第18話

「ただいまー」


 真っ暗な玄関の明かりを手探りでつけると、お姉ちゃんの靴だけが置いてあった。

 まあまだそこまで遅いわけじゃないし、お父さんもお母さんも仕事かな。

 リビングの電気もついてないみたいだし。


 同じく真っ暗なリビングを通りキッチンまで行くと、冷えたミネラルウォーターを一本だけ取り出す。

 半分ほど飲むと、それをもって二階に上がった。

 お姉ちゃん自分の部屋かな?

 階段を上り終え廊下を見ると、お姉ちゃんの部屋からかすかに光が漏れていた。


「ただいま」

「あ、お帰り」


 お姉ちゃんは私が声を掛けると、必ず手を止めてこちらを見てくれる。

 勉強に集中してるなぎ先輩の姿はかっこいいから好き。

 ただなにか話しかけた時に反応してくれるのはやっぱりいいな。


「お姉ちゃん勉強順調?」

「あーまあまあかな」


 まあまあか……。

 ならまだ大丈夫かな。

 正直高校受験の時のお姉ちゃんが怖かったのは覚えてるけど、明確にいつから私に当たるようになったかは覚えていない。

 あの時日記でも書いていればよかったんだけど、嫌な思い出は残したくないし。

 それに日記を書いたところで3日と持たず終わるだろう。

 最近は毎日お姉ちゃんの勉強の進み具合をきながら機嫌をうかがっている。


真保まほは?」

「あー私は……」


 どうしよう。

 今日わからないところを凪先輩に教えてもらおうとは思ってたんだけど。

 花音かのんも来てバタバタしてたし教えてもらえなかったんだよなぁ。

 何度が口をパクパクと動かしていると、何かを察したのかお姉ちゃんは口を開いた。


「なにかわからないところあればまた教えようか?」

「お姉ちゃんは勉強大丈夫なの?」

「まあ息抜きにもなるしね、真保が嫌じゃなければ教える」

「じゃあ教えてもらっていい?」

「いいよ、ここで教えたのでいいよね?」


 お姉ちゃんは半分ほど横にずれると、私が教科書を広げられるスペースを作ってくれた。


「ありがとう」

「いいよ。で、どこがわからないの?」

「ここかな……」


 回答が途中で止まってしまっている問題を見せると、自分のノートにも同じ問題を書き写す。

 お姉ちゃんのペンは迷いなく動き続け、すぐにノートには印刷したのかと思うくらいきれいな字が整然と並びだした。


「多分ね、真保はここでつまづいてると思うんだよね――」


 少しだけ私の方に身体を寄せると、解説を始めてくれた。


 ◇


「疲れたーっ。どうする真保? 一回休憩にする?」

「あーそうしようかな」


 持ってきたペットボトルを見ると、もう底1センチほどしか水が残ってない。

 勉強中はつい飲んじゃうけど、いつの間にかこんなに飲んでたとは……。

 途中から変な態勢で話を聞いてたのか、少し動くだけで背中が痛い。

 固まっちゃったかな……。

 たまにはストレッチとかしないと。


 お姉ちゃんに釣られて私も大きく伸びをすると、お姉ちゃんの視線が固まっているのに気が付いた。

 何見てるんだろう?

 なんとなくその視線の先を追ってみると、私の伸ばした二の腕とぶつかった。


 あれ?

 そういえばこっちの腕ってさっき凪先輩にやられた方だっけ……。

 腕上げなきゃ半袖でもバレないと思ったのに、なんでこんなことしちゃうんだろう。

 バレてないよね?

 きっと。

 何事もないかのようにゆっくりと腕を下すと、なるべく平静を装って言った。


「ごめんね、外歩いてきたせいかべたついちゃって……。ちょっと着替えてくる」


 大丈夫、お姉ちゃんが何も言わなければ何もバレない。

 長袖さえ着ちゃえば、腕見せてって言われてもめくりたくないとか言えるし。

 ただこれじゃあ花音の時と同じじゃん。

 全然学習してない。

 自分に悪づきたくなるのを何とか堪えながらドアノブを握ったところで、腕をつかまれた。


「おねえ、ちゃん?」

「腕、どこかにぶつけた?」


 私の手首つかんだお姉ちゃんの手はしっかりと握られていて、振りほどける気はしない。


「あーぶつけたかも……」

「よく見せてもらっていい? 座って?」

「いや、大丈夫たいしたことないし」

「いいから、座って」


 言い方自体はふんわりと優しいものだった。

 ただお姉ちゃんの語気からは明らかに普段とは違う感情が漏れていたことぐらい私でもわかる。

 こうなったら黙って座るしか選択肢は残っていない。


「はい」

「腕見せて」


 見せるならせめてあざが薄くなってる腕の方がいいよね。

 それならだいぶ前のことだしって誤魔化せるかもしれないし。


「反対なんだけど……。ってこれなに?」


 大きく息を吐きながら私が差し出したほうの腕を掴む。

 お姉ちゃんは少しだけ袖をめくると、驚いたような声を出した。

 え、そっち側って治りかけじゃなかったっけ?

 そんな驚くような傷とかあった?

 そっちは殴らないでと先輩に頼んだのを思い出しながら自分でもよく見てみる。


 すると全体的に黄土色のような感じになっていたが一部赤黒い新しいあざができていた。

 そのあざはちょうど指のような形をしていて、私にあざを付けた指の心当たりは一つしかない。

 花音の馬鹿。

 心の中で毒づいたが、今更文句を言ってもどうにもならない。

 そんなことよりどうしよう……。

 凪先輩の名前は絶対に出せないし、花音の名前も出さないほうがいいよね。

 お姉ちゃんが花音に何か訊いてばれても嫌だし。


「ねえ真保。何したの?」

「いやなにって……、多分ぶつけただけだよ……」

「じゃあ、反対側も見せて」


 お姉ちゃんは反対の袖にもゆっくりと手を伸ばしてきた。

 多分反対側はもっとやばい。

 一応冷やしたら痛みは落ち着いたけど、絶対こっちよりひどい見た目になってる。


「なにもないって……、お姉ちゃんの気のせいじゃない?」

「私の気のせいならいいけど、普通にぶつけたんじゃつかないようなあざだった気がするし、確認だけさせてよ……」


 お姉ちゃんは穏やかに聞こえる口調で話してはいるが、言葉の端々から絶対に逃がさないという強い意志を感じる。

 早く離れないと。

 見せる前ならどこかにぶつけたでも何とかなると思う。

 けど形まで見られたら言い訳できる気がしない。


「いやほんと大したことじゃないし、私も気づかなかったからさ」


 どんなに言葉を重ねようとも私の腕を掴んだお姉ちゃんの手が緩む気配はない。


「ごめん、私全然真保のこと見れてなかったよね……」


 確かに見られてるとは思ってなかったけど、なんでこんな時に限って……。

 今は放っておいてよ。

 もうお姉ちゃんが見てくれなくても凪先輩は見てくれるし、壊そうとしないでっ!


「別に気にしてないよ。だから気にしなくて大丈夫だって」

「ねえ真保のそれ、わざと自分でつけた?」

「え、なんで……?」


 尋ねてもお姉ちゃんは目を逸らして、応えてくれる気配はない。

 自分から訊いてきたくせに……。


「ねえなんでって訊いてるんだけど」

「……別に」


 さっきまで私への心配しか浮かんでいなかったお姉ちゃんの表情の中に、今まで見たことないような得体の知れない感情が混ざりだした。


「別にって何それ?」

「なんでもない……。ごめんやっぱ自分の勉強したいから出てって」


 さっきまで私の腕をしっかりとつかんでいたくせに。

 今は両手をピンっと伸ばして私を追い出そうとしている。


「マジで意味わからない」

「ごめん、また聞きたいことがあったら明日以降答えるから……。だからお願い今日は……」

「わかった……」


 私が部屋を出ると、ゆっくりとドアが閉められた。

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