116『Q:あなたは誰ですか?』
「こんばんは、美寧さん」
「…………」
立って見下ろすのもどうかなと思い、片膝立ちのような姿勢で美寧と目を合わせて挨拶をしてみるも、気不味いような、怒っているような、話しづらそうな、機嫌が悪いような、なんとも判断のしづらいむすっとした表情で美寧は押し黙ってしまっていた。
2人の間の空気は瀕死状態である。
に、逃げたい。
ダンジョンのモンスター相手ではまず出てこないであろう弱音が、秋水の脳裏にほんわりと浮かんでくる。
ベンチプレスで重量に負けて体勢が崩れるのではなく、バーベルを押し零すという意味不明な状態に、思わず咄嗟に駆け寄って落ちるバーベルを受け止めたは良いものの、少々マズい体勢になってしまってから、5分程経った。
なにがマズいって、仰向けになっている美寧の真上に、覆い被さるようにして身を乗り出してしまっていたからである。
誓って言おう。
美寧には僅かばかりも触れてなどいない。
勢いで密着しそうにこそなったが、セーフティバーに左手をついて体勢を支えたのと、持ち前の筋力でどうにか堪えた。
と言うか、40㎏程度のバーベル落下を助けるために、体重3桁の秋水が押し潰しては意味がない。
意味がない、のだが。
バーベルを受け止めた後ですぐに気がついたのは、助けに駆けつけたこと自体が意味がなかった、ということだった。
前のめりの体勢を支えるために左手を突いたのはセーフティバー。
そのセーフティバーの役割は、そう、バーベルが落下した場合にトレーニング者の身の安全を守るため、である。
つまり、バーベルを落としたところで、美寧の身に問題はなかったのだ。
無駄なことをした。
そして、ただただ無意味にマズい体勢になってしまった。
落ちそうになったバーベルから顔を背けていた美寧が目を開け、かなりの至近距離にいた秋水に思いっきり悲鳴を上げたときには、まだ筋トレも始めていないのに秋水の背中には汗がびっしりである。冷や汗と呼ばれる嫌な汗だ。
これはマズい。
主に社会的にマズい。
この状態を写真にでも撮られたら一発アウトだろう。いやスリーアウトで交番に向かってバッターチェンジかもしれない。人生のゲームセットか、うるせぇ。
驚きのあまり美寧がバーベルから両手を離し、秋水の右腕にはずしりと40㎏の重量がのし掛かる。わりと腕を伸ばしてキャッチした状態なので、体の重心からは大分距離がある。やってて良かった肩の筋トレ。
無茶な体勢のせいで秋水の体が美寧に触れそうになるが、そこは気合いで耐える。具体的には背筋で耐える。やってて良かった背中の筋トレ。
「ちょっと、失礼しますね」
一声掛け、秋水はゆっくりとバーベルを持ち上げてラックへとガチャリと掛ける。
驚きで固まっていた美寧の目線が、バーベルの動きを追うようにゆっくりと移動するのが分かる。
そのままバーベルの方に視線を集中しててくれ。
頼むから胸の方には意識を向けるなよ。
仰向けになっている状態かつ、美寧のその女性らしいスタイルのせいで、一番接触してしまう危険性が高いであろう部分が触れてしまわないように注意を払いつつ、ゆっくりと秋水は上体を起こす。
セーフティバーに掛けた左手で片腕立て伏せをする要領で。そして胸が決して下がらないように、バックエクステンションで腰を逸らす要領で。
最後まで美寧の体に触れず、どうにか体を起こしきった秋水は、はぁぁ、と天井に向けて大きなため息を吐き出した。
そのため息に、びくり、と美寧が肩を竦ませたのは、秋水の視界の外であった。
「手首は捻ったりしていませんか、美寧さん」
「ぅ……」
正直なところ、美寧に対する心配よりも自分の社会的致命傷を避けられたことに安堵しつつ、秋水は改めて美寧の方へと顔を向ける。
ここで美寧が 「え、セクハラじゃん」 とか話を蒸し返したら一巻の終わりなのだが、そこは考えないことにした。と言うか考えたくない。
若干ドキドキしながら声を掛けてみるが、そんな美寧の反応と言えば、きゅ、と眉間にシワを寄せて渋い表情になることだった。
うわ嫌がられてる。
まあ、それはそうだろう。こんな大男に覆い被さられたら、そりゃ不快不愉快極まりないであろう。軽く汗を流してきたとは言えどダンジョンアタックの後である、臭かったかもしれない。単純に怖い顔が近くにあって嫌だったのかもしれない。
なんかゴメン、と遠い目をしつつ、秋水は視線を下げるように片膝立ちになり、近くに置いてあった美寧のものであろう水筒を手に取った。
「お疲れ様です、お水をどうぞ」
そう言って美寧に水筒を差し出してみれば、のそり、と美寧がトレーニングベンチから上体を起こしてきた。
むすっ、とした表情である。
あら不機嫌そう。
そんな顔で美寧は無言のまま水筒を受け取り、中の水を一口呷る。
水筒を受け取ったのは左手。
もし仮に手首を捻るとしたら、滑らせた右ではなく、数瞬とはいえ片腕でバーベルを支えることになった左であろう。
見た限り、痛めている様子は見受けられない。
怪我はない。
なるほど。
セーフティバーにしろ、怪我がなかったことにしろ、本当に自分は無意味な助けをしたらしい。
しょんぼりである。
「…………」
水を飲んだ美寧が、ぱちりと水筒のフタを閉める。
無言のままだ。
いつものような元気な挨拶もなく、にへら、とした笑みもなく、むすっとしたまま顔を逸らした。
どことなく気不味そうな感じもする。
安心してくれ、こちらも気不味い。この時点で秋水は逃げたくなっていた。
そして、そのまま美寧の無言がしばらく続いた。
ほらどうする、空気がご臨終だぞ。
セーフティバーがあったんだから余計なことしやがってと思われてるのだろうか、それとものし掛かられそうになった嫌悪感が酷いのだろうか。はたまたトレーニングを中断させられてご立腹なのだろうか。勝手に水筒を触られたのが心底嫌だとか言われたら、まじでゴメン、としか言えないのだが。
しばしの無言。
背中の汗もすっかり乾いて良さそうなのに、いやぁな雰囲気に変な汗が止まらない。これ汗臭いとか言われそう。
片膝立ちのまま、秋水はすっと視線を美寧の奥へとズラした。
ラックに掛けられた、バーベルに、である。
10㎏のプレートが左右に1枚ずつ。
バーベルの棒本体と合わせ、その重量は40㎏だ。
秋水にとってはウォーミングアップにもならない軽さである。
だが、美寧にとっては、まあ、ご覧の有様となる重量であった。
40㎏というのは、平均的な初心者の男性が、ベンチプレスでギリギリ1回を持ち上げられる平均重量と言われている。
平均的な初心者の女性ならば、20㎏だ。
「……かっこ悪いでしょ」
と、そこでようやく、美寧が口を開いた。
片膝立ちのまま動かず、視線を再び美寧の方へと移してみれば、にへら、とうっすら笑った美寧が小さくなっていた。
少し俯き、しかし下から見上げる形となっている秋水からは、その無理に笑った表情がよく見える。
いつものような笑みではない。
覇気がない。
元気がない。
どこか自嘲気味な作り笑いだ。
その表情に、ピンときた。
うわ、つまんねぇ話だこれ。
同時に抱いた秋水の感想は、そんな悪辣かつ人の心がないような感想であった。
「これくらい持ち上げてた子がいたのにさ、私じゃ全然上げらんなかったし……」
にへら、と笑いつつ、それでも美寧は奥歯をぐっと噛む。
いや馬鹿かお前、と思わずツッコミを入れそうになるのを同じく、ぐっと秋水は押し殺す。
「小学生くらいの子だよ? 女の子。だから出来るって、思って……」
美寧は泣きそうになっていた。
泣きたいのはこっちだ。
女子小学生が40㎏でベンチプレスをしていたって、体重が100㎏とかじゃない限り、どう考えてもその子は上澄みの筋トレ民である。初心者が何も考えずに上級者の真似をして大失敗するとか、実につまらない、そして、よくある話だ。
と言うか、その口ぶりから察するに、美寧は日中のジムにも顔を出したのだろう。
そして、周りの様子に感化されたのか、圧倒されたのかしたのだろう。
まあ、このジム、わりとガチ勢が集まるジムなので、初心者がまるで参考にならない奴等がうじゃうじゃしているのだが。
これは日比野も困惑していたことではあるのだが、ピンクのクマさんというファンシーなマスコットを看板に掲げているくせに、このジムの中は所狭しと並べられた筋トレマシンに、豊富なフリーウエイトのコーナーが売りなのだ。
それに釣られて筋トレガチ勢が集まってくるのである。
そして、ガチ勢のトレーニングは、初心者が見様見真似で参考にするには、全く役に立たない場合がほとんどなのである。
「……怒んないの?」
ぽつりと美寧が呟いた。
にへら、とした笑みはすっかり崩れていて、自嘲の色に染まっている。
所々引き攣った、変な作り笑いだ。
「プレート付けるのは早いって、何回も言ってたじゃん。まずはシャフトだけでやれって、何回も言ってたじゃん」
そうだね。
言ったね。
言ってたね。
うん、うん、と秋水は美寧の言葉の一つ一つに頷いて返す。
「私、無視したよ? やれるだろうって思って、勝手に重量増やして、独りで失敗して、馬鹿みたい……」
そうだね。
うん、と秋水は繰り返し頷く。
馬鹿みたい、にも普通に頷いた。
だって、本当に馬鹿みたいな話、なのだから。
「怒らないの?」
いや、怒っては、いる。
やっても良いのであれば、シバき倒したい程度には、怒って、いる。
怒鳴りつけても良いのであれば、いや馬鹿かお前、という言葉は飲み込むことなくツッコミとして叩きつけていたであろうぐらいには、怒っている。
秋水は、普通に、怒りを覚えては、いた。
確かに、パワーラックでのベンチプレスだったから、今回は怪我がなかった。
セーフティバーがあったから、秋水が助けに入らなくても無事だっただろう。
今回は秋水が勝手に慌てただけで、助けも必要ない程度に安全策が講じられていたから良かった。
で、他ならばどうなっていただろうか。
例えば、同じベンチプレスだとしても、ダンベルでのベンチプレスだったらどうだ。
パワーラックではない。ただのトレーニングベンチに横になって、ダンベルでベンチプレスをしていたら、セーフティバーなんてものはないのだ。
そこでダンベルを落としてしまったらどうなる。
美寧の体に直撃していたかもしれない。
怪我をしていたかもしれない。
大怪我になっていたかもしれない。
スクワットならどうだ。
パワーラックのセーフティバーがあったとしても、重量に押し潰されて転んだのであれば、急性腰痛症待ったなしだ。その苦しみは魔女の一撃と称される程なのだ。要はぎっくり腰である。
デッドリフトならどうだ。
押し潰されるも何も、自分に見合わない高重量を無理矢理引き上げようとしたら、一瞬で腰をやる。
いいや、今回のバーベルベンチプレスだって、セーフティバーでバーベルによる圧殺を避けられたとしても、捻挫どころか場合によっては手首が折れていたって不思議じゃないのだ。
重量を身の丈に合わないレベルに引き上げると言うのは、そういう危険性が潜んでいるのである。
ふざけんな。
冗談じゃない。
冗談ではないぞ。
死んだら、どうするんだ。
父のように。
母のように。
妹のように。
死んだら、喋れなくなるんだぞ。
会えなくなるんだぞ。
未来がなくなるんだぞ。
全員を置き去りにするんだぞ。
知っている人が死ぬのは、もう、真っ平ゴメンだ。
だからこそ秋水は怒りを感じている。
怒っている。
だからこそ。
「叱りませんよ」
怒らない、とは口を裂けても言えない。
実際に怒ってはいるのだ。
だが、それで美寧を叱る気は、ない。
危ないことをした。その点については、ふざけんな、だ。
しかし、身の丈に合わない重量にチャレンジしたのは、分かる分かる、という感じなのである。
何度も言うが、美寧はパワーラックを使用し、ちゃんとセーフティバーを設定していて、きちんと安全策をとっていた。その上で40㎏にチャレンジしたのである。
これも何度も言うのだが、秋水が慌てて助けに入ったのは無駄かつ無意味だったのだ。それくらいに問題なかったのだ。手首がごきりと折れる心配こそあったが、それで死ぬことはない。
スクワットだったら、デッドリフトだったら、ダンベルを使用していたら。
そんな考えも浮かんではいるが、そもそも美寧であれば、そんな危ない選択肢を選ぶことなんてきっとないのであろう。ただの妄想でしかない。
だから今、秋水が抱いている怒りというのは、八つ当たりに近い怒りである。
独りで勝手に慌てて、独りで勝手に安堵して、独りで勝手に怒っているだけである。
だから、美寧に対して怒るのは筋違いであり、叱る必要も、たぶんない。
「なんで?」
だがしかし、美寧の方は事情が違う様子であった。
叱らない、そう口にした途端に、美寧の表情がガラリと変わったのである。
「私、出来もしないことやったじゃん!!」
トレーニングベンチからがたりと美寧が立ち上がった。
目を見開いて、眉間のシワが深く寄る。
口が横に伸びたのは、歯を見せるように威嚇してくる犬を思い出す。不審者と間違われて秋水が威嚇されるのが主な思い出だ。
「先生の言ったこと破ったじゃん! 失敗したじゃん! 持ち上がんなかったじゃん! 馬鹿みたいじゃん!」
荒ぶっている。
ブチ切れでいらっしゃる。
秋水を睨むように見下ろして、急に怒り始めた美寧の言葉を、秋水は片膝立ちの姿勢を一切崩すことなく聞く。
ただ、馬鹿みたい、に対してだけは容赦なく頷いた。
「みんな出来てたのに! あんな子だって出来てたのに! 私だけ軽いのとか、馬鹿じゃん!!」
それが本音なのだろうな。
ただ黙って聞きながら、秋水はそう思った。
自分だけ軽い重量なのが恥ずかしかったんだろう。
重い重量でトレーニングしている人を見て、自分が小さく感じたんだろう。
その気持ちは、秋水が初心者だったときに、感じたことがある。
だから、身の丈に合わない重量をやったんだな。
分かる分かる。
初心者あるあるじゃないか。
懐かしい。
「全然出来ないよ!? 私だけ出来ないよ!? なんで!?」
鍛え方が足りないからじゃん。
思わず心の中でツッコんだ。じゃんじゃん言っていた美寧の語調が感染ってしまったみたいである。
出来ないのは力不足で、筋力不足だ。
つまりトレーニング不足。
それが答えだ。
そして、それが全部の答え、である。
じっと美寧を見上げながら、じっとヒステリックな怒鳴り声を聞く。
姿勢は崩さず。
美寧の目を見上げる。
「先生だって呆れたでしょ!? こんな軽いのも出来ないって! かっこ悪いって! ダサいって! 馬鹿みたいだって!」
美寧の言葉は止まらない。
秋水は何も言い返さない。
懐かしい。
妹が本気で怒っているときは、こんな感じだった。
気が済むまでひたすら聞いて、ただただ聞いて、たまに叩かれて、ずっと傍に居る感じだった。
あれが正解だったのか、そしてこれが正解なのか、今でもそれは分からない。
だけど、懐かしい。
ふ、と秋水は小さく笑う。
「それとも興味ないかんじ!? お前なんか興味ないって!? お前なんかどうでもいいって!? 私なんか……っ!!」
ぐ、と美寧の言葉が詰まった。
秋水はうっすらと笑いつつ、目線は逸らすことなく美寧を見上げる。
涙目だ。
泣きそうである。
奥歯を噛んで、美寧の視線が逸れた。
沈黙が、数秒。
「なんとか、言えよぉ……」
それから、ぽつり、と美寧が零す。
声が震えているのは、気がつかなかったことにしよう。
言いたいことはもう良いのだろうか。愚痴や不満ならば、もっと言っても良いのだが。
ふむ、と美寧を見上げながら秋水は小さく鼻を鳴らし、そして美寧によく見えるようにして人差し指を1本だけ顔の前に立てる。
「それで美寧さん、まずは1つだけ、先に質問をさせて頂いてもよろしいでしょうか」
質問は、1つだけで十分だ。
その答えが、全部の答えだ。
筋トレだけの話ではない。
秋水にとっては、その質問の、その答えが、本当に、全部の答えなのである。
美寧が、小さく頷いたのを確認する。
立てた人差し指をゆっくり下ろし、膝の上に手を置いて、では、と秋水は簡単に前置きをした後に、その質問を口にした。
「あなたは、誰ですか?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
怒ると叱るは別もんです。
次回は、色々とストイック気質な秋水くんの思想がだいぶ色濃く、そして前面に出てきます。
たぶん、みんなはドン引くかもしれない(;´Д`)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます