昼下がりの情事

 俺を一通り痛めつけた後、彼はまた、いつもの「逃げ場」を探した。酒だ。戸棚の奥に隠された土瓶を見つけると、それを片手に、出て行ってしまった。

 去り行く彼の髪の毛は茶色で、いまも寝室にて運動中の彼女も茶色。ついでに言うと、彼女の相手を務める男も、それ以外の村人も、俺の知る限り、全員が茶髪だ。例外は、老人の白髪くらいのものだ。

 となると、俺の黒髪はどこからきたのだろうか? どうあれ、どこか他所の男との子供であるのは間違いない。普通ならそう考える。それは確かに、夫としては面白くない。また、だからこそ、村の女達も、俺に冷ややかな視線を向けるのだろう。

 だが、もしかすると、この髪の毛の色は、遺伝上の父親のせいではない可能性もある。何しろ、俺は転生者なのだ。自分のイメージを強く保って、この世界に飛び降りた。前世の俺は当然、黒髪だったので、こちらでもそうなったのではないか、というわけだ。


 しばらくすると、寝室の扉が開いた。弱々しい足取りに、充実感あふれる微笑を浮かべた二人が姿を見せる。そのまま、彼女は男を笑顔で玄関まで見送る。その足音がこちらに向かってくる。そこには、ずぶ濡れの俺が座っているだけだ。

 その姿を確認すると、彼女は一気に表情を歪めた。見るからに苛立っている。嫌悪感でいっぱいになりながら、何事かを短く叫ぶ。と同時に、鋭い平手打ちを浴びせてくる。言葉の意味はわからなくても、今のなら、なんとなく理解できる。また部屋を水で濡らして、あんた何やってるのよ! とい言いたいのだろう。彼女は、俺が何かどこかで遊んできて、その汚れを部屋に持ち込んでいると思っている。

 まったく最低の人生だ。これならまだ、前世のほうがマシだった。あっちでも幼児期に同じような体験をしていたかもしれないが、記憶がないだけ、まだよかった。

 それなら、さっさとあの父親の虐待を活用して、あっさり死んでしまえばいい。何度もそう思ったのだが、どうしても一つだけ、捨て切れない未練がある。超能力だ。あの、紫色の風景の中で、素性の知れない男が俺に告げた可能性。「断ち切る」「奪い取る」力って、なんだろう。

 何度も試そうとしているし、いろいろイメージしているのだが、それっぽい何かが起きた試しはない。果たして今、俺の身には、その超能力が宿っているのか、それともまだ、覚醒していないのか。それすらわからない。


 さて、少し早いが、母親はこれから、夕食の準備でもするのだろうか。だとすれば、俺もやっと一日ぶりの食事にありつける。残飯同然のものでも、食えるだけいい。

 そう思っていたのだが、珍しいことに、彼女は俺の着替えを持って戻ってきた。どういう風の吹き回しだろう。そのまま、濡れた服を脱がして、乾いたのに替えてくれる。かなり暖かくなってきたとはいえ、これはありがたい。濡れたままでは気持ち悪いし、風邪をひいてもおかしくない。

 着替えが済むと、彼女は俺を抱えて立ち上がった。かなり重いはずだが、そこは一応、農村の女ということなのだろう。それでも、数百メートルほど離れた村の中心に行くならば、このままでは少し厳しい。

 それで彼女は、背負い袋を持ってくる。俺はそこから顔だけ出す。こんな形で外出するのは、あのお祭りの日以来だ。その前はというと……ちゃんと思い出せないが、半年くらい前が最後だったか?

 ちょっとした高台にある我が家からだと、村を見下ろす形になる。そこを彼女は、ちょっとずつ降りていく。道すがら、我が家で管理している麦畑も見える。もうすぐ収穫だろう。強い日差しに、遠くの木々の濃い緑色が映える。その上には、青い空と白い雲。それに、むせ返るような土と草の匂い。自然環境だけは俺の好みなのだが、いかんせん、周囲の大人が最悪すぎる。

 もうすぐ村だが、しかし、ここでふと、疑問がわいた。必要なものがあって、彼女が外に出る機会もよくある。だが、その場合、俺はいつも留守番だ。となると、今回は俺をどこかに運びたいのか。

 まさか、俺を捨てるとか? あり得そうだとは思ったが、今回は違う気がする。だったら、こんな風に着替えさせたりはしないだろう。或いは逆に、最後だけは着飾らせるとか? それなら何か、甘いお菓子でも口に含ませてくれそうなものだし、直前の平手打ちも余計だと思う。

 そんなことを考えているうちに、彼女はとある家の前で足を止めた。これまた村外れにある、粗末な建物だ。


 俺の母親が何か、声をかけながら、中に踏み入っていく。奥のほうから、しゃがれた女の声で、がさつな口調の返事が聞こえてくる。とりあえずは大丈夫そうだ。親戚の家にでも来たのだろうか? 少なくとも、ここが彼女の実家でないのは確かだ。祭りの日に立ち寄ったから、そこは覚えている。

 家の中は、一転して薄暗かった。外の蒸し暑さと対照的に、ここはすっと冷えていた。人の気配もない。老人の家にありがちな、何かこう、つんとくる匂いが漂っていた。

 大股に歩きながら出てきたのは、見るからに醜悪な、一人の老婆だった。彼女の口元には、いやらしい笑みが浮かんでいる。目も、なにやら熱に浮かされたような雰囲気がある。これは、どういう人種だろうか? ちょっと思い出せない。前世で、これと同じ顔をしていたのは……そうだ! 繁華街にいた客引き。いい娘がいるよ、今なら一時間三千円だよ、などと囁いてくる、ボッタクリバーの客引きと同じ目をしている。

 いやいや、まさか。俺は金なんて持ってないし、母親だってそうだ。これ以上、俺達から騙し取れそうなものなどない。きっとこの老婆は、ろくでもない女には違いないが、俺の敵ではないはずだ。現に今、俺の母親とは、親しそうな雰囲気で軽口を叩き合っている。その気安さといったら、実家に顔を出した時以上だ。これはあれだな、俺の母親にビッチとしての振舞いを仕込んだのは、きっとこいつなんだろう。

 しばらくすると、老婆の関心は、俺に移った。わざわざここまで運んできたのだから、なるほど、彼女のほうから俺に何か、用事でもあるのだろう。俺からすると、まず間違いなく、初対面の相手なのだが。

 彼女はそのいやらしい笑みを浮かべたまま、俺に顔を近づけてきた。何か嫌な臭いがする。煙草のヤニみたいなキツいやつだ。反射的に顔を背けるが、頭を掴まれて、無理やり顔を寄せてくる。

 いったん、俺と距離を空けた老婆は、母親に何事か喋っている。母親も頷いている。すると老婆は、懐から銅銭三枚を取り出した。それを見て、母親は大袈裟に笑ってみせる。ばつの悪そうな表情を浮かべた老婆が、もう二枚、そこに付け足すと、ようやく母親も頷いた。

 そうすると、二人は同時に、俺に振り返った。なんだ、何をする気だ、貴様ら……


 老婆の目は、既に血走っていた。よくわからないが、これはヤバい。絶対、何かひどいことをされる。どうしよう。大声で泣こうか? でも、たぶん、誰も助けになんか、来ない。ここは村外れの小さな家だし、周囲には他の大人もいないだろう。

 母親はというと、意味ありげな笑みを浮かべている。面白がっているのは間違いない。そうこうするうち、老婆の腕が、俺を抱え込む。

 俺は寝室に連れ込まれた。まだ昼間だというのに、老婆は窓を木の板で塞ぎ、代わりに何か、薪のようなものに火をつけた。薄暗いが、これで視界はなんとか確保できる。

 そんな状況で、老婆はにやつきながら、顔を近づけてきた。何をされるんだろう? そう思った矢先だった。


 視界が老婆の顔で埋まる。口元に湿り気が感じられる。俺の口の中を、ミミズか何かを連想させる舌が、ねちっこく這い回っていた。数秒して、やっと気付いた。この婆ぁ、俺のファーストキスを奪いやがった! それも、前世からの通算で!

 何のために? これが例えば、何かのおまじないとか、意味のある行為なら、仕方ない。そもそも、キスという行為の意味が、俺の前世とは異なる可能性もある。だが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。何より、老婆の目からは、歪んだ欲情しか見て取れない。今も彼女は、俺に熱っぽい視線を浴びせつつ、ピチャピチャと音をたてながら、俺の唇を吸っていた。

 嫌悪感に鳥肌が立ちそうになった。顔を背けたくなるが、俺の頭は老婆の腕にしっかりとロックされている。そうでなくても、ベッドの上に仰向けになった俺に対して、彼女は覆いかぶさるような格好だった。自力で立って歩くのもままならない幼児が、撥ね退けられる相手ではない。


 ひとしきり、俺の唇を味わった彼女は、しかし、それで満足しなかった。なにやら猫なで声を出しながら、俺の服に手をかける。それだけはさせまいと、俺は必死で裾を掴んで離さなかった。

 何をするつもりなのか、はっきり理解した。この婆ぁは、初物がお好きなのだ。信じられない。若くて逞しい男がいいというなら、まだしも!

 俺の抵抗に、いったんは体を離した婆ぁだったが、その目付きを見るに、まったく諦めていないようだった。すっと立ち上がり、窓辺に置いた壷に手を伸ばす。中を満たしていた茶色い粘液を手に塗りつけると、残った手で、いきなり俺の髪の毛を掴んだ。

 服を守るのに必死で、頭の方がお留守だった俺は、いきなり鼻の穴に指を突っ込まれた。茶色い薬が、鼻の粘膜に擦り付けられる。その瞬間、なんともいえない刺激と焼け付くような痛みが突き抜けた。

 途端に鼻の穴の中が腫れ上がるのがわかった。息ができなくて、思わず口を開ける。そこにまた、浅黒く骨ばった老婆の手が突っ込まれる。激しく噎せたが、それを気にかける様子など、彼女にはまったくなかった。

 するっ、と手が、下着の中に忍び込んでくるのがわかった。それと悟って身を固くするも、既に遅かった。老婆が手を引き抜いた時には、もうあちこちが火と氷の責め苦に苛まれていた。


 もう、駄目だ。逃げよう。

 そう思って、ベッドから降りようとした。その俺の髪の毛を掴むと、婆ぁはまた引き戻す。乱暴に寝台の上に叩きつけられ、俺は痛みに力を失った。だが、なおも老婆は容赦なかった。逆らった罰なのか、二度、三度と平手打ちを浴びせられた。

 充血した目が、俺を見下ろしていた。だが、もう、俺は息も絶え絶えになっていた。朦朧とする意識の中、不潔な手が俺の服に手をかけたのがわかった。


 こんなの、ひどすぎる。生まれて間もないのに、玩具にされなきゃいけないなんて……


 だが、思考はだんだんともつれ、薄れていく。増幅する痛みが、やがて俺の意識を刈り取った。


 気がつくと、自宅だった。ベッドでなく、床に寝転がされている。既に夕方だった。

 家の壁には、変わらずゴキブリが張り付いている。いまさら、そんなものなど、気にならなくなっていた。

 腹が減った。でも、何も食べたくない。

 あれから、自分に何が起きたのか。何をされたのか。何も見ていないし、覚えてもいない。だが、局所からの疼痛が教えてくれる。俺は……奪われてしまった。


 急に地震でも起きてくれないかな。火災でもいい。洪水でも構わない。俺ごと、この村をぶち壊して、皆殺しにして欲しい。

 もういいだろう。目覚めて欲しい。俺に何か超能力があるのなら。さあ、俺とこの世界との関係を断ち切ってくれ。だめか。


 台所から、煮込んだ野菜の匂いが立ち込めてくる。どうやら、一日ぶりに何か、食事を与えてくれるようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る