第5話

 ロジーナに付き添われてミリアが応接室へ入ると、そこにはトマソンと、ヴェルサス辺境伯の側近であるヘンドリックス・グスタークという若い男が座っていた。


テーブルの上には何枚かの書類とペンが置かれ、何かの打ち合わせをしている様子だった。


「ミリア様、ご挨拶を」


ロジーナに促されるが、なぜ私が、という気持ちが大きくなる。

絶対『ミリア・マイワール』だなんて名乗るものかとそっぽを向いて黙っていた。

そんなミリアに対して冷めた目で見るトマソンと、品定めするかのように侮蔑交じりの視線をぶつける若い男。


「ロジーナ、挨拶もまともに教えられなかったのか」


「い、いえ、先ほどまでは普通に…」


「ふん、まあいい。ミリア、この書類にサインしろ」


ミリアの目の前に一枚の紙が差し出された。


『婚姻届』と書かれたその用紙には、流れるような美しい文字で『ジルベスター・ヴェルサス』と署名がされており、その隣は空欄で、保証人欄はすでに埋まっていた。


これにサインをしてしまうと一生逃れられない檻の中に入れられるような気がして、ミリアの心はそれを拒んでいた。


「ジェルマン」


「はい」


なかなかサインをしないミリアに業を煮やしたのか、トマソンが後ろに控えていたジェルマンを呼んだ。

名を呼ばれただけで主人の言いたいことを察したジェルマンはテーブルの上のペンを取り、ミリアの目の前で跪く。


「どうぞ、ミリア様。

ミリア様が無事婚姻なされなければ、診療所のあの方々は悲しまれます」


「っ!」


これは脅しだと気が付いた。サインをしなければドリトンとタニアがどうなるか。顔に笑みを張り付けて脅しをかけるジェルマンをミリアはキッと睨み返してペンを受け取る。


ジェルマンは婚姻届の空欄部分を指差し、口調だけは優しく「ミ、リ、ア・マ、イ、ワ、ー、ルと」と促した。


唇を噛みしめながら震える手でミリアがサインをすると、婚姻届はヘンドリックスへと渡された。ヘンドリックスはサインを確認すると「確かに」と言ってそれをトマソンへ手渡した。


「こちらは私どもの方で提出しておきましょう」


「宜しく頼みます。それではこちらがお約束の支援金です」


と言ってヘンドリックスはジャラジャラと音のする重そうな皮袋を二つ、テーブルの上に置いた。


「今後は縁戚として仲良くやっていきたいですな」


と言って先ほどまでミリアの不作法に不機嫌だったトマソンは、表情を一転させニヤニヤとそれを受け取った。


その様子を見たミリアは全てを理解した。


───お金のために、私は拐われて売られた!なんて酷い人たちなの!

貴族なんて!貴族なんて!


どうしてこんな酷いことが平気でできるのか。人を人とも思わないこの所業にミリアは怒りで震えた。それと同時にこの人たちはミリアを手に入れるためならばドリトンとタニアに何をするか分からないと思った。

きっとどこかで逃亡してもあの診療所には帰れない。

それが悲しかった。


 ヘンドリックスが帰るころになり、ジェルマンや数名の使用人が玄関先まで見送りに出た。トマソンは自分より格下相手に見送りはしない。


始めからミリアを連れ帰るつもりだったのか、ヘンドリックスが領地へと帰るのと一緒にミリアもヴェルサス辺境領へ出立することになった。


「旅の安全を祈っております」


「皆様方には宜しくお伝え下さい。これにて失礼します」


ジェルマンとヘンドリックスが別れの言葉を交わしているがミリアのことを気遣う者はいない。


そしていよいよ馬車に乗り込もうとする直前で、ロジーナがミリアへ近寄った。


「ミリア様、お着替えや必要になる日用品などを詰めておきました。私にできることはここまでです。道中、どうかお気を付けて…」


ロジーナは予め用意していたトランクをミリアに手渡す。

トマソンやジェルマンは金蔓であるミリアに嫁入りの仕度など気遣うことなどしない。あまりにも気の毒な昔の友人の娘にロジーナは着替え、ブラシやタオルなどの日用品、そして自分の財布からお金をいくらかを包んでそれらをトランクへ詰めた。


伯爵家の令嬢なら持参金を持たせ、ドレスから装飾品、場合によっては家財道具も揃えて嫁入りするのが普通だった。それがこんなトランク一つで、辺境の地へ送られる若い娘が不憫でならなかった。


「ロジーナさんありがとう」


ここでは唯一、人として扱ってくれたロジーナにミリアは感謝を込めて笑顔で答える。


「貴族社会では礼儀作法をしっかり守ることが重要です。教えたことを忘れず──」


貴族に対して反抗的なミリアが心配でつい小言を言ってしまうが、それをヘンドリックスに途中で遮られる。


「いつまでしゃべっている。早く乗りなさい」


ヘンドリックスに促され、後ろ髪を引かれながらミリアは馬車へ乗り込んだ。







 ゴトゴトと揺れる馬車の中でミリアは考えた。

馬車はまだ王都を走っている。

この目の前に座るヘンドリックスという男は、時折ミリアに対して蔑むような視線を向けるが、油断しているように見える。


王都から出たことのないミリアが土地勘のない場所で脱走しても危険だ。脱走するなら王都内か王都近郊。


もう、今まで通りブルックナー診療所で働き続けることは不可能だろう。それならばせめてお別れの挨拶と、母親の遺品、そしていくつかの貴重品だけでも持ち出して、どこかで名前を変えて治癒士を続けられないだろうか。


馬車がスピードを落としたところでこのトランクをクッションにして飛び降りる。もし怪我をしても死にさえしなければ自分で治癒すればいい。


そう覚悟して、ミリアはぎゅっとトランクを抱きしめながら窓の外をじっと見つめた。

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