第17話

「先輩にとって私って必要ですか?」

「どうして?」

「どうしてって……、不安になったからですよ」


 こんな返し方をしたらウザがられるのくらいわかっている。

 ただ花音にああ言われても無条件でなぎ先輩のことを信じられるほど私も強くない。


「そう、不安ね……」


 そう独り言のようにつぶやくと、凪先輩はようやくペンを動かすのをやめた。


「不安、ですよ」


 彼女はなにか思い出したかのように小さく笑うと、私を手招きした。

 その時の声は普段の何倍も優しくて、付き合いたてで幸せだった頃の話し方だった。


「おいで、真保まほ


 彼女の隣に正座をすると、彼女はすぐに私のことを抱きしめた。

 同じ強さで抱き返すと、服越しのはずなのに先輩の体温が伝わってきてなんだか心地いい。


「不安にさせてごめんね、大丈夫だから」

「なら私は必要ってことですか?」

「そう、だよ」

「必要なんですか?」

「そうだって」


 先輩が今どういう顔をしているかはわからない。

 ただ耳元で聞こえてくる先輩の声のトーンから、いくら聞いても絶対「必要」という言葉が出てこないのくらい簡単に分かった。

 やっぱり私必要とされてないのかな……。


「大好きですよ、凪先輩」

「ありがとう、真保」


 私の周りは凪先輩のまとった甘い香りが漂っていたが、多分どんなに甘い香りがしても好きという言葉だけは出てこないのだろう。

 もしかしたらこのままき続ければ根負けして好きと言ってくれるかもしれない。

 ただ私のほしい好きは、そんな好きではない。


 ねぇ、先輩はどうやったらもっと私のことを必要としてくれますか?

 どうしたら私のことを好きになってくれますか?


「先輩?」

「なに?」

「私とお姉ちゃんの違いってなんですか?」

「なんで?」

「お姉ちゃんがいたら私は必要ないですか?」


 今めんどくさいことを訊いていることぐらい私にもわかる。

 多分先輩が訊かれたくないことを訊いているということも。


「どうしたの急に……」

「私でいいじゃないですか、お姉ちゃんより私のが役に立ちますよ?」

「真保?」


 先輩は不思議そうな声で尋ねてくるがもう止まらない。

 一度口に出してしまった不安は坂道を転がる岩のようにどんどんとスピードを増し、コントロールを失っていく。

 理性はこれ以上言ったらいけないと警告を出しているのに。

 お姉ちゃんが自発的に凪先輩から離れてくれれば十分だったのに。

 ダメだ。

 これを言ったら私の下からも離れてしまうかもしれない。

 けど、私だけを見てくれないなら。


「お姉ちゃん浮気してますよ? いいんですか、そんなのが彼女で。私なら浮気なんかしませんよ」

「相手は?」

「相手は……」


 ここで私の名前を出したらどんな反応するんだろう。

 殴られるかな?

 それともあきれられて終わりかもしれない。

 私の名前を出してもお姉ちゃんが好きとか言わないよね?

 そのまま黙っていると、先輩は小さく息を吐き言った。


「言えないならいいよ、言えるようになったら教えてね」


 先輩は何度か私の背中をでてくる。

 ただ違う。

 そんなことがしてほしいんじゃない。


うそだと思ってます?」

「思ってはないけど、わざわざ確かめる気もないよ」


 絶対嘘だ。

 私の言うことってそんな信用ないの?

 少しぐらい、信じてよ。

 動揺するふりぐらいしてくれたっていいじゃん。


「私が相手って言ってもですか?」

「……そうだねぇ」


 それを聞いたとき、先輩が私を抱きしめる力が少しだけ強くなった気がした。

 ただすぐに元の自然な力に戻る。


「真保はさ、私にどうしてほしいの?」

「どうって、お姉ちゃんと別れてまた私と付き合ってください。私ならなんでもやります。先輩のこと拒みませんしずっと先輩に必要な彼女でいます」

「ちとせとね……」

「好きなだけストレス発散してくれてもいいですし、深夜の通話だって日が昇るまでしたいなら付き合います。だから――」


 先輩は耳元だからようやく聞こえるぐらいの小さなため息を吐くと、言った。


「ごめんね」


 どういう意味のごめんねなんだろうか。

 今の私に誰に対しての「ごめんね」ですかと聞く勇気があれば……。

 ただきっとお姉ちゃんと別れることに対するごめんねではなく、私の要望が応えられないことへのごめんねだと思う。

 なんとなくわかるけど、私に対してだとしてもぼかさずに言ってほしかった。


「先輩。これが最後でいいのでキスしてくれませんか?」

「なんで?」

「だってこの間はいきなり私のこと振ったじゃないですか、心の準備もさせずに。ならせめて最後ぐらいはきれいに終わりたいです」

「ならこれが最後ね。わかった」


 ぎゅっと目を閉じると、だんだんと口の中が先輩の味で満ちてくる。

 お姉ちゃんとは違う、私が欲しいと思っても簡単には手に入らない味。

 だんだんと薄くなっていく先輩の味に一抹の寂しさを覚えていると、先輩に尋ねられた。


「これでいい?」

「もっとしてくださいって言ったら怒りますか?」

「いいけどさ、目つぶってくれない?」

「私、キスするなら座ってするより横になってする方が楽なんですけど?」

「どういう意味?」

「お姉ちゃんには黙ってますよ」


 それを聴くと先輩は大きなため息をついた。


「一回だけだよ。勉強も残ってるし」

「わかってますよ」


 私が勢いよく引いた遮光カーテンの音が響いたあと、部屋は一気に静まり返った。


 ◇


 カーテンの隙間から入り込む光以外真っ暗な部屋の中で、私たちの会話だけが浮かびあがる。


「先輩ってお姉ちゃんのことも殴ってます?」

「殴ってないけど」

「よかった」

「殴ってほしいなんていうの真保だけだし」

「だって、先輩って殴ったあといつも優しくしてくれるじゃないですか」


 さっきから先輩はずっと私のことを抱きしめていて、私が動こうとしてもその手が緩むことはなかった。


「殴られると痛いじゃん……、そりゃ優しくなるよ」

「まあ痛いですけどね。けど私は先輩と同じ痛みを味わえるだけで幸せですよ、半分こしてもらったみたいで」

「最近はそんな痛いことないよ、前より成績も上がってきたし」

「ならいいんですけど、期末テストも頑張ってくださいね」

「ありがとう」


 先輩を抱き寄せようかと腕を伸ばしたところで、鈍い痛みが走った。


「真保? どうしたの?」

「いやなんでもないです、大丈夫」


 先輩にバレたら必要以上に気にしてしまうかもしれない。

 私が頼んだんだし、変に責任を感じてほしくない。


「腕痛い?」

「だから、大丈夫だって」


 そっと腕に重ねられた先輩の手を振り払おうとするだけで、痛みで腕が動かせなくなってしまう。


「ダメじゃん。氷取ってくるから待ってて」

「私もいきます」


 大丈夫だよね……。

 骨とか……。

 けど私が頼んだんだし病院とかいけない。

 きっと大丈夫。

 いつもこのくらいの痛みははずだし。

 大丈夫。


「真保、本当に平気? 腫れたら病院とか――」

「大丈夫、ですから。いつもと同じです。いつもよりちょっと痛いだけで……」


 心配そうな先輩の声に

 多分大丈夫だから。

 もし誰かにバレたら先輩に会えなくなる。

 そんなのは嫌だ。


「それに痛くしてって先輩のことあおったのは私ですから」

「ならいいけど、私はなにかあった時行ってくれた方がうれしいよ」


 私の返事がないことを察したのか、凪先輩が冷凍庫から氷を取り出し始めた。

 たったそれだけのことなのに黙々と作業を進める先輩は美しく洗練されているように見えた。

 ああ、やっぱり離したくないなぁ。


「ねぇ先輩。最後って取り消してもいいですか?」

「なんで?」

「だってああでも言わないと先輩私としてくれなかったでしょ」


 あの時の先輩にキスをせがんだところで適当にあしらわれて終わっていたと思う。

 ただ多分少なからず先輩にも私を振ったという負い目はあると思っていたので、うまくいってよかった。


「まあね……。ほら」

「ありがとうございます」


 適当に作った氷嚢ひょうのうを腕に押し当てると、痛みが吸い取られていく感じがしてどこか気持ちがよかった。

 先輩からもらった痛みが消えちゃうのは嫌だけど、私が欲しいのは痛みじゃなくて私を必要としてくれる先輩だからな。


「また来てもいいですか?」


 今更になって殴った罪悪感を覚えているのか、借りてきた子猫のように静かになっている先輩に話しかける。

 ただよっぽど思い詰めているのか、なんの反応も帰ってこない。


「せーんぱい」

「あ、ごめんなに?」


 もらった氷嚢を軽く腕にぶつけるとようやく反応してくれた。


「私、凪先輩のことが好きなのでまた来ますね」

「いいけど、もう殴るのはやめたい。普通の先輩後輩じゃダメ?」


 普通の先輩後輩、か。

 さすがに今回のはやりすぎちゃったかな。

 まあいいや次があるならどうとでもできる。

 ここで「もう会わない」とさえ言われなければ、私たちの関係は変えさせない。


「わかりました、ならまた勉強教えてください」

「いいよ」

「先輩後輩の関係になっても私は先輩のこと大好きですよ」


 珍しく玄関まで見送りにきてくれた先輩を抱きしめる。

 抱き返す中で数滴のしずくが首筋に当たった気がした。

 その涙は私のためにこぼしてくれたと思っていいんですよね。 

 そんなことが確認できるわけもなく、私はゆっくりと扉を閉めた。

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