バケツを持った女
増田朋美
バケツを持った女
10月になったのにまだ暑くて真夏のような日が続いている。本当にこの頃はなぜこんなに暑い日が続いているのだろう。そんなわけで、体調を崩す人が大勢いる。中には、本当に体調を崩しているわけではなく、心の疲れが原因で体調を崩している人も居るのだ。でも、そういう人だって、一人の人間であるはずだ。それは間違いない。
その日、ジョチさんが管理している製鉄所という福祉施設に、新しい利用者が来た。名前は星野節子といった。年は、一応30代と聞かされていたが、とてもそうには見えなかった。というのはそれほど服装が派手であったからである。本人は何も言わなかったが、一緒に来た彼女の母親は、若い頃は素直ないい子だったのに、父親が、本を出してベストセラーになったせいで、それで父が不在になったことから、家の中で暴力を振るうようになってしまったと言っていた。その父親が出した本とはどういうものなのかと聞いてみると、五目並べの攻略本だということだ。確かに、大した本では無いけれど、それのせいで、父親はえらく忙しくなってしまったという。
母親は、それだけ話してあとはお願いしますと言って、そそくさと帰ってしまった。星野節子さんは、そうやって帰って行ってしまう母親を、寂しそうな目で眺めていた。
「それでは、星野節子さん、こちらを利用してもらうに当たって、いくつか条件をお伝えしますね。まず、ここのルールですが、利用時間は、午前10時から、午後17時まで。その間であれば、勉強しても良いですし、なにか仕事をしていてくれてもいいです。そして、これは皆さんに必ず行っているんですけど、ここは終の棲家ではありません。だからいずれは出て行ってもらう。刑務所では無いのですから、終身刑ということはありません。」
とジョチさんが言うと、
「はい。そうなんですね。でも私、何もすることがない。」
と節子さんは答えた。
「することが無いというのは、大きなチャンスです。変わる可能性があるとか、そういうことの前触れですから。することがないのであれば、公民館などで行われている講座などに参加してみてはいかがでしょう?」
ジョチさんが言うと、
「いいえ、私にできそうなものは何もありません。」
と、彼女はすぐに言った。
「なぜ、そう思うのですか?」
とジョチさんが言うと、
「だって私は、、、。」
と彼女は話したそうだったが、その前に感情が高ぶってしまって、まだ成文化できない様子だった。そういうときなら、落ち着くのを待つしか無い。
「無理して言わなくてもいいです。そのせいで、衝動的なものがあっては困ります。それより、なにか新しい事を見つけましょう。それが、あなたの今の苦しみから、逃れる手段だと思います。」
ジョチさんが言うと、
「新しいことなんて、できそうな事は、なんにもありません!何をやったってどうせ、、、。」
と彼女は、湧き上がってきた感情を自分で整理できないようであった。そうなってしまう人は珍しいことではない。ジョチさんは、
「そうですか。わかりました。まずは、こちらでゆっくり休養していてください。それであなたの気持ちが落ち着いたら、あなたがなぜ、そのような厭世観を持ったのか、ちゃんと話してくださいね。」
と静かに言った。
「そうなんですね。」
と、節子さんは珍しそうな表情で言った。
「お父さんのしごとの邪魔になるからとか、そういう事は一切言わないんだ。」
「ええ、いいませんよ。だって言う必要はありませんから。ここでは間違いなくあなたが主役ですからね。ご自宅ではお父様を中心に回っているような事もあるのかもしれませんが、それはご自宅だけのことです。それ以外の場所では、何もありません。」
ジョチさんは、そういうと、
「そうなんだ。変わった人が居るものですね。私に、私が主役なんてそんな事言ってくれるんなんて。」
と、節子さんは言った。
「ええ。何度でも言えますよ。それは事実ですよ。だから、そのとおりに言えるんです。」
ジョチさんは、にこやかに言った。
「まあとりあえず、ここでしばらく休んでいらしたらどうですか。それで、また何か新しいことに進めるきっかけができてくれるかもしれませんよ。」
そう言ってジョチさんは、彼女を食堂に案内した。食堂には、利用者が二人いて、二人で学校の宿題をしていた。確か二人は、通信制の高校に通っている。それぞれの学校は違うところに言っているが、入学した時期が同じなので、お互いに勉強を教え合うことができるようになっていた。二人は、ジョチさんがやってくると、勉強の手を止めて、
「ああこんにちは、新しい利用者さんが見えてくれたんですね。ありがとうございます。まだまだなれないところもあると思いますが、楽しい事もありますので、のんびり過ごしてください。」
と、言って、にこやかに星野節子さんを見た。節子さんは、楽しそうに勉強をしている二人を見て、
「どうしてこんなに楽しそうに、勉強したり、学校にいったりしていられるの!」
と声を荒らげていった。そして、食堂から続いている台所に飛び込み、そこにあったバケツに一杯の水を入れて戻ってきて、勉強をしている二人に向かって、バケツの水をぶっかけた。
「何をするんですか。それはやってはいけないことでしょ。」
とジョチさんは声を荒らげずに言ったのであるが、節子さんはまた水道に行って、バケツに水をために行ってしまった。実は足が悪いジョチさんは、彼女のスピードには追いつけなかった。結局、ジョチさんを含めそこにいた人達は、何度も、星野節子さんに、バケツの水をぶっかけられる羽目になった。それを三回繰り返して、ジョチさんはいい加減にしろと言おうとしたその時、眼の前を、銘仙の着物を着た男性が横切った。彼は頭から水を被ったが、それもひるまないで、バケツを持っている鬼女をそっと抱きしめた。
「ちょっと!何するのよ!」
鬼女はそういうのであるが、水穂さんはそのまま抱きしめ続けた。それを続けていると、彼女の腕からバケツが落ちて、床を転がっていった。やがて鬼女の怒りのエネルギーは、どこかに行ってしまったようで、鬼女はそのまま幼児のように泣き出した。
「私、私、どうしてこんな事!」
「こんな事と言っても、これはあなたがしたことですからね。こちらの二人の勉強道具など、しっかり弁償してもらいますからね。」
ジョチさんが濡れた羽織を脱ぎながらそう言うと、
「それはやめてくれませんか。彼女が悪いわけではありません。悪いのは、彼女にそういうふうにするようにと仕向けた彼女のまわりの大人です。」
と水穂さんは細い声でそういうのだった。
「しかしですね。しでかしたことが、重大なことですからね。勉強をこうして台無しにしたということは、紛れもない事実です。それを弁償してもらうのは、大事なことだと思うのですけど。」
ジョチさんがそう言うと、
「ええ、たしかにそうかも知れません。ですが、彼女が信じられないほど傷ついているのも確かですよ。人間には、自分の力ではどうにもならないことがあるのは、僕たちはよく知っているじゃありませんか。だから、事件が起こることだってあるわけでしょう。そうならなくて良かったと思うことにしましょうよ。事件が起きてからでは遅いんですから。」
と、水穂さんは優しく言った。
「そうですね、では、我々は一度洋服や着物を変えてきましょうか。濡れたままでは、お話も聞くことができません。」
とジョチさんはそう言って、被害にあった二人の利用者に、服を着替えるように指示を出して、自分も応接室に行って、着物を着替えて、食堂へ戻った。他の利用者もすぐに着替えにいったが、水穂さんだけは濡れたままそこに残り、そっと彼女の手を握っていた。水穂さんは、星野節子さんに椅子に座るように言った。ジョチさんが戻ってきて、水穂さんお疲れではないですかときくが、本人は大丈夫だと言った。別の利用者が戻ってきて、
「水穂さんは静かに休んでくださいよ。そんなやつれた体では、大変すぎますよ。」
と、水穂さんに言ったのであるが、水穂さんはそこから動かなかった。
「それで、今回は、ちゃんと話していただけますか?あなたがなぜ、学校へ行っている人間を、憎むようになったのか。それをちゃんと話していただかないと、弁償は免除することはできませんよ。」
と、ジョチさんはいうと、
「あなたが、最後まで言えないなら言えないでいいんです。言えないなりに話してください。詳しく語らなくていいですから、概要だけでも話してくれればそれでいいです。」
と、水穂さんが彼女を擁護した。
「ごめんなさい。私、学校に行きたいっていう気持ちがあったんですけど、親が、いつもいいたいときに、私のそばにいないんです。」
泣きながら、星野節子さんは言った。
「そうですか。それはどういうことですか?なにか言いたいことがあるのに、親御さんがそばにいないということですか?具体的に、親御さんはどうしていないのでしょう?」
ジョチさんがそう言うと、
「仕事でいないんです。父は、原稿の事で忙しくて、母は、自分の仕事で忙しいのです。」
星野節子さんは言った。
「父の書いた本が大ヒットしてしまってから、父は続編を書くのに忙しくて、家の中ではいいアイデアも出てこないからって、図書館とかそういうところに行ってしまうし、母は、その間保育園のしごとが忙しくてやはり外へ行ってしまうんです。」
「はああ、なるほどね。」
と、ジョチさんは言った。
「あなたは、ご両親に私の話を聞いてくれと訴えたことはなかったんですか?私だって勉強したい、どこか学校に行きたいって、ご両親に言った事はなかったんですか?」
水穂さんが優しくそうきくと、
「ええ、私何度もいいました。ですが、父も母も何もしてくれませでした。その間に、原稿を求める人は、どんどんやってくるし、母は、そういうことの応対とかできる人ではありませんから、無駄だと思います。」
節子さんは、小さい声で答えた。
「そうですか。それなら諦めましょう。そういうことができる人では無いと思って諦めてください。僕も足が悪いので、あなたのように敏捷には動かせません。まわりの人達がそうしてもらったとしても、うちの家はできないと諦めてください。それなら、もう親を捨てるというか、もう意識から切り離してくれていいです。そしてあなたはあなたで新しい事を始めましょう。」
ジョチさんは、リーダーらしく言った。節子さんに水をぶっかけられた二人の利用者も、
「そうね、そうしたほうがいいわ。そんなことしかできない親は、まあ、だめな親というか、何もする資格はないのよ。」
「あたしもそうするなあ。だって親にしてみたら、出ていってくれたほうが、せいせいするのかもよ。」
と、彼女を養護するのである。
「でも待ってください。彼女は、そういうことが可能と言えるでしょうか?だってまず始めに住むところもないんですし、それに必要な、お金を稼ぐことだってできないでしょう。まず初めに、会社につくことも大変難しいと思います。そういう事は、僕たちには、どうしようもないですよね。」
水穂さんが、小さな声でそういった。
「そうかも知れないけどさ、そんな親として基本的なことができていない家族のところにいつまでも居させても、彼女が可哀想だと思うんですけどねえ。」
利用者がそういった。
「経済的なことをちゃんとしなければ、そういう事は、できないと思いますよ。しっかり働いて自分で自分のものを稼ぐというのは、非常に難しいものですよね。それができる能力のある人ばかりではないですからね。」
水穂さんがそう言うと、
「だけど少し両親から離れてみてもいいかもよ。学校へ通うとか、そういうことはできないかしら?何なら私が、今通っている学校の先生に聞いてみましょうか?」
と、別の利用者が言った。
「そうかも知れないですけど、学校は保護者の同意がなければ、何もできませんよ。」
ジョチさんが言った。
「他にあなたにできることは無いですか?なんでもいいです。どんな小さなことでもいいから、なにか話してください。例えば、親御さんが頻繁に家を留守にしていたとき、あなたは何をしていたのでしょう?」
水穂さんがそう言うと、
「ええ。何もしないで、部屋でぼーっとしていました。何にもする気にならないし、ただ、スマートフォンでテレビを見るとかそういうことしかできなかったわ。」
節子さんはそう答えた。
「でも、絶対それ以外の事もしていたはずなんですよ。そうでなければ、そうしなければあなたは今ここには居ませんからね。あなたは、どんなに嫌でも食べることはしていたはずですよ。それはどうやって確保していたのですか?コンビニで買っていましたか?それとも、なにか作って食べていましたか?」
水穂さんはそういった。彼女は少し考えて、
「コンビニで買っていました。」
と、小さい声で言ったが、
「そうですか。ですが、あなたが住んでいるところはどこでしょう?」
とジョチさんが言うと、
「はい。市内北松野です。」
と、彼女は答える。
「その北松野というところに、僕は訪れたことがあるのですが、あそこは、確かものすごく田舎で、コンビニに行くにも1キロメートル弱は離れているように思いました。コンビニに買いに言ったということは、あなたは毎日、1km弱歩いて行ったのですか?」
ジョチさんはすぐに彼女の話しにはいった。
「いえ、そのような体力は全くありませんでしたから、冷蔵庫にあるものを片っ端から集めてなにか作ってました。と言っても、チャーハンとかスープとか、そういうものですけどね。そういう簡単なものしかできないんですけど。」
そう、星野節子さんは言った。
「そうですか。それなら、ぜひ、やって欲しいことがあるんですけどね。」
ジョチさんは、そう言って、手帳を取り出し、そこの電話番号を書いた。
「ここへ電話して、料理を作るかかりとして使ってもらうように言ってくれませんか?このあたりでは、インスタント食品しか食べられない、そんな人間も大勢居るんですよ。」
ジョチさんはそう言って電話番号を彼女に渡した。
「無理です。そんな料理の仕事なんてやった事無いし、それに車に乗れないから、通勤する手段もありません。それに勝手に仕事はじめたら、親になんて言われるか。それを考えたら、もう何も言えませんよ。」
彼女は驚いてそう言うが、
「でもどこかに居場所を見つけないと、あなたは、一生だめになってしまうと思いますけどね。それでは嫌でしょう。あなたもあなたの世界を持ちたいとは思いませんか。それに、いつまでも自宅に居るわけにも行かないでしょうから。」
とジョチさんはすぐに言った。
「それに、親御さんがあなたに何も手を出せない状態なのであれば、逆にそれを逆手に取ってもいいのではないかと思いますけどね。そうやって世の中は何でも別な面で見ることが可能でもありますよ。」
水穂さんがそう言うと、利用者二人も、
「そうよ。あたしたちも、はじめは居るところがなくて、悲しかったけど、居場所が見つけて嬉しかった喜びは知ってるし、人生楽しんだものが勝ちよ。」
「なにか居場所があって、楽しい事するのは悪いことじゃないわよ。それは、本来なら、社会が提供してくれたらいいんだけど、今はどこにも無いから、自分で探しに行かなくちゃだめなのよ。」
と、彼女に言った。星野節子さんは、渡された紙の番号を見た。それは、ある寺院の番号で、そこが恵まれない人に食事を提供しているサービスを行っていると言う。
「とりあえず、行ってみたらどうですか。できることは無いかもしれないけど、なければないでまた次の手を考えればいいと単純に考えればそれで良いと思いますし。」
と水穂さんが言った。星野節子さんは、そうですね、、、と小さい声で言った。
「私が、恵まれない人のために、こんな活動をしても良いものでしょうか。私自身が、全然何もできていないのに、人のために働くなんて。」
「まあ、そういう見方もありますけどね。でも、一度社会から弾き飛ばされた経験も、役に立つときが来るのではないかと思うんですけどね。」
と、ジョチさんはすぐに言った。
「だから、人生経験したことは無駄なことは無いと思うんですよ。」
「そうですか、、、。ゴメンなさい私、何やってるんだろ。みなさんが勉強していたら、急に怒りが湧いてきてしまって、なんか邪魔してやろうという気持ちになってしまって、それであんな事してしまいました。皆さんの、被害に合われた、ノートや鉛筆は、必ず弁償しますから。」
そう言って、星野節子さんは、二人の利用者の前で手をついて謝罪した。やっと事件の概要を本人が口に出して言えた瞬間だった。
「いえ良いんですよ。あたしたちだって、そういう気持ちになった事はあるし、それはみんな同じことだから、ただ大小の違いがあるだけよ。気にしないで、子供食堂で働かせてもらって。」
「そうそう。それにあたしたちは、誰にも気持ちをわかってもらえなくて、結局、おかしくなるしかなかった時期もあったもんね。」
二人の利用者は、そう言って、彼女の謝罪を笑って退けた。彼女は、その間にもずっと自分のそばに居てくれた水穂さんに、
「あの、そばに居てくれてありがとうございました。あたし、そうして貰えなかったら、絶対こうして穏やかに話すことなんてできなかった。ただ居てくれるだけでいいから、そばに居てくれる人が居るなんて、ほんとにあたしは恵まれてますね。ありがとうございました。」
と、丁寧に頭を下げて謝罪した。水穂さんは、やつれた顔でそっと微笑んで、
「大丈夫ですよ。今度はあなたが、そうやって悩んでいる人達のそばに付いていてあげられる立場になれるといいですね。苦しんでいる人達にとっては、同じ境遇である人達の言葉ほど嬉しいものは無いですからね。」
と、言ってくれたのだった。ジョチさんは、水穂さん早く着替えろと言ったが、水穂さんは小さな声でハイと言っただけだった。
バケツを持った女 増田朋美 @masubuchi4996
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