第一章 侘しき寒村

素敵な田園生活のはじまり

 そよ風が頬を撫でる。多少の湿気と、みずみずしい植物の匂いが感じられる。どこか懐かしい。

 頭の真ん中に、小さく意識の火が点る。感じ取った刺激によって、俺は深い眠りから急速に目覚めつつあった。池の中心の波紋が、徐々に岸辺に伝わるように、かすかな目覚めが、やがて脳全体に行き渡る。そこから手や足、それに目蓋の状態を確認していく。

 どうやらまだ眠いらしい。目蓋に重さを感じる。いや、これはちゃんと起きてないからだ。一度目を覚ましてしまえば、どうということはない。既に、日光は俺の目蓋を突き抜けて、覚醒を促している。

 思い切って、目を開けてみた。


 まず目に入ったのが、抜けるような青空だった。うっすらと白い雲がかかっていて、それが上空の風に、少しずつ流されている。ありふれた景色、だが、それがこんなに嬉しく思われたことはない。

 視線を左斜め前に移すと、そこには農地が広がっていた。一面の麦畑だ。まだ、青々としているが、背丈だけは育っている。収穫はいつだろうか。まだ少しだけ冷たさの残るそよ風が一吹きするたび、麦達は優しく体を揺らした。

 いい。まったく好みの景色だ。思えば東京で暮らし始めてから、俺には自然と接する機会がなかった。これはちょっと、辺りを散歩して回りたい。

 そう思って、足をバタつかせてみた。……あれ?

 うまく動けない。


 まず、起き上がれない。踏ん張りが利かないのだ。

 手もそうだ。なんだかやけに不器用になった気がする。思い通りに動かせないし、力も入らない。

 せめて座った状態になろうとするのだが、頭がやけに重くて、それすらできない。なんなんだ、いったい。


「××××××××××!」


 すぐ頭の上から女の声が聞こえる。どこかの外国語みたいで、さっぱり意味がわからない。のけぞって、そちらを見てみる。

 若い女だった。この女が、腕で俺を抱えている。だとしたら、彼女はどれだけ大きな……いや。

 俺はなんとか力を振り絞って、両腕を持ち上げてみた。そして、その指先を、俺の眼前にもってくる。

 赤ん坊の手だった。


「××××××××××」


 俺を見ながら、この女は笑みを浮かべてみせた。

 そうだった。俺は、生まれ変わったんだった。


 それにしても、彼女は俺の母親なんだろうか? それにしては若すぎる。顔だけ見れば、色気と愛嬌があって、勝気そうで、軽薄そうな……前世の記憶でいうと、これは、遊んでる女の表情だ。だから、俺の母親ではなく、その妹とか、その他親戚だったりする可能性もある。

 身なりについて言えば、お世辞にも裕福には見えない。彼女の服もそうだし、俺が身につけているのもそうなのだが、布地がやけにボロい。現代日本のキレイな繊維製品を見慣れた俺からすると、歪みだらけの不細工な手作りの品、といった印象だ。

 それに、この女は、これだけ色っぽいのに、ろくに化粧をしていない。肌には多少の日焼けの跡もある。この辺りの農民なのだろうか。髪の毛の色は、茶色っぽく見える。この辺りでは、きっとそれが普通なんだろう。


 これらの情報から判断できそうなことが、二つある。

 まず、俺が生まれ変わった世界、または地域は、文明のレベルが、現代日本より数段低い。農地にはトラクターなど農業用の機械が見当たらなかったし、自動車のような乗り物も、またそういった乗り物が移動できそうな舗装された道路もない。

 そして、俺の生まれた家は、恐らく庶民だ。俺を抱いているこの女が、実は母親じゃなくて、金持ちの家のメイドとか乳母だという可能性もまだ否定しきれないのだが、それにしても、裕福で身分の高い人間なら、実の息子であるはずの俺には、もっといいものを着せるだろう。

 つまり、現代日本から来た俺からすると、貧乏な田舎に引っ越してきて、そこから抜け出せない状態だといえるわけだ。弱ったな。この世界では、コンビニも漫画も期待できない。何を楽しみに生きていけばいいのか。

 だが、悪いことばかりでもない。とりあえずのところ、体に違和感があるとはいえ、どこかに問題があるわけではなさそうだ。前世の肉体は、激務の繰り返しでボロボロになっていたから、それをリセットできただけでも、御の字だ。

 一つだけ気になるのは、この視力だろうか。通常、生まれて間もない赤ん坊には、物を正しく見られるだけの視力がない。眼球には問題ないのだが、脳が未発達なのだ。そうしてみると、今の俺の状態は、どんな感じなのだろうか。子供と大人のミックスみたいな、わけのわからない脳ミソになってしまっているのかもしれない。


 あとは……

 そう、肝心のアレだ。

 俺はいったい、世界の欠片から、どんな超能力を得たのか?

 早速、発動させてみよう。


 ……はあっ!


 何も起きない。

 というか、どんな能力を身につけたかもわからない。

 落ち着いて考えよう。俺は、断ち切りたい、奪い取りたい、継ぎ足したいと願った。だから、断ち切る力が身についているはずだ。

 例えば、目の前の荷車。車輪はゴムじゃなくて、全部木材でできているが……あれを真っ二つにしてみよう。はあっ!


 ……そよ風が通り過ぎていっただけだった。


 いや、いきなりハードルを上げ過ぎたのだ。

 もっと楽なのにしよう。あの荷車の荷台のところに、古ぼけたロープが放置されている。ところどころ、ボロボロになっているので、少し力を込めて引っ張ったら、千切れてしまいそうだ。あれを引っ張ってみよう。はあっ!


 ……そよ風すら吹かなかった。


 そういえば、あの黒髪の男が言っていたな。

 世界の欠片から得られる超能力だが、すぐ発現するとは限らない。必ず発現するわけでもないが、高確率で何かが得られると言っていた。

 あれ? これは結構、厄介なのでは?

 世界の欠片が、例えば今から五年後にやってきて、俺にものすごい超能力をくれたとする。でも、そのことを、誰が教えてくれるんだろう?

 あの黒髪の男か? いや、それは無理だ。こちら側に飛び降りる俺には、目印をつけられないとか言っていた。それが本当なら、奴が知っているのは、俺が今、この世界にいるらしいということだけ。どんな顔をしていて、どこでどんなことをしているかなど、まったくわからないのだ。

 つまり、自分で自分の超能力に気付かなければいけない。俺の願いは「断ち切ること」「奪い取ること」「継ぎ足すこと」だったが、それに関連する何かが備わるんじゃないかと、いつも身構えていないといけない。だけど、どんな形で俺の願いが実現されるかなんて、まったく見当もつかない。

 能力だけもらっても、それがいつ届いたのかも、使い方も教えてもらえないのでは、使いようがないじゃないか。何かのきっかけでもあって、偶然、どんな能力で、どんな使い方ができるか、知る機会があればいいのだが、もし、そういう幸運がなかったりすると……俺はこの、見るからに貧しい農村地帯で、一生、ただの農民として暮らすことになる。

 いや、農民、いいよ? きれいな水と空気、大地の温かみを感じながらの日々の営み。悪くない。これにケチをつけたら、お百姓さんに怒られる。ただ、それでもいろんな意味で現代日本より貧しいだろうし、かなりの我慢は覚悟しなければいけないだろう。

 なんてことだ。ちゃんと考えて、あれこれ確認して飛び降りたつもりだったのに、漏れだらけ、抜けだらけじゃないか。


 俺が周囲をキョロキョロ見ていたせいだろうか。俺を抱き上げていた女が立ち上がって、自宅と思しき木造住宅に向かって歩き始めた。

 家の造りは、前世の感覚でいうと、やはり洋風だった。それでも、農民の住む家として、要求される機能に、それほどの違いもありようがない。和風の家と違って段差がないこと、靴のまま上がりこむ点を除けば、あとは外観が異なるだけだった。

 出入り口に近い、広間兼食堂は、薄暗かった。当たり前だが、窓にはガラスなどついていない。木の板が半開きになっていて、そこから日差しが差し込んでいる。木造のテーブルの周囲に、いくつか椅子が並んでいる。大きさも形も、不揃いだ。その中で、クッションの置かれた一番大きな椅子に、女は腰を下ろした。

 少し歩いただけなのに、女の呼吸は少し荒れていた。体力の衰えの原因は……とすると、やっぱり彼女が母親なんだろうか。しかし、出産後どれだけ経つのかわからないが、こんなに動き回っていいんだろうか。それに、誰か彼女についていてあげられる人はいないのだろうか。現代日本の核家族でもあるまいし、親戚縁者はいないのだろうか。


 少し経つと、三人組の女が訪ねてきた。二人は若く、一人は年寄りだ。三人とも、すすけた灰色のワンピースを着ている。つまり身分としては、俺を抱きかかえている女と同じくらいなのだろう。

 言葉の意味はわからないが、恐らく、年長者から、いろいろな指導を受けているようだ。年寄りの女は、低い、抑揚のない声で、ずっと喋っていた。何かあると、二人の若い女が席を立って世話をした。

 それにしても、雰囲気が明るくない。この三人の女は、母親の親族だろうか? 日本人的な感覚になってしまうが、どういう用事で訪問したにせよ、こういう場合、まずは赤ん坊に向かって「かわいいねぇ」などと笑いかけたりしそうなものではないか。

 いや、文化が違うのかもしれない。よくよく考えれば、この文明レベルだ。抗生物質なんてモノも存在しないだろうし、乳幼児の死亡率も高そうだ。となると、生まれて間もない子供にそこまで愛情を注ぐというのが、そもそもタブーである可能性もある。すぐ死ぬかもしれない息子に、過剰な愛着を抱くのが、感情面でマイナスになる場合もあり得るからだ。

 女達の一人が台所に立ち入って、何か作業をしているようだ。その間、俺を抱きかかえている女は、何もせず椅子に座ったままだ。これはほぼ、確定だな。この女が、俺の母親らしい。

 やるべきことが済んだのだろう。彼女らは席を立って、部屋から出て行こうとした。その時、三人の視線が俺に集まる。


 ……なんだ?

 どうにも、やけに冷たい視線のように感じられる。でも、生後間もない俺が、いったい何をしたって言うんだよ?


 女達が出て行ってから、しばらく、この母親らしき女は、椅子の上でくつろいでいたが、足音に気付くと、身を固くした。大股に歩く、この響きは……男の足音だ。

 その男は、どかどかと、遠慮なく踏み込んできた。くすんだ黄緑色の上着に、色の抜けかけた茶色のズボン。それに、古びた革のブーツ。大柄で筋肉質な体格だと一目で見て取れたが……

 彼は何者だろうか? 見た目だけで判断すると、彼女の夫にしては、年をとりすぎている。だいたい四十歳くらいか。一方、この母親らしき女は、まだ二十歳前といっても通用する。では、父親だろうか?

 しかし、それにしては似ていない。髪の毛の色は、同じく茶色だが、それはさっきの女達とも同じなので、基準にならない。


 ただ、連中との共通点なら、他にもある。それは……

 俺を見る時の、目付きだ。


 男は、一度、俺をねめつけると、大股に女のところまでやってきた。二言、三言、短いやり取りが交わされる。女は、すねたような顔をして、そっぽを向く。突然だった。

 乾いた音がした。男の節くれだった大きな手が、彼女の頬を打ったのだ。

 叩かれた彼女は、冷静だった。そんなの、もう慣れっこだとでも言わんばかりだった。怒鳴ったり、反撃したりはしなかったが、軽蔑と憎悪を込めた視線を彼に向けた。

 男は、一度ひっぱたいたことで、少しサッパリしたらしい。これ以上、女に取り合おうとはせず、台所に踏み込んでいった。女はそれを見咎め、大きな声を出す。だが、男は無視した。何やら家財道具をひっくり返す音がする。

 ややあって、男は姿を現した。そのまま、部屋から出て行こうとする。その手には、瓶が握られていた。

 女が、改めて非難の声をあげる。男は怒鳴り返した。そして、瓶のコルクを無理やり素手で引っこ抜くと、これ見よがしに中の液体をラッパ飲みした。

 瓶に改めて蓋をすると、男はもう、何も言わずに外に出て行った。女の喚き声が後ろから浴びせられるが、知ったこっちゃない。


 これは……アレだ。

 前世でもお馴染みの、俺がよく知ってる世界の風景だ。

 けど、まさかもう一度、コレを体験する羽目になろうとは。


 どうしたものか。生まれ変わって早々に、雲行きが怪しくなってきた。

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