第2話

 彼女の家に着き、カメラ付きのインターフォンを鳴らすと、なぎの声が返ってきた。


『開いてるよー』


 彼女の言葉通り、玄関のドアを引くと抵抗なくスムーズに開いた。

「お邪魔しまーす」と言いながら初めて見る玄関を見回していると、凪が出迎えてくれた。


「待ってたよ、ちとせっ!」


 学校では見ることのないゆるいウェーブがかった黒髪が彼女の人当たりのよさそうな雰囲気を何倍マシにもしていた。

 凪に少し恥ずかしそうに微笑みながら抱きしめられると、それだけで幸せな気分になれる。

 凪の家族に見られてるかもしれないと少し抵抗はあったけれど、私も同じように抱き返すと彼女の香りが私を包み込んだ。


 友達だった頃、手をつないだり軽く触れあったことはあったけど、あの頃とは全然違う。

 まだ付き合ってあんまり長い時間は経っていない分、顔を見たり抱きしめた時に不思議と湧いてくる幸福感が付き合ったという実感を抱かせてくれた。


「来てくれてありがとう。先あがってて」


 凪は階段を指さすと「飲み物とってくるから」と言い、行ってしまった。

 上がっててって言われても場所わからないんだよなぁ。

 ただずっと立っているのも気が引けたので階段を上がる。

 上がりきると、一番近い部屋のドアに「凪のへや」と書かれたプレートが飾ってあった。

 そっか、ここか。


 中に誰もいないとは思いつつも「おじゃましまーす」と恐る恐るドアを開ける。

 そこには優等生の凪らしくきれいに整頓された部屋が広がっていた。

 本棚の中は出版社ごとに分けられているのかきれいなグラデーションになっており、棚の上には賞状やトロフィーなどがチリやくすみ一つなく整然と飾られている。

 レースのカーテンから柔らかい光が差し込んでくるせいもあってか、家具のカタログやモデルルームとして紹介しても、違和感を抱く人はほぼいないだろう。


「すごいなぁ」


 ここまですべてのものが考えられて置かれているのを見ると、自分が異物のように感じてくる。

 多分私が座る用のクッションも置かれてはいるが、この整えられた空間を壊してはいけない気がする。

 どうしたらかわからず隅のほうで立っていると、トレーを持った凪が戻ってきた。


「なんで立ってるの? 座っててよかったのに」


 彼女はおかしそうに笑うと、ローテーブルに湯気の立つコップを置く。


「ちとせコーヒー好きって言ってたよね?」

「あ、うん。覚えててくれたの?」

「まあね~。砂糖とミルクは?」

「大丈夫」


 カップの置かれた位置に座ると、れたてのふわっとしたコーヒーの香りが鼻孔びこうをくすぐった。

 火傷をしないようにゆっくりと口に含むと少しの苦味と酸味が広がってくる。

 これ結構私好みのやつかも。

 夢中になって飲んでいると、彼女がおかしそうに笑っているのに気が付いた。


「え、なに?」

「いやなんかさっきまで借りてきた猫みたいに部屋の隅でおとなしくしてるのに、夢中でコーヒー飲んでるのみたらおかしくって」


 そう言って彼女はなおも笑い続ける。

 そんなに笑うことないのにと思ったけど、事実だしなにも言えない……。


「そんなに私の部屋来るの緊張した?」

「緊張するでしょ、普通。初めて来たんだし」

「まあ私もちとせの家行ったら緊張するかも知れないけどさ」


 彼女まだ収まらないのか、なおも「あーおかしいっ」と口元を隠した。

 密かに彼女が家に来た時緊張してたら同じように笑ってやろうと心に決めていると、ギーっと音がした。

 音のした方を見ると少しだけ開いたドアの隙間から、声が飛び込んできた。


「勉強は順調ですか?」


 どう反応したらいいかわからず凪のほうを見る。

 ただ彼女の顔は今まで見たことがないくらい気が張った表情になっていた。

 私が「どうしたの?」と声を掛ける前に彼女が口を開く。


「うるさくしてごめんなさい、お母さま。順調です」

「そう」


 ドアの向こうからそれだけ聞こえると、音もなく閉じられた。

 何が起こったのかわからず凪の顔とドアを繰り返し見てると彼女が話しかけてきた。


「ごめんね……、勉強しようか」


 さっきより曇った表情をした彼女はすでに教科書などをテーブルに並べ始めていた。

 今のことについていろいろきたくないと言うとうそになる。

 ただなにを訊いたらいいかわからない。

 それに彼女の表情から触れないほうがいいことくらい簡単に分かった。


 ◇


「あーっ、疲れたーっ!」


 キリのいいところまで終わり大きく伸びをしていると、フフっと笑う彼女の声が聞こえてきた。


「お疲れ様」

「凪は順調?」

「んーまあそこそこかな」


 彼女はパラパラと終わったテキストをめくり始めた。

 大体どの問題にも赤丸が付けられており、具体的なページ数まではわからないが圧倒的に私より進んでいるのはわかった。

 同じ時間勉強してたはずなのにすごいな。


「凪めっちゃ頭いいよね」

「けど、ちとせのがテストの点はよくない?」


 えーそんなこと、と言いかけたところで、春休み明けのテスト結果を思い出してしまった。

 確か私のがよかったはず。

 数点だけだったけど……。

 なんかこれで否定するのもダメな気がするけど、同意するのもな……。

 なんて言うのが正解かといろんな返事を考えては却下していると、凪が言った。


「意地悪いこと言ってごめん、次は私のがいい点とるから気にしないで」

「なんかそれはそれでむかつくんだけど」

「ごめんごめん」


 そんなことを話しながら頬を膨らませていると、スマホが突然軽快な音を立てた。

 なんだろうと画面をつけると、真保まほからメッセージが来たと通知が入っている。


「誰?」


 凪も勉強に飽きたのかペンを置いてこちらに寄って来た。

 私に体重を預けながら肩越しに覗いてくる。


「んー妹」

「ああ、真保ちゃん?」


 真保ちゃん?

 なんで凪が名前知ってるの?


「あれ、私妹の名前言ったっけ?」


 なぜか何度も口にしたことがあるかのように自然と出てきた真保という単語にすごく違和感があった。

 今まで真保自身に言わないでってお願いされていたこともあって限られた人にしか教えてなかったはずだけど、凪に伝えた記憶が思い出せない。


「聞いたと思ったんだけどなぁ。真保ちゃんで合ってるよね?」

「う、うんそれは合ってる」

「だよね。よかった。で、なんだって?」


 凪に促されLINEを開くと、『何時に帰ってくるの?』と書かれていた。

 普段遅く帰っても心配一つしないくせに、なんで今日に限って……。

 あれは練習って言ってたし深い意味なんかないんでしょ。

 意味がないならそれ相応の行動をしてよ……。


 凪の手前、ため息をつきたいのを何とか堪える。

 多分ため息程度じゃなにも気にしないと思うけど、一度思い出してしまうと何からバレるかわからなかった。

 平静を装いつつなんて返そうかと悩んでいると、凪が言った。


「お姉ちゃんが私にひどいことされないか心配なんじゃない?」


 彼女はくすくすと口元を押さえながら笑った。

 そんな小さなしぐさでもかわいいなと思ってしまうが、今はそんなことよりさっさと返さないと。

 最近急に既読無視するとうるさくなったんだよなと思いながら『もうちょっとしたら』とだけ送った。


「心配って、あんまそんなイメージを抱かせるような伝え方してないんだけど……。彼女ができたとは言ったけど」

「意外とお姉ちゃん思いなのかもよ? いろいろ心配してくれてるとか?」

「真保が? ないって」

「普段口に出してないだけかもよ?」


 真保に限ってありえないと思ったけど、意外と陰では心配してくれたりしてるのかな?

 とは言っても、凪にされるひどいことってなにがあるんだろう。


「けどさ、彼女の家に行って心配されるようなことってなに?」


 正直なところ、凪になにかされるとかは微塵みじんも思えない。

 学校での凪は常に誰かと話してるくらい明るくて人気があって、勉強も運動もちゃんとできる、勉強以外は私とほぼ真反対の人だ。

 真保にもその通りに伝えてるはずなのに……。


 彼女は少し「そうだな~」と考えるようなそぶりを見せると、急に私を押し倒し馬乗りになってきた。


「してあげようか、真保ちゃんが心配してること」


 ちょうど照明のせいで逆光になっているのか、彼女の表情をうかがうことはできない。

 ただ表情がわからなくても、これからなにをされるかぐらい私でもわかった。

 興奮と緊張が入り混じるなか、なんとか冗談めかして言葉を搾りだす。


「心配してることって、凪わかるの?」

「まあね。してもいい?」


 光沢のある健康的な彼女の唇を見ると、出かける前に真保にされたことが鮮明によみがえってくる。

 けど大丈夫あれはただの練習。

 それにさっきは流されちゃったけど、次からはちゃんと断るから。

 今更ながら湧いてきた罪悪感をかき消すように言い訳を心の中で唱える。

 彼女をじっと見つめていると、彼女の喉がゴクリという音を経てるかの様に小さく動いた。


「ねえいいけど、お母さん平気? 私どうしたらいいかわからないよ?」

「大丈夫、ちとせはバレないように静かにしてて」


 凪はそれだけ言うと、ゆっくりと唇を重ねてきた。

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