第2話
『貴族には絶対近づいちゃダメよ』
それがミリアの母ナタリアが口癖のようにミリアに言い聞かせていたことだった。
幼いころは漠然と貴族は怖い存在なんだとその程度でしか考えていなかったが、ミリアが大きくなるにつれて薄々気が付く。
自分の魔力量が貴族並みに多いことや、父親のことは何一つ教えてくれないこと。
そして母が以前、貴族のお屋敷で雇われていたこと。
───お母さんは貴族の男に弄ばれて捨てられたんだ。
そう考えるのも当然で、事実はそれに近かった。
ナタリアがマイワール伯爵家で専属の治癒士として働くようになったのはナタリアが今のミリアと同じ十八歳のころだった。
高齢となった前伯爵のために一日二回、膝や腰に治癒魔法をかけるために雇われ、侍女と同等の待遇で個室もあてがわれていた。
もちろん前伯爵以外にも体調を崩す家の者がいれば治癒魔法をかけ、頼まれれば伯爵家の者でなくても治癒をすることもあった。
ある日のことだった。
現伯爵であるトマソンがペーパーナイフで指を切ってしまった。
夜も更け、ナタリアは寝る支度を終えベッドへ入る直前だった。
「ナタリアさん!起きてますかっ!旦那様が指を切られて血が止まりません!至急治癒を!」
扉を強く叩き、慌てた様子でナタリアを呼ぶのはこの家の執事だった。
「は、はい!今すぐ参ります!」
ナタリアは急ぎ着替え、簡易治療セットを抱えて部屋を出た。
執事に案内されたのはトマソンの執務室で、トマソンはソファーに座り血の滲むハンカチで指先を押さえていた。
「遅い!呼び出してからどのくらい時間が経っていると思っている!」
時間にすれば五分ちょっとだ。
夜中に年若い女性を呼びつけてその言いぐさはどうかと思うが相手は怪我人だ。傷口から滴り落ちる血に焦りを覚えたのだろう。
「申し訳ございません。旦那様、患部を心臓より高い位置に掲げて、傷口の手前をぎゅっと締め付けていただけますか」
「ああ、こうか」
「はい、結構でございます。お手を失礼致します」
ナタリアはトマソンの目の前で跪き、祈るように手を組むと、血の滲む指先へ魔力を馴染ませた。
トマソンは少し酔っていた。
目の前には若く美しい女が心地よい治癒魔法を己の指先へかけている。
いつもはきつく結い上げられた茶色い髪は下ろされ、緩く一つに結ばれている。湯浴みを済ませたばかりなのかふわりと石鹸の香りがすると、トマソンの理性はどこかへ消えて失くなっていた。
その時、一緒にいたはずの執事は血液で汚れた家具を拭くための手配をしていていない。
こんな時に、こんな深夜に、二人きりになってしまう運の悪さ。
そしてナタリアの運の悪さはこれだけではなかった。
夜遊びから帰宅してきたばかりの伯爵夫人に見つかり、今すぐ出ていけと追い出された。
体を無理強いされ、それと同時に職と住む場所を失う。
───なぜ、なぜ、こんな目に遭わなければならないの!
ナタリアは身も心もぼろぼろになりながら、夜の下町を彷徨い歩く。
そしてたどり着いたのが【治癒士募集中】の紙が貼られた『ブルックナー診療所』だった。
ナタリアが『ブルックナー診療所』で住み込みで働き始めて三ヶ月が経ったころ、ナタリアの身に異変が起こった。妊娠が発覚したのであった。
ナタリアは相手の男が誰なのかは決して口にしようとしなかったが、生まれてきたミリアの魔力が貴族並みに高かったこと、そしてナタリアがここへ来る直前まで貴族の屋敷で専属の治癒士をしていたことから、おおよその事情を察してドリトンとタニアは深入りすることはしなかった。
ただ、不幸な若い娘を、そして生まれてきた貴い命を、できるだけ支えてやろうとそう思うだけだった。
*
月日が経ち、ミリアが十二歳になったころ突然の不幸が訪れた。
ナタリアが魔力の枯渇が原因で亡くなった。
魔力の使いすぎで起こる魔力の枯渇は、生命の維持に必要な分まで使い果たすと死に至る。
あれは診療所の休憩時間にミリアに留守を任せ、ナタリア一人で市場へ出掛けた時だった。
貴族の乗る馬車の前に幼い男の子が飛び出した。「危ない!」と悲鳴のような叫び声の後、その幼い男の子は風に舞う落ち葉のように宙を舞った。
御者は馬車の速度を落とし止めようとしていたが、
「構うな。面倒だ、行け」
と馬車の窓から冷めた声で言い放つ貴族。ナタリアはそれが許せなかった。
身動きさえしない幼い我が子を抱きしめながら泣き叫ぶ母親の側へ、ナタリアは急ぎ駆け寄った。
「私が助けるわ!絶対に!」
───許せない、あの冷酷な態度も、人を人と思わない振る舞いも!
魔力量がそう多くないナタリアはひたすら治癒魔法をかけ続ける。
ナタリアでは手に負えないほどの重傷だったが諦める訳にはいかない。
全快させなくていい。
せめてこの命を繋ぎ止めるためだけでも治癒をしたかった。
しかし治癒魔法をいくらかけても手応えを感じない。命を削られるように失っていく魔力。
───せめて別の治癒士のところまで間に合うように!
ナタリアが限界を感じたとき、ようやく男の子が意識を取り戻した。
「早く、この子を病院へ!!」
そう言うと同時にナタリアの意識が遠のいた。
果たして子供の命は助かったものの、その代わりと言うようにナタリアの命が危機に瀕した。
「ナタリアさん!大丈夫か!」
「こりゃまずい!魔力枯渇ってやつじゃないのか!」
その場に居合わせた近所の人がナタリアを診療所まで担ぎ込んでくれた。
「お母さん!嫌!目を開けて!」
「ナタリア!しっかりするんだ!」
ミリアとドリトンがどんなに声をかけても反応がなく、見た目は擦り傷一つないのに今にも死にそうだ。
「お母さん!お母さん!」
ミリアはありったけの魔力を使って何度も治癒魔法をかける。
魔力枯渇に治癒魔法をかけても全く無意味なのだが、そうせずにはいられなかった。何度目かの治癒魔法をかけたとき、奇跡が起きた。
ナタリアがわずかに瞼を持ち上げたのだった。
「お母さん!」
「ミリア…ごめんね…お母さん、どうしてもあの子を助けたかったの…」
「うん、分かってる!
お母さんも死なないで!」
「貴族のせいで不幸になる人を見たくなかったの…。ミリア、貴女も貴族には近づいちゃダメよ」
「うん、うん、近づかない!」
「貴女は、幸せに、なるのよ…」
そのまま再び瞼を閉じるナタリア。
そして彼女は二度とその瞳を見せることはなかった。
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