第6話

 再び走り出した馬車。

ミリアの髪は乱れ、ワンピースの裾と肘の部分には穴が空いている。そして目の前には怒りで目を充血させた男。


そう、ミリアは脱走に失敗した。

この男が超人的な身体能力の持ち主で、一分とかからずミリアは捕まってしまった。おかげで今は警戒を強められ全く隙がない。


「貴様のような平民が、閣下の結婚相手だとはこの上なく許しがたい。貴様は閣下に選んで頂いたことを天を仰ぎ神に感謝しなければならないほどだと解っているのか」


ミリアの目の前の男は怒鳴りたいのを堪えながら唸るように言った。


ヘンドリックスはグスターク男爵家の長男として生まれた。

容姿は神経質な性格を表したように痩せ型で、鳶色の髪によくある茶色の瞳。吊り上がった眉に鷲鼻が特徴の、二十八歳で未だ独身の男だった。


彼は十六歳のころ、ヴェルサス辺境伯であるジルベスターが十二の歳で次期領主としての公務を始めたころから側近として仕え、前領主からその地位を譲り受けた現在の二十四歳までずっとジルベスターを支えてきた、最も古参の側近である。


性格は生真面目で神経質。

王族でもあるジルベスターを心から崇拝する、ジルベスター至上主義の男だった。

それ故ジルベスターの妻となる女性には家柄、容姿、性格、能力、全てにおいて完璧な女性像を求めた。

それに反してミリアは所詮平民の出で魔力の少ない治癒士。

言葉遣いは下品で淑やかさの欠片もなく淑女とは程遠い。

そして父親であるマイワール伯爵は金の盲者として有名な評判の悪い男だった。

ヘンドリックスとしては到底許しがたい主君の婚姻相手であった。


「閣下?」


先ほどヘンドリックスが言った言葉に思わずミリアは聞き返す。

『閣下』とは高い身分にある人を呼ぶときに使う言葉であることはミリアでも知っている。


しかし自分の結婚相手がどういう人なのかまでは知らない。『ジルベスター・ヴェルサス』という名前なのはサインした婚姻届で知ったが、ヴェルサス辺境領に住む人であるという認識でしかなかった。


「貴様は結婚した相手の名も知らないと言うのか!」


「先ほどサインした婚姻届で知りました。確か『ジルベスター・ヴェルサス』様だとか…」


「いいか、貴様よく聞け!ジルベスター様はな!本来貴様なんぞがお目にかかれるようなお人ではないんだぞ!

あの方は齢二十四歳にして辺境の地であるヴェルサス領を治め、その尊い血統は現国王の弟殿下の嫡子であり王位継承権もお持ちのお方だぞ!」


───え?


ミリアは耳を疑った。


───領主様ってこと?王様の甥ってこと?そんな雲の上人と私結婚したの?


ミリアは自分の結婚した相手がヴェルサス辺境領の領主であり、この国(この国の名はアドリアス王国という)の王の甥に当たる人物だと知り、頭の中が真っ白になった。


瞬きを忘れるほど硬直したミリアを見て、ヘンドリックスは「貴様なんぞ所詮期間限定の仮初めだ」と呟いたが、それはミリアの耳には届かなかった。


それからミリアは脱走することは止めた。ヘンドリックスの監視の目をかいくぐることができなかったのもあるが、自分の結婚相手が王族だと知り王族を敵に回すような行いはできないと思ったからだった。


日毎に不安の増すミリアと、蔑むような態度のヘンドリックスで馬車の中は最悪の空気のまま、五日間の旅を終えヴェルサスの領主城へと到着した。



 馬車は大きな南城門ではなく、小さな東城門から入る。


馬車を降りて要塞のような領主城に入り足早に歩くヘンドリックスと、彼の後を付いて歩くミリア。石畳と石壁の続く廊下にはカツンカツンと二人の足音が響いていた。

途中、何人か使用人とすれ違ったが、誰もがミリアに対して蔑みの視線を送っていた。


そして一際重厚な装飾のある扉の前で立ち止まるとそれはゆっくりと開かれた。


そこは領主の謁見室であり、真っ赤な絨毯が敷かれ、白い壁に金色で描かれた植物模様、天井からシャンデリアが吊るされた豪奢な部屋だった。


その部屋の正面の、三段高い壇上に設置された椅子には一人の若い男性が座っていた。


陽光を纏ったような明るい金髪。

冬の夜空を思わせる深い青紫のタンザナイトの瞳。そして威厳と気品を兼ね備えた美しく整った顔。


───彼がジルベスター・ヴェルサス様。こんな人が世の中にいたなんて。



ミリアは思わず跪き頭を垂れる。

そこにいるだけで他を圧倒するその存在感に、ミリアは自然に膝をついていた。

ヘンドリックスがジルベスターを崇拝するのがなんとなく理解した。


「遠くからよく来てくれた。

私がヴェルサス辺境伯のジルベスターだ」


「お、お初にお目にかかります。ミリアと申します」


「ミリア、君には最初に言っておかねばならないことがある。私は君を愛するつもりはない。この婚姻も二年で解消する。もちろん離婚後の生活は保証しよう。何なら新たな婚姻先を探してやってもいい。王都へ帰るなり、ここへ留まるなり君の好きなところで暮らすがいい」


───愛することはない? 二年で解消?

それなら結婚する意味ないじゃない!

私がどんな思いをしてこんなところまで連れて来られたのか!

二年と言わず今すぐ帰してよ!


「恐れながら、閣下」


「なんだ、言ってみよ」


「それなら二年と言わず今すぐにでも婚姻解消して下さい。私はほんの八日前まで市井で平穏に暮らす平民でした。

それが突然拐われるように伯爵家へ連れてこられて、会ったこともない人に父親だと言われ、そしてそのまま婚姻届にサインさせられたのです。

私は伯爵令嬢になるつもりもありませんし、ましてや閣下のような高貴なお方と婚姻を結ぶだなんて考えたこともありません。

どうか、どうか、このまま私を元の場所へ返して下さい!」


「貴様!閣下に対してなんて無礼な!」


ヘンドリックスは怒鳴るが、ミリアも無礼なのは承知だった。床に頭を擦り付ける勢いで頭を下げていた。


相手の返事を待っていると、ふぅ、と頭上から吐息が聞こえた。


「悪いが、君の願いは聞いてやれない。理由は、隣国フランベルデ帝国の動きが戦に向けて活発化している。

戦が始まれば真っ先に攻め入られるのはここヴェルサス辺境領に間違いないだろう。

君には万が一のために私専属の治癒士をしてもらいたい。

私は王族故に、平民の女性や貴族であっても独身の女性にこの身を委ねることができぬのだ。

嫁いでくれる聖女を探していたのだが、戦地になろうとする辺境の地へ嫁いでくれる聖女などなかなか見つからなくてね。そこで君の父マイワール伯爵がこの婚姻の話を持って来てくれたのだ」


ここでの聖女とは───平民の女性がなる治癒士と違い、豊富な魔力を保有し、重篤な怪我や病気を治すことができる貴族の女性のことを言う。


聖女は診療所で働いたりすることはない。王都の大神殿でお高いお布施を納めることのできるお金持ちを対象に、信仰と、お金と、より良い嫁ぎ先を募るために治癒魔法を使っている。


そして『治癒士』にしても『聖女』にしても、治癒魔法を使えるのはなぜか女性だけであり、およそ女性の百人に一人の割合でその才能を持つ者が現れる、そこそこに希少な存在だった。


それに対して男性特有の魔法に強化魔法というものがあり、それが使える者は主に戦いの場で重宝される存在となっている。


ちなみに生活魔法と六属性魔法というものがあり、それは男女関係なく使える者が現れる。魔力の少ない平民には薪に火を着ける、コップに水を溜める、などの小さな魔法しか使えないため生活魔法と呼ばれ、魔力の多い貴族が使える火炎放射や風刃などの強い魔法は六属性魔法と呼ばれた。


そしてジルベスター曰く、今年か来年辺りに戦になるだろうという見通しで、それ故二年後にはミリアを解放できるであろう、それと同時にヴェルサス辺境領へ嫁いでくれる聖女を探すつもりだということだった。


そのため、ミリアとの婚姻は公にせず式も披露宴もしないということだった。


「君もこの婚姻に思うところがあるだろう。しかし今は非常事態ということで受け入れてもらいたい」


「…はい、慎んでお受け致します…」


ミリアは全てを納得したわけではなかったが、自分がここへ連れてこられたのはそれなりの理由があることを理解した。


───ジルベスター様は今まで接してきた貴族たちとは何か違うわ。きちんと説明してくれて、私を蔑んだりしない。


信用できるとまでは言い切れないが、丁寧に説明をしてくれたジルベスターに対して好感を持つミリアだった。


「ヘンドリックス、ミリアには恙無く生活できるよう配慮するように」


「はっ」


こうしてジルベスターとの謁見を終え、二人の白い結婚が始まりを迎えた。

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