第3話

「ただいま」


 電気の消えた玄関に私の声だけがこだまする。

 確か今日はお父さんもお母さんもいないはずだし、真保まほも最近お気に入りと言っていた靴がないから出かけたんだろう。

 まあ今日遅くなるって言っちゃったからなぁ。

 まさかあの後、なぎのお母さんにばれかけるとは……。

 ただ明らかに怪しまれてたししょうがないか。


 夕飯どうしようかな。

 夕飯前に帰ることになるとは思わなかったし、何か作るか買ってくるかな。

 色々考えながら自分の部屋のドアノブをひねったところで、ゆっくりと隣のドアが開いた。


「うわっ」


 その場にへたり込んでしまった私を全く気にしていないらしい。

 真保は仁王立ちになり短く言った。


「遅いっ!」

「えっ、真保いたの?」

「いたって何それ、いるけど?」


 彼女からは愛想のない態度をあからさまに出ている。

 まあ今の言い方だとそんな態度取られてもしょうがないかな……。


「出かけてたほうが都合がよかった?」

「いやそんなことは、ないけど」

「家に誰もいなかったら凪さん上げるつもりだったとか?」

「だからそんなことないって……」


 てかなんでほんと真保いるの?

 靴なかったよね?

 私の見間違い?


「靴なかったからてっきり出かけたのかと思った」

「新しいの買ったからしまった」


 彼女が指さした先を見ると、よくある靴の箱が置いてあった。


「そういうことか」


 ただ、もともとそんな頻繁に買い替えるタイプじゃないのに珍しいな。

 前履いてたのもちょっと前に買ったばかりのはずなのに。

 けど気分で買い替えるってのもあるかな。


「お姉ちゃん夕飯は?」

「まだだけど……」


 そういえば夕飯どうしようって思ってたんだった。

 真保がいるならなにか作ったのでもいいな。

 冷蔵庫の中って何か残ってたっけ?

 色々と考えを巡らせていると、真保の大きなため息が聞こえてきた。


「そんなことだろうと思った」

「真保は?」

「もう食べた。お姉ちゃんの分も作ってあるから」


 真保は本当にあきれているのか、再度大きなため息をついた。


「やった、ありがとう! メニューは?」

「カレー。自分で温め直すくらいはできるよね?」

「できるよ」


 よかった、真保のカレーおいしいんだよなぁ。

 まあ料理は手間とか言って、気分転換したいときとかじゃないと作ってくれないけど。

 普段よりも少し勢いよく階段を下ると、半分ほど下りたところで呼ばれた気がした。

 見上げると、少し身を乗り出した真保がなにか言ってる。


「なに?」

「あのさ、忙しくなかったらでいいんだけど、勉強見てくれない?」

「勉強かー……。んーわかった、いいよ」


 彼女は一瞬ほっとした表情を見せると、すぐに身を引いてしまった。

 ただ真保に勉強か。

 久しぶりだな。

 中学の頃は教えてたけど、受験前後は教えなかったし。

 最近も彼女に教えてもらうとか言って私に聞きに来なくなったもんな。


 ◇


「ご馳走様、おいしかったよ」

「よかった」


 夕飯のお礼を言いに行くと、真保はちらりとこちらを見た後、すぐに目線を机に落とした。

 手元を見ると必死にペンを動かしている。

 どうせ勉強してるなら今教えちゃえばいいかな。


「勉強見ればいいの?」

「そうだけど、今いいの?」

「いいよ、どれ?」


 彼女は今やっていた問題集を閉じると、別のものを取り出した。

 どの問題集も癖がついているのか、机の上に置いただけで少しだけ開いている。

 すごい勉強してるんだなと感心していると、彼女はページをパラパラとめくり指さした。


「ここなんだけど……」

「ああそれね、難しいよね。紙とペンある?」


 そこから1時間ぐらいだろうか、ずっと教えていた気がする。

 けど私の復習にもなったしちょうどよかったかも。

 教えてて結構あやふやなところもあったからな。

 意外と忘れてるみたいだし、私もたまには抜けがないかチェックしておかないと。

 思い切り伸びをすると、私は言った。


「ねえ真保、そろそろ休憩しない?」

「いいよ。これだけ解いちゃうからお姉ちゃんは先休んでて」


 そう言う間も、彼女は問題集から目を外すことなく解き続ける。

 すごいな、その集中力。

 私はそんなできる気しないし。

 言っていた問題を解き終わったのか、ノートを閉じるとようやく私のほうを見てきた。


「ベッド使ってよかったのに。ずっと中腰だと疲れたんじゃない?」

「ああまあそうかも……、じゃあお言葉に甘えて」


 言われてみると、無理な態勢だったのか若干痛みがあった。

 勢いよくベッドの上に飛び乗ると大の字になった。

 横になっただけで痛みは少しマシになった気がする。


「それにしても真保はすごいね。そんな聞くこと溜まるぐらいやってて」

「別に聞く相手がいなくなっただけだよ」

「聞く相手ってっ。あ、ごめん」


 ああそうだ。

 今日のもきっと彼女に訊けなくなったから私に訊いたってだけだよね……。

 前は休みの日も勉強しに外出してたみたいだけど、最近はそういうのも全くないし。


「なにそのごめんって」


 彼女の声にはさっきまで少しも含まれていなかった怒気が感じられる。

 うかつだった。

 少し考えればなんで久しぶりに私に訊いたかわかるのに……。


「いや、ごめん。なんでもない」

「なんでもなくないんだけど、勝手になんでもないとか言わないで」


 彼女の言葉の端々には明らかにさっきより強い怒りが込められていた。

 それに瞳には少しだけ涙が浮かんでいる。


「いいよね、お姉ちゃんは彼女いるし。どうせ教えてもらってるんでしょ?」

「いや、それは」

「頭いいもんね凪さん」

「だから、さ」


 多分凪に勉強教えてなんて言ったら「私のが教わる立場なんだけど」ぐらいは冗談めかして言われてしまうだろう。

 今日も私のがテストの点がいいって言われたばかりだし。

 たださすがに、だから教えてもらってないなんて今の真保言っちゃいけないことぐらいわかってる。

 それでも一度沸点を超えてしまうとなかなか下がらないみたいで、彼女の口調は一向に穏やかにならない。


「いいね、お姉ちゃんは彼女がいて。幸せ?」

「いや。ごめんって」


 真保はじりじりと私との距離を詰めてくる。

 逃げられれば良かったんだけど、さっきまで横になっていたせいでタイミングをいっしてしまった。

 何とか起き上がるも、すぐに壁際に追い詰められた。

 真保は一気に私との距離を詰めてくると、言った。


「ねえ今日どこまで進んだの?」


 彼女の手はすでに私の服に伸びていて、勉強の方について訊いているのじゃないことぐらいわかる。

 ただなんて言ったらいいんだろう。

 凪に言っていいと言われているわけではないし。

 適切な言葉が思いつかないでいると、彼女のほうから口を開いた。


「言う気がないなら当てるけど。どうせキスぐらいまででしょ?」

「なんでそんなことまでっ」

「あの時間に帰ってきて、ちゃんと勉強までやってなにかできるわけないじゃん。お姉ちゃんの性格からして勉強したってうそつくのは考えられないし」

「そう、だけどさ……」


 今更ながら少しは否定すればよかった。

 そんなことまで、なんて言ったら肯定してるようなもんじゃん。

 口に出した言葉もメッセージみたいに取り消せたらいいのに……。


「ならあたりだね。ねえお姉ちゃんキスだけで満足できてる?」


 自分の予想が当たったのか真保さっきよりも少しだけ嬉しそうな表情をしていた。

 ただ満足って。

 不満がないわけではないけど。


「なにその言い方」

「あれだけ彼女できたときにはしゃいで私で練習したんだし、少しは期待して行ったでしょ?」


 期待してなかったって言うと嘘になる。

 付き合って初めてのデートだし。

 けどだからって……。

 真保に2回もキスされてなにも思わないわけなんかない。

 けど真保抜きで考えれば一緒にいられただけでよかったし、不満なんかなかったと思いたい。


「ねえお姉ちゃんキスしよう?」

「だからダメだって……」


 もうこれ以上真保とはできない。

 凪としたときに決めたんだ。

 やっぱり妹とこんなことするのはよくないって。

 ただそんな私を無視するかのように真保は言った。


「大丈夫だよ。するのはキスだけ、私から持ち掛けただけだし、お姉ちゃんが言わなきゃ浮気にならない。いいでしょ?」


 確認はしてきたが、私の答えなんか聞く気は端からないらしい。

 彼女はしっかりと私の頭を押さえつけ身動きを取らせてはくれなかった。

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