118『少女が1人、毒牙に掛かった(なお冤罪)』

 2人しか居ない深夜のジムで、女子高生に泣かれるという耐えがたき地獄を耐えさせられること、だいたい10分程だろうか。体感時間では2時間くらいあった気がするのだが、時計を見れば10分程度だ。

 秋水の大胸筋に頭突きをするかのように、ぐりぐりと頭を擦りつけて泣いていた美寧は、漏らしていた嗚咽が徐々に小さくなっていく。

 気が済んだだろうか。

 もう良いだろうか。

 泣き止んでくれたのだろうか。

 死んだような表情で遠い目をしながら、ガラス細工を触るかのように美寧の髪をゆっくりなで続けていた秋水は、ちらり、と自分の胸に頭を押しつけている美寧を見下ろした。


 耳が真っ赤である。


「…………か、帰るっ!!」


 そして急に、ひっくり返った声で大きな声を出しながら、どんっ、と美寧が秋水を両手で突き飛ばしてきた。

 しかし悲しいかな、体重差という壁は非常に高い。突き飛ばした美寧は思いっきり後ろによろけたのに対し、不意を突かれたはずの秋水は多少上体が反れる程度で、完全に棒立ちである。

 よろけて後ろへ転びそうになる美寧を、咄嗟に秋水は右手を伸ばし、ぽすり、と美寧の背中に回すようにして受け止める。

 美寧の顔が上がる。

 見下ろしていた秋水と、目が合った。

 涙は止まったのだろうか。ただ、流れたその筋は、はっきりとまだ残っている。


 と言うか、顔が真っ赤っ赤である。


 血流良さそうで何よりですね。

 こちらの顔は真っ青ですよ。


「ち、近いからっ!」


「えぇ……?」


 裏返っている声で何故か怒られた。

 そんなことを言われても、と困惑する秋水を余所に、背中に回された秋水の手にはっと気がついた美寧の口から、わひゃぁっ、と素っ頓狂な悲鳴が上がる。

 あ、転びそうなのを支えただけで、抱き締めようとかしたわけじゃないんです。信じて下さい。セクハラじゃないんです。

 驚いたせいなのか、美寧は両手をばっと急に上げ、それに呼応するように、そして自分の無罪をアピールするように、秋水もつられて両手を挙げた。ホールドアップ、降参と無抵抗を示すポーズである。


「距離が近い! 抱きつかない! 頭撫でない! 女の子の髪触らない! 何やってんの先生!?」


「え、あ、はい。ごめんなさい」


 急に怒るやん。

 めちゃ元気やん。

 しかしその内容は至極当然のことであり、反論の余地はない。

 それはまあ、イケメンくんならともかくとして、自分のようなゴリラがボディタッチしてきたら、そりゃ嫌に決まっている。訴えられても不思議じゃないレベルだ。

 警察は勘弁してくれませんか、と秋水は再び遠い目になった。


「帰る帰るっ! もう帰るからっ!!」


「えっと、はい……お疲れ様でした?」


「……私、チョロくないかんね!!」


「はい?」


 ダイナミック帰宅の宣言を声高らかに行う美寧は、秋水に撫でられていた髪をくしゃりと右手で握り締め、唐突に変なことを言いはじめる。

 ああ、いや、先程も聞いてもいない姉の話をし始めるなど、今日の美寧は唐突さのオンパレードである。

 調子が悪いのだろうか。

 はて、と秋水は首を捻った。

 その秋水を、美寧がじとりとした目で睨み上げる。

 涙は止まっていた。

 良かった。

 何故か怒られているが。


「こんなんで人を転がせると思ったら大間違いじゃんね! そんなチョロい女なんていないかんね!!」


 今日は絶好調に混乱してんのかなこの人。

 真っ赤な顔で秋水をびしりと指さし、じわじわと距離を取る美寧に秋水は首を傾げた。


「はぁ……?」


「興味なさそう! 先生のバカ! おつかれさまでした!!」


「あ、はい、お疲れ様でした。ちゃんとストレッチして下さいね」


「いーっ、だ!!」


 最後に威嚇までされ、美寧は踵を返して走り出し、慌てて荷物を入れていた棚まで戻って、自分の荷物を引ったくるかのように取り出し、もう一度、いーっ、と威嚇してきた。警戒感強めの野良猫だろうか。

 そして扉のロックを外すためにスマホを取り出し、手が滑って床に落とす。


「わ、わわっ!?」


 何かのコントだろうか。

 助けに行った方が良いのだろうか。

 拾い上げたスマホをたたたっと操作して、少しモタつきながらもQRコードで扉のロックを解除した美寧は再びこちらを振り返る。

 顔が赤い。

 耳も赤い。

 目も赤い。


「ありがとうございましたバカっ!!」


「あ、美寧さん、外は寒」


 外は寒いからちゃんと上着を着て下さい、と秋水の言葉を聞くこともなく、美寧はそのままジムを飛び出して行ってしまった。

 何故か良く分からないが独りになってしまったジムに、美寧が最後に残した罵倒が山彦のように響いているのは、気のせいだろうか。

 ああ、うん。

 数秒してから、ぽり、秋水は頭を掻いた。


「こりゃぁ……嫌われたな……」











 ジムを飛び出して、深夜の街を錦地 美寧はひたすら走っていた。


 ヤバい。

 ヤバい。ヤバい。

 ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。


 頭の中はぐちゃぐちゃである。

 感情だってぐちゃぐちゃだ。


 やばい。

 おかしいじゃん。

 マンガじゃん。

 ありえないじゃん。


 否定の言葉をとりあえず乱立させながら、ひたすら走る。

 外は寒い。

 いや1月の深夜なんだから寒いのは当たり前だ。

 室内のトレーニングジムで動く格好のままだから、その寒さが直で体を冷やしてくる。


 なのに、体が熱い。


 運動したからか。でもベンチプレス少ししかしてないから、それは違うか。でも熱い。

 ギャン泣きしたからか。うわ恥ず。死にそう。ヤバい。熱い。

 いや本当に恥ずい。

 こどもじゃん。

 バカじゃん。

 ドン引きじゃん。

 主に先生がドン引きする案件じゃん。


 ふいに、ジムに置き去りにしてきたムキムキマッチョの恩人ヤクザを思い出す。


 うなぁっ、と悲鳴のような情けない声が出てしまう。

 体が熱い。

 心臓がバクバクする。

 息が苦しい。

 呼吸が荒い。

 なんでだ。

 いや走ってるからだ。

 走ってるから、体が熱いし、心臓がバクバクするし、息が苦しいし、呼吸が荒くなるのだ。

 当たり前だろ馬鹿か。


 あー、先生にバカって言っちゃった。2回も言っちゃった。


 そして後悔が押し寄せる。

 感情にまかせて思いっきり罵倒してしまった。

 完全にヒステリー女からのとばっちりである。なんてこった。最悪じゃないか。

 バーベルが落ちてきて危ないところだったのを助けてくれたのに、お礼どころか罵倒って。

 あんなにちゃんと叱ってくれた人を、罵倒って。

 あんな、ちゃんと、褒めてくれた、人を。


 ああ、先生が、先生らしかったな。


 いや思い出しただけで恥ずい。恥ずいと言うか恥ずかしい。恥ずか死ぬ。

 なんだかとにかく叫びたい。

 とにかく走ってジタバタしたい。

 顔が熱いし体が熱いし胸が痛いしわけ分からないし。

 いやムリ。

 ほんとムリ。

 寒いのに熱い。

 風邪ひいたかもしれない。


 ああ、いや、風邪じゃ、ない。


 風邪じゃないことくらいは、普通に分かる。


 そこまで子供じゃない。そんな純真無垢じゃない。

 いやでも、おかしいじゃん。

 タイプじゃないじゃん。


 あれだ、吊り橋効果とかいうヤツ。詳しくは良く分からないけど。


 いやいやいやいや、冷静に。体はぽっかぽかだとしても冷静に。

 あれだよ、頭がラリってるんだよ。絶対そうだ。

 よく考えよう。冷静になって考えよう。

 どう考えたって、先生はイケメンじゃないじゃんね。

 こちらとベビーフェイス系がタイプだし。

 姉さんの友達の、年上、って感じの男共は、苦手だったし。あいつら、姉さんの妹だから仲良くしてやろうかな、って下心丸見えだったし。姉さん狙ってる奴らばっかりだったし。


 先生みたいに、私以外と比べないで、私だけを見る、って奴、いなかったし。


 いや違う。

 違うって。

 ラリってるって。

 冷静になれ私。

 ヤバいじゃん。狂ってるじゃん。先生どう見たって童顔じゃないし、むしろバリバリ年上系だし。それ以前に顔怖いし。

 そうだよ、顔怖いよ。

 ヤクザじゃん。

 マフィアじゃん。

 特殊メイクなしで特撮ヒーローものに出られるよ、悪役としてな。でも、子供が泣いちゃうから無理か。

 て言うか、顔以外も怖いじゃん。

 背、高いし。

 肩幅凄いし。

 分厚いし。

 声怖いし。

 目怖いし。

 威圧感めちゃめちゃだし。

 慣れてきても、うわ怖、とか普通に思うし。

 今でも会った瞬間はいつもドッキドキだし。


 ……ドキドキするし。


 ヤバい。

 認めたくない。

 ラリってるだけだって。

 だって、年下系が好みだったし。

 いや、だったし、って、なんで過去形になるの。

 好みだし。


 いっぱい甘やかしてくれる人とかも、好みだし。


 ヤバい。

 ヤバい。ヤバい。

 ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。

 ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。

 頭ピンクじゃん。

 吊り橋効果だよ。

 絶対それだよ。

 それ以外ないよ。

 だから何だ、つまり、そうなんだよ。

 つまり、つまりは、つまるところは。

 怖くてドキドキしているときに人に出会うと、その人を好きでドキドキしてるって頭が誤解しちゃんとかなんとかのアレがアレでアレしてアレ系なアレなんだよ。

 だからラリってるんだよ。

 誤解なんだよ。

 吊り橋効果なんだよ。


 って、駄目じゃん。


 それ駄目じゃん。

 全然駄目じゃん。

 認めてるじゃん。

 よく考えたら認めちゃってるじゃん。

 冷静になれよバカ。

 吊り橋効果なんだよって何だよ。

 要するにそれ、認めてるってことだよね。そうだよね。バカなの。吊り橋効果引き合いに出した段階で終わりじゃん。




 恋に落ちました、って意味じゃん。




 あー、はいはい。

 はい。

 あー。

 ヤバい。

 熱い。

 恥ずい。

 マンガかよ。

 続きは現実で、ってうるさいよ。

 あれは先生が10割悪いじゃん。

 そうだよ、先生が悪いよ。あいつ諸悪の根源だよ。悪人だよ。極悪人だよ。そういう顔してるよ。

 反則じゃん。

 女の弱みにつけ込むとか最低じゃん。

 しかも手慣れてるじゃん。

 女の敵じゃん。

 ムリじゃん。

 あれは絶対他に何人も毒牙に掛けてきたって。ギャップ差エグいって。恋は戦争なら、あんなん核弾頭だって。

 だからつまり、あれだ、やっぱり私はチョロくない。

 私の身持ちはカッチカチ。

 先生の破壊力がABC兵器級だったってだけ。

 だから私は悪くない。

 条約違反クラスの手練手管を持ち出してくる先生が悪いんだ。

 そうだそうだ。

 つまり私は毒牙に掛けられた哀れな小娘。

 あー、はいはい。

 うん。


 やっばい。


 惚れた。











 人から嫌われるのは、いつものことである。

 独りになったジムで、秋水は黙々と筋トレを行っていた。

 バーベルカール、もしくはバーベルアームカールと呼ばれる筋トレである。

 ダンベルを使った腕の種目として有名所名筋トレの1つ、ダンベルカール、のバーベル版だ。

 バーベルを持って肘を伸ばし、上腕二頭筋などの腕の力で肘を曲げてバーベルを持ち上げる、非常にシンプルな筋トレである。


「ふっ、ふぅ……ふっ、ふぅ……」


 バーベルを持ち上げ、下ろす。

 再び持ち上げ、下ろす。

 それを繰り返す。


 どうやら、美寧には嫌われてしまったようだ。


 あーあ、という気分である。

 もちろん、悲しいとか寂しいとか、そんな気持ちがなくはないのだが、美寧に嫌われてしまったであろうことに対しての感想は、あーあ、という多少残念な気分、でしかなかった。

 他人から嫌われるのは、秋水にとって良くあることである。

 初対面で拒絶されるか、仲良くなってから拒絶されるか、その違いでしかない。


 むしろ心の片隅では、だろうな、と冷静に納得している自分もいた。


 そもそも、美寧にとって秋水は、ジムで色々と筋トレを教えてくれる先生、でしかない。

 便利な他人である。

 そんな奴が、安全策とっているのにこれ見よがしに助けに入るとか、偉そうに講釈垂れて叱ってくるとか、普通に考えたら、ウゼぇ、と思うのが当然である。

 まして筋肉の化け物みたいな秋水が相手である。

 距離を取りたくなるのは当たり前のことだろう。

 うん、普通だ普通。

 むしろ、今まで良く付き合ってくれたと思う。

 こんな深夜のジムで、こんな奴と2人きりで、身の危険だって感じるであろうに。

 これからは昼のジムの方をメインにするだろうか。

 その方が良いだろう。

 別に美寧の家庭の事情に首を突っ込む気はないのだが、華の女子高生が深夜に筋トレはちょっとどうかと思う。人のことが言えた義理でもないのだが、生活リズムとしてちょっと問題だろう。

 それを考えたら、ジムで筋トレするのは、昼の方が良い。

 なあに、美寧はちゃんと自己学習が出来ている人だ。これからは自分のペースで勉強して、自分のペースで筋トレをすると良いだろう、うん。


 それはそれとして、あーあ、という気分であった。




 5分くらいは。




「はぁ、はぁ、ふっ……160%、いや170%、ふぅ、増しくらい、はぁ……マジか!」


 バーベルを静かに床に置き、荒い息を整えながらも秋水はにやにやと満面の笑みであった。

 筋トレは筋トレとしてもちろんするが、ジムにきた今日の目的はやはり、身体強化の魔法がどれほど向上しているのか、という実験がメインである。

 デカい水饅頭という新たなモンスターの出現で若干忘れがちなのだが、秋水はボスウサギの再討伐を終え、その魔素をしっかり吸収したのである。

 それによる魔法の性能向上は如何ほどなのか。

 それを確かめるため、バーベルカールという手頃な筋トレで実験してみたのだが。


「これを6割で発動させても……ほとんど倍の身体強化じゃねぇか。てことは、ボスウサギちゃん叩き殺す前の全力の身体強化とほぼどっこい……滾るぜこりゃ、ブーストしたら幾つになんだ?」


 汗を拭きつつ、秋水のにやにやがまるで引っ込まない。

 これは面白いことになってきた。

 そう考えている秋水の脳裏には、美寧のことなど綺麗さっぱり消えているのだった。




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 ダンジョンが絡むと感性が男子小学生並になり、異性のことは本気でどうでも良くなる。


 うん、わりと最低だこの主人公(´゚ω゚`)

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