけだから」


 まあ、無理もないか。

 ついこの前、奴隷として売られたばかりなら。俺みたいに虐待されていた欠食児童ばかりでもないだろう。この状況で、楽しげにしているほうが、むしろ不気味だ。


 薄い木の扉が開く。踏み込んできたのは、ミルークだった。


「なんだ……目が覚めていたのか」

「ご迷惑をおかけしました」


 俺はベッドの上から、頭を下げた。

 ミルークは、脇にいるドナに厳しい視線を向ける。


「目が覚めたら、すぐ伝えろと言っておいた筈だが?」


 俺はそこに言葉を差し挟む。


「今、ついさっき、気がついたんですよ」

「そうか……ドナ、もういい、部屋に戻っていろ」


 手で指図されて、ドナは部屋から出て行った。


「厳しいんですね」


 俺がそう言うと、ミルークは真顔で答えた。


「見た目がいいのはな……高く売れる可能性もあるが、どうしてもな。甘やかすと、そもそも商品にならないことのが多い。わかるだろう?」

「そうですね」


 自分の美しさを鼻にかける奴隷。俺が貴族でも、ちょっと遠慮したいところではある。


「いつお帰りですか?」

「二日前だ。一通りの買い付けが、予定通り進んでな。いくつかの村では、事前にあった話通りだったから、手続きだけですぐ済んだ」


 どうやら、本当にここ数日のことらしい。もし、俺が一年間も消えていたのだとしたら、こんな対応にはならないだろう。


「……それで?」


 ミルークは、片方の眉を吊り上げながら、俺に疑問をぶつけてきた。


「お前はどうして、あんなところにいた?」

「どうしてって……」


 さて、どうしようか。

 どう答えれば、ミルークは納得するだろう?


「じゃあ、別のことを訊こうか。お前はどうやって逃げたんだ?」

「逃げた?」

「とぼけるな。ウィカクスに殺されかけたんだろう?」


 そうだった。

 別にごまかすつもりはなかったが、単純に意識が追いついていなかっただけだ。かなりのところ、俺はまだ、頭の中がかき回されたままになっている。


「ウィカクスは、どうなりました?」


 少し気になったので、尋ねてみた。もちろん、時間稼ぎでもある。


「今も懲罰房だ」

「これから、どうします?」

「残念だが、さすがにうちには置いておけないな」


 それもそうか。他の子供に暴力を振るう少年。素手で殴るだけならいざ知らず、刃物まで持ち出した。こんなのを置いておいたら、商売どころではなくなる。

 だが、俺の中では、何かがすっきりしなかった。


「どうした」

「いえ」

「まさか、ウィカクスに同情でもしているのか」


 そうなんだろうか。そうかもしれない。


「聞いているぞ。お前をゴミ桶の中に蹴飛ばした件については、黙っておいてくれとか言ったらしいな。だが、結果的には、逆効果だった」

「はい」

「どうしてもな、子供を何人も置いておくと、こういうことはある。いや、子供でなくても、だな。ここまでの事件は滅多にないが。残念だが、人間というのは、そんなものなのだ」


 その、人間の性質を利用して、この収容所における精神のバランスを取っている張本人がそう言うのだ。俺は彼を見つめた。


「……懲罰房から出したら、どうします?」

「うちには残さない、と言ったはずだ」

「だから、その後です」


 溜息を一つ、ついてから、ミルークは説明した。


「知り合いの木工職人のところに預ける。家具から弓矢まで、何でも作る大規模な工房だ。十歳なら、下働きの見習いとして、雇ってもらえる。安値で引き渡すことになるだろうな。今回は、赤字だ」

「……そうですか」


 椅子から立ち上がりながら、ミルークは言った。


「こういう仕事をしているとな」


 黒く艶のある、細い顎鬚を撫でつつ、続ける。


「誰もが救われるわけではない、と強く感じるよ。うちに来た子供は、みんな平等だ。同じところから出発して、貴族なり大商人なりに買われるのが終着点だ。なのに、みんなに期待して、みんなに同じように教えても、どうしてもこういう違いは出てしまう」

「だから、切り捨てるんですか」

「商人としてはそうだな」


 俺の口調は、やや非難がましかったかもしれない。だが、ミルークは悪びれなかった。


「だが、それが私のすべてではないぞ、ノール」


 彼は、俺に向き直って、厳かにそう言った。


 そうなのだ。彼は、どこか不思議なところのある人物だ。奴隷商という、いかにも下卑た商売をしながら、とてつもなく上品で、威厳ある姿を見せることもある。いまだに俺には、彼というのがどんな人物なのか、理解できていない気がする。


「さて、それはそうと、だ」


 再び、ミルークは腰を下ろした。


「余談はともかく、本題に答えてもらおうか」


 さあ、どうやって片付けようか。

 ピアシング・ハンドのことを、すっかり教えてしまうわけにはいかない。言ったところで信じるだろうか? 普通の人なら、まずあり得ないと片付けるだろう。だが、彼はミルークだ。知的で、柔軟な思考もできる。これまでのことの辻褄が合うのだから、俺の説明を受け入れはするだろう。だが、そうなってくると、それはそれでまた、問題だ。いつでも主人を殺せる奴隷。最悪どころの騒ぎではない。こんなもの、商品になるどころか、置いておくだけで危険だ。

 では、ダイナミックに嘘をついてみるか? いや。それが通用する相手でもない。

 ならば。


「……虫けらになってたんです」

「なに?」


 事実の一部分だけ話そう。


「ウィカクスが僕を殺そうとしたって、誰から聞きました?」

「収容所に居残っていた守衛からだ」

「守衛は、それを見たんですか?」

「いいや、だが、タマリアが、馬小屋の下の隙間から、お前と言い争うウィカクスを見ている。それで報告がいったんだ」

「そうだったんですか」


 ミルークは、怪訝そうな顔をしている。


「それで、虫けら、というのは?」

「はい、はっきりとは思い出せないんですが、ウィカクスが持っていた小刀を振り上げた時、その向こうに、小さなカマドウマが見えたんです。で、気がついたら、地面を飛び跳ねていました」


 彼は眉を寄せている。無理もない。常識ではあり得ない話をしているのだから。


「そこからのことはよく思い出せないんですが、何か、いろいろなことをしていた気がします。ただ、最後にはクモに襲われて、背中を噛まれました。それで死にそうになった時、気がついたら、馬小屋の中に戻っていたんです」


 ミルークは、顎に手を当てて、考え込んでいた。


「信じてもらえないかもしれませんが」

「いや」


 ややあって、彼は言葉を続けた。


「お前は……魔法が使えるのか?」

「いいえ」

「だが、そうでなければ説明は……いや、しかし、いきなり虫になるなんて、魔法陣も触媒もなしに、そんな大魔法を、お前のような子供が……?」


 彼は、まじまじと俺を見つめている。


「ウィカクスとか、助けに来てくれた守衛さんは、なんと言っていました?」


 ミルークは、俺をじっと見たまま、しばらく沈黙していたが、やっと口を開いた。


「服だけ残して、いきなり消えた、と言っていたな。ウィカクスは。馬乗りになっていたのに、急にいなくなったのだと。だが、守衛はそれを見ていない。工具がちょうど、馬小屋の扉のつっかえ棒になってしまっていてな。部屋に飛び込んだ時には、既にウィカクスしかいなかった」

「じゃあ、ウィカクスは、最初から正直に話したんですか」

「いいや、最初は戸惑っていたが、途中でいろいろごまかそうとしたな。もともとノールなんていなかった、とか、あいつは収容所から脱走したんだ、とかな。だが、直前まで、中で人が争う様子を、守衛がちゃんと聞いている。結局は、白状した」

「そうだったんですか」

「だから後は」


 座り直して、ミルークは言った。


「お前だけだ」

「僕も白状しましたよ?」

「なるほど、言うつもりにはなれないか」

「言ったじゃないですか、虫だったのは本当です」

「じゃあ、どうやって虫になった? ……ほら、何も言いたくないんだろう?」


 ミルークの顔には、いたずらっ子のような笑みが浮かんでいた。


「……どうやってかは知らないが、それでリンガ村からも逃れたのだろうな」

「えっ」


 リンガ村。

 そういえば、あの村はどうなったのだろう?


「何か知っているんですか?」


 俺が身を乗り出したのに、ミルークは笑うばかりだった。


「お前が話さないのに、私ばっかり説明しなきゃいけないのか?」


 そう言われると、返す言葉がない。

 だが、やっぱりそれだけの事件が、あの村では起きていたのか。


「まあ、いい……ノール」

「はい」

「頼むから、こういう事件は、もう起こさないでくれ」

「えっと、ウィカクスに襲われたのは」

「わかっている。それは私の落ち度だ。だが……」


 腕組みをして、彼は俺を見下ろした。


「少なくとも、お前が売れて一年。一年くらいの間は、おとなしくしていてくれ。じゃないと、私の信用にも関わるのでな」

「……はい」

「それでいい。よく休んで、体を治せ」

「はい」


 ミルークはそれだけ言うと、背を向けて部屋を出て行った。

 すぐに部屋の中に、静寂が戻ってきた。思い出したかのように、雨音が鳴り響いた。


 碧玉。ジャスパー。脆い宝石。ときに緑色だったりもするが、よく取引されるのは褐色のものだ。象徴するのは、泥と土。雑草。その中での苦労。辛抱強い農民。最初の一歩。碧玉の月は、明るい真夏の前の、降雨と努力の時期だ。

 俺は救いのない、死の充満したリンガ村から逃げ延びた。今は、社会の底辺にいる。だが、それはゼロではない。長い長い梯子の、第一段目に、やっと足をかけた。

 焦ったり、慌てたりはすまい。今は一歩ずつ、前に進むのだ。

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