貴族になんかなりたくない!

斉藤加奈子

第1話

 ミリア・ポーンズ、十八歳。

王都の下町にある『ブルックナー診療所』で住み込みで働いている治癒士の女の子だ。


柔らかな亜麻色の髪に平民ではあまり見かけないオリーブ色の瞳。

その色彩は母親に似なかったが、少しだけつり上がったくりっとした猫のような目が母親に似ていてミリアは気に入っている。


ミリアの住まいは診療所に併設された小さな部屋。


両親はおらず、母親のナタリアはミリアが十二歳の時に亡くなった。存在さえ知らない父親は病気で死んだと聞かされているが、本当のところはどうなのかは分からない。


 一人用のベッドと、小さなテーブル。白衣が数着入るだけのクローゼットに、一口コンロの付いた小さなキッチン。

元々は『ブルックナー診療所』の医師、ドリトン・ブルックナーが休憩や仮眠をとるための部屋だったのを、治癒士だった母親のナタリアが住み込みで働かせてもらうようになり、やがてミリアが生まれた。

狭く二人で生活するには窮屈な部屋。一つのベッドを二人で肩を寄せあって使うような生活だったが、ミリアにとって母親との思い出の詰まった大切な我が家だった。



 ミリアの仕事は医師のドリトンの指示の下、患者に治癒魔法をかけること。

今朝も早くから診療所へ詰めかけて来た患者に治癒魔法をかけていた。


「先生、腕が痛くてこんなんじゃ仕事になんないよ。最近は目も見えづらくてねぇ」


そう言ったのは隣街でお針子をしているカリナ。五十代の大ベテランで、王都でも人気の服飾工房で働いており、我が儘な貴族の女性のドレスを毎日長時間チクチクと縫っている。


休みもほとんどなく働いて、岩のように硬くなった肩、視力低下、右腕の腱鞘炎が酷く、隣街の住人だがミリアの治癒を求めて一時間以上かけてこの診療所へ通っている。


「どれ、相変わらず酷い腱鞘炎だね。ミリア、カリナさんの肩、腕、それから眼精疲労も酷いから目にも軽く治癒をかけてくれ」


「はい、分かりました」


ドリトンに言われてミリアはお針子のカリナに治癒魔法をかける。

ミリアは祈るように手を組むと、魔力を手のひらへ集中させる。

ほどよく魔力が集まったところで、それを患部へ馴染ませるように放出した。


「はぁー、気持ちいいねぇ。ミリアちゃんは治癒士の中でもかなりの腕前だよ。わたしゃミリアちゃんなしじゃやっていけないよ」


ミリアの治癒はちょっとした評判で、カリナの他にも態々遠くの街からミリアの治癒を求めて通う患者も少なくなかった。


「カリナさんは根をつめすぎなんですよ。仕事の合間にストレッチはしてますか」


「なかなかねぇ…。納期が迫っているとつい…」


「いつもの湿布薬を出しておくから。長く現役を続けたかったらこまめにストレッチをすること。そして無理はせぬように」


「はい、ありがとうございました」


カリナはドリトンへ頭を下げながら捲っていた袖を下ろし、診察室を出る。


「お大事にー、次の方どうぞ」


とミリアは次に待つ患者へ声をかける。次の患者は太い木の棒を杖代わりにして、左足に負担をかけないように歩く煙突掃除屋のトムだ。


トムは仕事中、足を滑らせて屋根から落ちた。屋根と言っても一階の屋根からで、とっさに庇を掴んだことで直接落下を免れた。

しかしその時に左足首を痛めこの診療所へ運び込まれたのであった。


「これは?」


「いてててっ!」


「ふむ、これは?」


「うがっ!」


ドリトンの触診で悶絶するトム。


「ふむ、これは捻挫ではなくて骨折してるな。ミリア、トムの足首の炎症を起こしている部分と骨折部分を軽く繋ぐ程度でかけてくれ」


「はい、分かりました」


ミリアはトムの左足首に軽く触れ、治癒魔法をかけた。

顔をしかめて痛みを堪えていたトムの表情が和らぐ。


「はぁー、ミリアちゃんの治癒は最高だなぁ。ねぇ、ミリアちゃんはお休みの日何やってんの?今度遊びに行こうよ」


お年頃のミリアにこういうお誘いは多い。しかしミリアは医師か医師見習いの男性以外はお断りだ。

結婚するなら医師の夫と二人で診療所を開き、生活していけたらと考えているからだ。


「行かないわよ。私はドリトン先生と奥様みたいに小さくてもいいから診療所を開くのが夢なの。医師か医師見習い以外の人はお断りよ」


「ちぇー、ミリアちゃんつれないなぁ」


「これ、親代わりのわしの前でうちのミリアを口説こうとするな」


ドリトンが苦笑いしながら言った。

ミリアが生まれる前から世話になっている、尊敬するドリトン先生から『うちのミリア』と言われてミリアは頬が緩みそうになった。


母親が亡くなり、天涯孤独の身になったミリアを支え、面倒を見たのはドリトンとその妻のタニアだった。十二歳以降はこの二人に育てられ、ミリアにとって本当の祖父母のような存在となっていた。


「なあ先生、折れてるの一気に治してくれねぇか。俺稼がなくちゃなんねぇんだよ。頼むよ」


折れたままではしばらくは仕事ができない。だからもっと治癒魔法をかけて一気に治したいとトムは言うが、ドリトンは許さない。


「馬鹿者、屋根から落ちるなんて気が緩んでるからだ。これに懲りて今後は慎重になりなさい。ミリアの魔力だって有限なんだ。明日また来い」


「うぃーす」


左足首に湿布薬を塗られ、添え木を包帯で巻かれて、再び木の棒を杖代わりにしてトムは退室した。

 

 次々に訪れる患者に治癒魔法を施し、かなりの人数をこなした。

普通の治癒士ならとっくにへばっているところだが、ミリアはまだ余裕だ。


平民ながらミリアの魔力量は多い。

そのことは亡くなった母親と、ドリトン、そしてドリトンの妻のタニアしか知らないことだった。

それに治癒魔法を使える者も希少で、囲いたがる貴族も多い。


もし、ミリアの魔力量が多いことが周囲に知られてしまい、それが巡りめぐって貴族の耳に入ってしまえば、その治癒魔法と、魔力量の多い子孫を求めて貴族に囲われてしまう恐れがあった。


だからこそドリトンはミリアに一度で治してしまうような魔法の使い方はさせないし、治療も少しずつ分割して行っていた。


医師のドリトンが診察して、必要最低限の治癒魔法をミリアがかける。

帳簿付けや備品の管理をタニアが手伝う。


こんな感じで大好きなドリトンとタニア、そして気心知れた患者と忙しくも充実した日々をミリアは過ごしていた。







 診療所での仕事は外来患者の治療ばかりではない。

週に二日、午前だけ訪問診療へ出る。

病状が重く診療所まで足を運べない患者の家や、お抱えの主治医を持たない下位貴族のお屋敷へ出向く。


ミリアの本心としては貴族の屋敷になど行きたくもなかったが、何せお貴族様だ。

診療代をはずんでくれるので、貧しい人たちから診療代が支払われなくても笑顔で「お金ができたときでいい」と言ってあげられた。だからどうしても貴族の訪問診療は避けることはできなかった。


 ミリアは診療所を出る直前に鏡の前に立つ。眉墨を手に取り、頬の高いところに点々とそばかすを描く。その後野暮ったい黒縁メガネをかけた。


この変装は、貴族のお屋敷へ訪問診療へ出かける前の、少しでも貴族に興味を持たれないための変装で、亡くなったミリアの母親がやっていたことだった。


ミリアは鏡に映る自分の姿を眺めながら亡くなった母親のことを思い出していた。

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