聖域

 今日も抜けるような青空だった。日差しはまだ強いが、吹きぬける風には、涼しさが感じられる。実際、日陰に入ると、びっくりするくらい冷え冷えしている。これは汗をかいたら、風邪でもひきそうだ。

 今の俺を強すぎる日差しから守っているのは、丈の高い木造の建物だ。村中の収穫をいったん格納するための、いわゆるサイロに相当するものだ。前世の記憶にあるのと同じ、円筒形の建造物で、それが三つほど隣り合って建っている。

 俺が座っているのは、そのサイロの脇にある木材の山の上だ。そこからボンヤリと、目の前の広場を見つめている。そこには、村中の男女が集っていた。誰の表情も明るい。今日はお祭りなのだ。


 さて、俺の隣のサイロの中身は、ギッシリ詰まっている。だが、その隣はというと、たぶん、半分くらいしか埋まっていない。更に最後の一棟については、スカスカだろう。要するに、今年の麦の収穫は、昨年に比べて、明らかに貧弱だった。

 だから、広場に集まった村人達としても、内心は不安だらけだろう。それでも、今年の農作業が一段落したのは喜ばしい。そういうわけで、例年、初秋に執り行われる収穫祭を、今年も開催することにしたのだ。とはいえ、俺がそれを目にするのは、まだこれで二度目なのだが。


 俺もどうやら、二歳になったらしい。体も少しずつ、動くようになってきた。言葉も、ほんの片言レベルだが、少しずつ話したり、聞き取ったりできるようになってきた。ただ、相変わらずの家庭環境でもあり、親が俺に話しかけようとしないのもあって、学習速度はすこぶる遅い。

 今も、両親は俺から離れた場所にいる。義理の父親は、向こうで酒瓶片手に中年男の輪の中に加わっている。母親は、同じ年頃の若い女性の仲間と談笑している。俺がまだ二歳の幼児だということをすっかり忘れているようだ。まあ、何かあっても、ここにいる限りは、周囲の大人が気付いてくれるだろうが。


 お祭りといっても、別に何か楽しいことがあるわけでもない。これが豊作の年でもあれば、村に楽隊を招いたりして大騒ぎしたりする場合もあったらしいが、ここ一、二年は、むしろ質素な感じなのだとか。だから今回も前回と同様、まずは村の広場で村長が挨拶をし、それから近くの祠までいって女神様に祈りを捧げ、それからみんなで昼食を共にする。一応、今日のために狩人達がしとめてきた肉を味わうことができる。子供達は、あとは夕方まで遊んで、家に帰って、それでおしまいだ。

 だが、大人達には、この後のお楽しみもある。


 カン、カンと甲高い金属音が聞こえる。サイロの近くにある物見台の上からだ。火災などの緊急事態が起きた場合、この鐘を打ち鳴らして村中に知らせることになっている。言うまでもないが、この広場は火気厳禁だ。そもそも、火災においてまず最優先で守られるべき資産は、これらのサイロの中の小麦なのだから。

 しかし、今、こうして鐘の音が響き渡っているのは、何も急を知らせるためではない。これから村長の挨拶が始まるので、みんなの注目を集めようとしているのだ。


 広場の隅から、白髪の男性が進み出てきた。ほっそりした顎鬚の、ほっそりした体つきをした老人だったが、背筋はまっすぐだった。みんなから敬われる村長という身分ではあったが、服装については、他の人と変わらない。うちの母親と同じく、ボロきれのような布地を身にまとっていた。

 彼が木箱の上に立ち、何かを二言三言、語りだすと、村中の大人達が両手を挙げて喜びを爆発させた。どうやらいいニュースらしい。

 俺の貧弱な語学力では、完全には聞き取れなかったが、要するにこういうことだ。今年の麦の生産は例年より少なく、春まで食い繋げるかどうかもわからない。だが、村長は領主の居城に出向いて窮状を訴えた。その陳情が通って、今年の税は、いくらか減免されるらしい。これで年を越せるというわけだ。

 さあ、女神様に感謝の祈りを捧げよう、と村長が言うと、村人達もそれに応じた。足取りも軽く、村の裏手の森へと歩き出す。


 森の奥へと続く道の途中、広場があった。それを右手に見ながら、更に奥に進むと、目指す女神の祠があった。

 去年も目にしているので、驚きも感動もない。そして失望もない。相変わらずボロっちい祠だ。少し大きめのお地蔵さん、といえばしっくりくるだろうか。大人の男の身長より、やや低いくらいの石造りの屋根があり、その中にまっすぐ立つ女性の石像がある。数多の女神のうちでも、最も美しく、最も慈悲深いとされる「祝福」の女神だそうだが、俺にはさっぱりありがたみがわからない。

 というのも、石の屋根にはひび割れがあり、そこから水漏れがあるらしく、長年にわたる降雨と風化の影響で、女神の顔も、ほとんど削れてしまっているからだ。こんな状態なのに、村の連中は、女神像を修理する様子もない。よしんば女神像そのものが神聖で、手を触れるのも憚られるとしても、せめて屋根くらい修理したってよさそうなものなのに。

 ろくに信仰心を持たないのは、なにも俺だけではない。形ばかりの祈りを捧げると、みんなさっさと祠の前を去っていく。ここに来る途中の森の中の広場に、バーベキューの準備が整えられている。そこで若干の酒も出る。


 それにしても、と俺は振り返る。この世界で神といえば、基本的には女神のことらしい。まだ言葉が不自由で、ちゃんとした宗教教育も受けていないから、細かいところは把握できていないが、女神ならば大勢いるのがわかっている。「祝福」「時空」「治癒」など、様々な属性を有した女神達が信仰されており、時折、大人達が彼女らに祈りの言葉を呟くのを耳にするからだ。

 では、この世界に俺を送り込んだあの黒髪の男は? 死後の世界に介入するほどの力を持った存在だ。当然、数ある神々のうちの一柱に違いない。だというのに、ここに至るまで、彼に対する祈りの文句や、彼を祀った神殿といったものをまるで見かけない。

 あの男は、この世界においては何者だったのだろうか。


 西の空が橙色に染まり始める頃、俺はまた、村の広場の木材の上に座っていた。

 前世の記憶と比べてしまうと、何を食べてもまずく感じるのが正直なところではあるのだが、それでも腹いっぱい肉を食えたのは、何よりだった。小さな幸せを感じる。

 だが、あまりに小さな幸せだった。

 周囲には大人はいない。子供達も、みんな村の周囲で遊んでいるはずだ。俺はまだ二歳児ということもあり、本来なら親や親戚が面倒を見るべきなのだが、そこはやはり、不義密通の子という事情もあって、誰も気にとめてはいない。

 その分、気楽ではある。誰にも気を使わず、こうして自分のいたい場所にいられる。

 良くも悪くも、孤独なのだ。しかも、ただの孤独ではない。俺はこの世界の言葉をまだ十分に理解できないし、当然、読書もできない。親兄弟とのスキンシップもなく、同年代の子供と遊ぶといった経験もない。


 俺は、どうしてこんなところにいるんだろう?


 去年のことがあるから、この後、両親がどう行動するか、想像がつく。父親は、もうとっくに泥酔している。このまま一晩中、つぶれるまで酒を飲み続けるのだろう。母親は? こんな日にも、秘密の恋愛だ。

 もともと、祭りの日には、村の外から楽隊や芸人がやってくるもので、そういった連中にとっては、売春もまた、生業の一つだ。祭りの前半だけで、子供が家に帰されるのは、実はそういった理由もある。この日ばかりは、男も女も夫婦の絆を脇に置き、一時の快楽に身を委ねる。

 ところが、近年は村が貧しく、楽隊が足を向ける機会もない。だが、だからといって、人間の基本的な欲求がなくなるわけでもない。

 この辺の話は、実は大人達のひそひそ話を盗み聞きして、かろうじて聞き取れた内容から再構成したものだ。恐らくだが、俺の実の父親も、この手のお祭りの際に村にやってきた、異国の芸人である可能性が高い。でなければ、この髪の毛の色は説明できないだろう。


 そうして、両親からも親戚からも放り出されて、俺はこんなところで時間を潰している。

 まったく、いったい何のために生まれ変わったんだろうか。


 あれから二年が経ったが、あの黒髪の男が口にした、特別な力というやつは、影も形もない。断ち切る力が手に入るとのことだったが、念じても力んでも、何も断ち切れたりはしない。

 もしかして、騙されたんだろうか。それとも、運が悪かったのか。

 いや、そもそも、死後の世界を見た、という記憶そのものが、俺の妄想だったのか。いや、じゃあ、俺の前世の記憶はどうなる? あの三十六年の生涯が、すべて妄想だったとでも?

 ……そんなものかもしれない。実際、俺が地球の日本で過ごした経験が、今、何の役にたつのだろう。世界の彼方から俺が持ち込んだのは、空しさだけだった。


 俺はふらりと立ち上がった。

 どうしよう。どこへ行こう。ここにいても仕方がない。家に帰る? 今夜遅くまで、誰も戻ってこない。泥酔した父が運び込まれ、いろんな男と寝まくった母がこっそり帰ってくるのを待つわけか。冗談じゃない。

 目的地などなく、家とは反対の方向に歩き始める。このリンガ村は、もともと三十世帯くらいが暮らす程度の小さな集落だ。幼児の足でも、まっすぐ突っ切れば、すぐに出て行ける。その向こう側は、森だ。

 日中に通った道筋に従って、俺は進んでいく。右手に広場が見える。昼間のバーベキューは片付けられて、今は中心にキャンプファイヤーの準備だ。ここで残った大人達が酒を飲む。その奥の森の中で、こっそり男女が睦み合う。俺には関係ない。

 そのまままっすぐ歩く。女神の祠の前に来た。夕焼け空の下、祠の中の女神の顔が、黒ずんで見えた。


 俺は、手を突き出してみた。

 今度こそ、何か起きて欲しい。あの女神の首を、断ち切れたらいいのに。

 もちろん、何もなかった。


 そうだ。断ち切るべきは、俺自身の縁ではなかろうか。この村を出て、どこかに行けるなら。

 そんなの、無理に決まっている。少なくとも、今の俺には。これが大人になって、それなりの能力を身につければ、また違ってくるのだろうか。だが、何ができるようになれば、外で生きられるのか。そして、それを可能にする力を、果たしてこの村の中で身につけられるのか。たぶん、冴えない村人として、惨めな一生を終える。それだけだ。

 そんな人生になら、未練はない。

 だが、どんなに自暴自棄になろうとも、自殺をする気にもなれなかった。死の果てにあるものが何なのか、俺は知っている。


 ふと、俺は、祠の向こう側に視線を向けた。

 あの向こう側は、村人が立ち入らない領域だ。つまり、村の外。


 行ってみよう、という気になった。

 普段なら、そんな行動には出ない。森の中にどんな猛獣がいるかもわかったものではないし、そもそもそんなことをしても、利益があるわけでもないからだ。

 だが、今は違った。とにかく、外に出てみたい。この忌々しい村の外を見てみたい。自殺したいわけではないが、自分の行動の結果が死であったとしても、惜しいとは思わない。

 森の中には、夕暮れ時の日差しが差し込まず、見るからに薄暗かった。だが、俺は意を決して、奥へと踏み込んだ。


 足元で、小枝の折れる音がする。随分歩いた。頭上を見上げると、木々の隙間から、なんとか赤紫色の空が見える。星も瞬きだしていた。

 少し離れた場所に、水音が聞こえる。川だ。


 音のするほうに近付いていくと、小さな滝が見えた。落差は一メートルもない。森の奥から流れてくる水は、黒々としていた。透き通るほどに清らかな水には何の色もなく、そのまま川の底を映し出していたからだ。

 流れ続ける水の音は、決して耳障りではなかった。ずっと聞いていても気にならない。それどころか、不思議と気の休まる感じさえあった。

 俺は、近くの丸い石の上に腰を下ろした。


 丈の高い木々が頭上を黒く覆っているのに、不思議と不安にはならなかった。そよ風が吹き、高いところの枝が揺れる。年長者が優しく手を振っているかのような雰囲気だ。ここの闇は、恐怖と不安のそれではなく、安眠をもたらすものなのだろう。

 そして、目に映る景色の変化を、じっと見つめる。ほのかに赤紫色に染まった世界が、徐々に黒ずんでいく。深い藍色に塗り替えられていく。


 変化。息をするのも忘れるほど、美しい変化だった。なるほど、ちょっとした冒険としては悪くない。これだけでも、ここまできた甲斐があった、と思い、立ち上がろうと膝に力をいれる。と、その時、俺の目は、また違ったものを捉えていた。

 小さな光の点が見える。少し離れた場所だ。川の上を漂っているように見える。あれは何だ?


 それは、真っ白な鹿だった。いや、鹿だと思ったのは一瞬で、図体は牛くらいある。だが、頭には鹿のような、トナカイのような角がある。ただ、その角は銀色に輝いていた。

 その動物は、森の奥から突如として姿を現して、こちらをじっと見た。なぜだかわからないが、俺はその瞳に、確かな知性を感じた。

 微笑むような表情を見せてから、鹿のようなそいつは、川の水に足を浸した。そのまま、迷わずまっすぐ俺の横にやってきて、ゴロンと横たわった。それで腹があらわになり、膨らんだ乳房から、牝だとわかった。まったく俺を警戒していなかった。こんな無防備な動物がいたなら、すぐにでも狩人に捕らえられてしまいそうなのだが。

 俺は、おずおずと、その白い毛皮に触れた。動物の表面は、どういうわけか、微かに光り輝いているように思われた。そいつは、目を細めて、また優しげな笑みを浮かべる。

 差し招くように前足を曲げるので、俺は思い切って、背中を預けて横になった。温かい。このまま眠ってしまいそうだ。

 閉じかけた目を、俺はなんとか、もう一度開けた。こんな、外で寝たら、さすがに風邪をひくのでは……そんな懸念が頭をかすめたのだ。

 そこで、俺は目が合った。俺が頭を預けていたのは、白い獣の体の上ではなかった。白衣を身につけた銀髪の、この上なく麗しい女性の膝だった。少女のような清らかさと、慈母のような温かみや落ち着きを共に兼ね備え、不思議な雰囲気を漂わせていた。

 彼女は、俺の視線に気付くと、愛情に満ちた微笑を浮かべ、俺の頭をそっと撫でた。俺は安心して、目を閉じた。


 ……はっとして、跳ね起きる。

 なんとしたことか、いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

 さっきまでの出来事は、夢だったのか?


 だが、すっかり暗くなった空間の向こうに、やはり小さな光点が見える。

 今度こそ正体を見極めようと、じっと目で追っているうちに、気付けば他にもそんな光の点が浮かんでいるのがわかった。これは……

 蛍だ!


 夜になるのを待って、無数の蛍が彷徨い出てきたのだ。温かみのある黄色い光の粒が、そこここに舞って、辺りを青白く照らす。ふと、肌を撫でるような感触があった。俺のすぐ近くを、蛍が飛んでいったのだ。かと思えば、膝のところに止まった別の蛍が、そこで光を明滅させている。まるで人間を恐れてはいないかのようだ。

 ふと、これまでに感じたことのない何かの感情が、俺を満たした。これはなんと説明したらいいのだろう。

 そうか。俺はこの美しい景色を、見ているのではない。俺もまた、この風景の一部なんだ。

 自覚して、はっとした。俺は、安らぎを覚えていたのだ。これまでに味わったことのないほどの。そのことに、俺は根元から揺さぶられるような気がした。


 これをどう説明したらいいのだろう。

 もし誰かが俺の目の前に現れて、その境遇に同情し、励ましの言葉をくれたとしても、きっと反発してしまうだろう。押し付けがましい言葉に耳を傾ける気になど、なれるはずもない。現実は現実なのだから。

 でも、この空間は、そうではない。この景色をどう受け止めても構わない。どんな解釈をしようと自由なのだ。だが、自然と喜びを感じさせてくれる。俺は、内心に生じた「気付き」を、必死で手繰り寄せる。

 そうだ。俺は何も知らないではないか。村のすぐ傍に、こんなに美しい場所があることさえも。もしかしたら、村人達さえ知らないかもしれない。今日、俺がここに来ることを、誰が予想できただろうか。

 さっきまで、俺の心を占めていた絶望は、半ばまで姿を消した。二十年後の俺は、どこにいるのだろうか。この村で、冴えない農民を続けているのではないか。その頃になってもまだ、村中から爪弾きにされているのではないか。今のような惨めな暮らしが、ずっとずっと続くのではないか。

 ……知らないじゃないか。

 今の痛みを消す術はない。だが、未来の痛みをなぜ、今から予約しなければいけないのだろう?


 不思議な場所だ。

 こんなに心が澄み渡るのは、いつぶりだろうか?


 俺は立ち上がり、夜空を見上げた。木々の合間に、金色の月が顔を出し始めている。頭上の星々は、真っ黒な空に白い輝きを放っている。ふと、そこにすっと白い筋が引かれる。流れ星だ!

 一瞬で通り過ぎた光の線は、まるで遊び心から生まれたかのようだ。ほら、今のうちに願い事をよく考えておかないと。次はいつ姿をみせるか、わかりっこないのだから。


 暗がりの中に漂う無数の光に、俺ははじめて、世界の祝福を感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る