115『重量設定を舐めてかかるな』
歯を磨いて、シャワーを浴びて、さっぱりと身支度を済ませてからいつものダサいジャージに着替え、真っ暗夜道をとぼとぼ歩いてジムに辿り着いた美寧は、う、と言葉に詰まった。
誰か居たら、どうしよう。
今まで感じたことのない不安だった。
駐車場に車はない。
恐る恐るガラス戸の向こうを覗いてみれば、誰も居る様子は、ない。
深夜のジムには、相変わらず人の姿はないようだ。
そのことに美寧は、ほっと胸を撫で下ろした。
昨日、いやもう一昨日か、木曜日の放課後に顔を出したときは人がいっぱいだったが、美寧が見慣れているジムの様子とは、誰も居ないがらんとした雰囲気なのである。
そうそう、これこれ。この閑散とした静けさよ。
鼻歌混じりに扉のロックを解除して、ジムへと入る。
誰も居ない。
貸し切りだ。
コートを脱いで、大きく深呼吸をする。
「えーっと、まずは準備運動してから……」
がらがらで使いたい放題の棚に荷物を突っ込んで、美寧はストレッチコーナーへと移動する。
目の前には鏡張りの壁。今日は一段とブスな顔をした自分。芋臭いジャージの姿。
鏡を見て、にへら、と作り笑いを浮かべる。
「すまーいる、すまーいる」
自己暗示を掛けるように何度か唱えつつ、改めてジムの中に誰も居ないことを確認する。
「んー、ラジオ体操、流しちゃってもいい、かなぁ……?」
誰か他に居るのならば話は別だが、誰もいないのならば、スマホでガンガンラジオ体操の曲を掛けてしまっても問題ないだろう。
先生に教えて貰ったときだって、そうしてたし。
それまで真面目にラジオ体操がどういう動きで、どこの関節を動かし、どこの筋肉を伸ばすのか、なんて考えたこともなかった美寧に、親切丁寧にラジオ体操のやり方を教えてくれた時のことを思い出し、ふ、と小さく笑う。
今ではすっかり、美寧にとってのウォーミングアップの定番は、ラジオ体操である。
マナー違反上等とばかりに大音量でラジオ体操の曲を流し、それに合わせて美寧は体操を始める。
まずは第一。
それから第二。
続けて行えば、体の筋肉がしっかり温まるのが実感出来る。動画サイトでは幻のラジオ体操第三とか言うのがあるので、今よりも体力がついてきたら、それも覚えて3つぶっ続けにしても良いかもしれない。
冬の外気で冷えていた指先までしっかり温まっているのを確かめてから、よし、と棚に突っ込んだ荷物の所へと戻り、水筒とタオルを手に取る。
本番はここからだ。
筋トレは、まずはじめに多関節のトレーニングから開始して、どんどんと単関節のトレーニングへと移行していくのが良いとされる、とか聞いた。ヤクザ面した先生からである。
今日は上半身を重点的に行う予定なので、胸系、背中系、と交互に行うつもりだ。
やはり、ビッグ3から入るのが鉄板だろうか。
しかし残念ながら、美寧は未だにデッドリフトが上手く出来ない。先生曰く、ヒップヒンジがちゃんと出来ないと、体を痛めてしまう可能性が高いから止めときなはれ、みたいな感じのことを言われた。くそが。
そして、下半身は明日の予定なので、スクワットはお呼びではない。
となると、最初に行う筋トレメニューは自動的に決まってしまう。
「……ベンチプレス、か」
ちら、とパワーラックの方へと目をやった。
トレーニングベンチがあり、高重量のバーベルを行うために組まれた頑強な柱が見える。
誰も居ない。
あの子も、いない。
「……よし」
一瞬だけ嫌なことを思い出したものの、美寧は小さく頷いてからパワーラックの中に入る。
まずはベンチ位置の調整、は、ほぼする必要なし。
次にセーフティバーの設定。高さの番号を確認しながら、がちゃがちゃと組み替える。
そしてバーベルを持ち上げる。重い。このシャフトだけで20㎏だ。
「ふにっ、よっ、と」
変な掛け声と共に、そのバーベルシャフトをセーフティバーに乗せるように置いてから、バーベルが掛かっていたラックを外して高さを調整する。
そして重たいバーベルを持ち上げて、改めてラックへと掛ければ完成だ。
「ふぅ、ちょっとは手慣れてきたかな?」
自画自賛だろうか。
パワーラックでのベンチプレスは何回もやっているので、もうバーベルの高さもセーフティの高さも覚えてしまっているし、その高さ調整だって手間取ることはなくなったように思う。
ちょっとは成長していると言うことだろうか。
まあ、肝心の重量は、全然伸びちゃいないのだが。
「…………」
バーベルを見る。
重りはついていない、素のシャフトだ。
これだけで20㎏。
あの子は。
「む」
小学生くらいの子が、35㎏。
自分は高校生にもなって、たったの20㎏。
重りをつけて頑張っていた子に、重りなしでひぃこらいってる自分。
先生は、まだ止めておけと言う。
20㎏で、しっかり形を作ろうと言う。
フォームは、出来てるだろ。先生だってそう言ってるじゃないか。
「ちょっとくらいなら……」
そう言いつつ、美寧はパワーラックの横に回った。
そこには円盤状の重りが何枚もある。
軽いのは1250g。
重いのは20㎏。
一昨日見た子が35㎏だったから。
「……40、くらいなら」
自分だって、と呟きながら、美寧は10㎏の重りを外して抱える。
ずしり、と重さがダイレクトに伝わる。
本当に、やれるのか?
抱えた重さに、不安が首を持ち上げた。
「……ううん、小学生とかでも出来るんだから!」
その不安を打ち消すように、ブルブルと首を横に振ってから、抱えた重りをゆっくりとバーベルへと装着する。
そして重りがトレーニング中にバーベルシャフトから外れないように、ストッパーであるカラーをバーベルにはめて重りを固定する。
続いて反対側に回り、そちら側にも10㎏の重りを装着。
20㎏のシャフトに、10㎏の重りが2つ。
これで合計40㎏だ。
あとは、これで。
「よ、よーし……」
少し声が震えているのは、あれだ、武者震いだろう。
気合いを入れるようにペちぺちと自分の頬を叩いてから、バーベルシャフトを潜るようにして美寧はトレーニングベンチに仰向けになった。
天井が見える。
バーベルが見える。
位置は、よし。
手幅は、これくらい。
バーベルシャフトを握れば、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。
床に付いた足に力を入れ、一度お尻を上げてから位置調整。
肩甲骨を寄せて、ベンチに押しつけるようにぐっと力を入れる。
腰を反るようにして胸を反らして、基本姿勢はこんなものか。
「ふぅぅぅ……」
大きく息を吐き出す。
「すぅぅ……ふっ」
そして大きく息を吸って、その途中で息を短く吐きながら腹筋を締めるようにしてお腹に力を一気に入れる。
腹圧をかける、とか先生は言っていたか。
準備は良し。
出来る。
やれる。
あんな子供でも出来たんだ、自分だって、これくらい。
「ふ、にぃぃぃぃぃっ!!」
誰も居ないのを良いことに、気合いを入れる唸り声と共にバーベルシャフトへと力を入れた。
上へ。
天井へ。
胸を締めるように力を入れて、バーベルシャフトを持ち上げて。
上がら、ない。
「ふっ、んっ、んんんっ、いっ!!」
上がれ。
上がれ。
持ち上がれ。
胸の力だけじゃない、腕の力も使うんだ。
ベンチに押しつけた肩甲骨をさらに押しつけるようにして、バーベルへと力を加える。
重たい。
重い。
20㎏だぞ。
たった20㎏増やしただけだぞ。
自分の体重を持ち上げる程度じゃないか。ちょっと違うけど。
腕立て伏せと大して変わらないだろ。腕立て伏せあんまりしたことないけど。
いけるだろ。
やれるだろ。
出来るだろ。
「んっ、んんっ、ぅんっ!!」
ガッ、とラックから音がした。
バーベルが、少しだけ浮いた。
いける。
持ち上がる。
歯を食いしばって力を込める。
踏ん張りすぎて、頭の血管が切れそうだ。たぶん顔は真っ赤だろう。
でも、バーベルが一度持ち上がりさえすれば。
そう思って。
思ったところが、限界だった。
ガシャン、と大きな音がジムの中に鳴り響く。
僅かに、本当に僅かにだけ上がったバーベルが、そのハンガーラックに落とされた音である。
「ふはっ……はぁっ! はっ! げほっ、はぁっ! はっ、おぇ、はぁっ!」
多少むせながらも、美寧はトレーニングベンチの上に転がったまま荒い呼吸を繰り返す。
キツい。
息が上がる。
心臓がバクバクする。
頭がくらくらする。
腕や肩や胸の筋肉が強張って熱くなる。
「はっ、はぁ! はっ、はっ、はぁ! すっ、はぁっ! は、すっ、はぁっ!」
息が整わない。
それでも無理矢理リズムを作ろうと、無理矢理深呼吸を繰り返す。
バーベルから手を離す。
ダルい。
腕が重い。
なんだコレ。
全然ビクともしなかった。
まるで激しいトレーニングでもやりました、みたいに出し切って疲れた様子になってはいるが、ベンチプレスは1回も出来ていない。
それどころか、まともに浮かせられもしなかった。
ダサい。
情けない。
あんな小学生みたいな子でも、35㎏だぞ。
高校生にもなって、この程度の重量すら。
泣きそうになるのを、ぐっと堪える。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……すぅ、はぁ、けほっ」
段々と呼吸が落ち着いてくる。
情けない。
情けない。情けない。
情けない。情けない。情けない。情けない。
全然出来ない。
これくらいのことも出来ない。
ラックから持ち上げる程度のことすら出来なかった。
悔しい。
16年も生きてきて、なんでこれくらいが、出来ないんだ。
歯を食いしばる。
目の周りを指で拭う。
これは、涙じゃない。汗だ。
いけるだろ。
やれるだろ。
バーベルのシャフトだけは持ち上げられるんだ。あれをもう1本だけ持つだけの話だ。
たったの40㎏だ。
180㎏持ち上げていた、あの化け物みたいな先生と比べたら、これくらい。
この程度ぐらい、私でも。
整ってきたばかりの息を、思いっきり吸い込んだ。
止める。
腹圧をかける。
胸を反らせて、肩甲骨を押しつけて、バーベルをもって、足を踏ん張って。
「こ、な、く、そ、がぁぁっ!!」
自分にお似合いの汚い言葉を吐きながら、全身の反動を使うようにして一気に力をバーベルへと押し込める。
胸の筋肉だけなんて言っていられない。
フォームだなんて言っていられない。
腕の筋肉も使う。肩の筋肉も使う。腹の筋肉も使う。腰の筋肉も使う。
足から反動をつけて、がむしゃらに力を入れる。
上がれ。
上がれよ。
持ち上がれ。
「んんんんんんっ!!!」
とにかく力を、全力で、押し上げて。
ガチャ、と音がした。
ラックからバーベルシャフトが外れる音だ。
いける。
出来る。
もう少し。
上げるだけでも。
足がジタバタとみっともなく動く。
その反動を余すことなくバーベルを押し込むのに伝えて。
バーベルが、少し、上がった。
ラックから、外せた。
あ、やった。
出来た。
やれた。
自分でも、持ち上がった。
歯を食いしばりすぎて、踏ん張りすぎて、定まらなくなっている視界でも、バーベルがラックから持ち上げられたのを見て、美寧の中で安堵の気持ちが生まれた。
ほっとした。
してしまった。
気が抜けた。
「ぁ……」
くら、と立ちくらみのような感覚。
貧血のような気持ち悪さ。
ヤバい、と思ったときには、全部遅い。
持ち上げたバーベルを、叩きつけても良いからとにかくラックに戻そうと。
間に合わない。
手が、滑った。
「っ」
悲鳴を上げる暇もない。
いや、認識が間に合っていない。
姿勢が崩れたり、腕の力が抜けたわけではない。
もしそうならば、姿勢を崩そうと力が抜けようと多少の力は抵抗に回せるから、まだマシになるはずだ。
けど、違う。
すべった。
手が滑った。
握力が死んだのか、それともフォームがクソ過ぎたせいか、右手がずるりと、バーベルシャフトのその奥へと滑った。
握ってたのに。
こんな滑り方ってあるのか。
右手が滑って、左手だけになる。
40㎏のバーベルを、左腕だけで支えられるはずが、ない。
さらにバランスも崩れて。
中途半端にラックから外されたバーベルが、落ちる。
美寧の顔面を、目掛けて、落ちる。
「ひっ!?」
なにもかもが間に合わない。
落ちる一瞬だけで出来ることなど、美寧には精々目を瞑って現実を見えなくさせるくらいしか出来ず。
潰される。
痛いだろうな。
傷出来るかな。
傷跡残るかな。
死んだりするかな。
いやだ。
たったの一瞬で、ごちゃりとした感情が湧き出ながら、来るべき衝撃に身構えることも覚悟を決めることすら出来ないまま。
1秒。
2秒。
……あれ?
ぶつから、ない。
落ちてこない。
バーベルが顔に落ちてくることも、はたまた逸れて床に落ちることもない。
ただ、残っていた左手には、バーベルの感触は、まだあって。
「……?」
ゆっくりと、薄く、目を開く。
薄め特有のぼんやりした視界にまず映ったのは、銀色をした鈍い光。
バーベルだ。
それが、こぶし2つ分か3つ分くらいの、目の前にあった。
「わっ! うわあぁっ!?」
まず眼前のバーベルシャフトに驚いて目を見開いて、続いて視界に飛び込んできたものに対してガチ目に悲鳴を上げてしまった。
悲鳴を上げるどころか、バーベルに添えていた左手すらも離して驚いてしまった。
しかし、バーベルは落ちてこない。
両手を離したのに、落ちてこない。
あ、そうだ、セーフティバー。
そこでようやく自分が最初に位置調整したセーフティバーのことを思い出した。
いきなりで驚きすぎて忘れていたが、セーフティがある以上、バーベルを落としたところでセーフティバーに衝突するだけで、美寧の顔面に落ちてくることはない。
完全に忘れていた。
安全のためのセーフティバーだ。
しかし、今回美寧が助かったのは、セーフティのお陰、ではない。
バーベルの次に視界に飛び込んできたもの。
いや、者、か。
いきなりすぎる登場で、思わず悲鳴が出てしまった。
だって、急に見るには、あまりにも心臓に悪すぎる顔で。
今時のヤクザやマフィアだって、そんな顔にはならんやろ、と言いたくなるような彫りが深くて厳つくて怖すぎる顔だ。
短く刈り揃えた丸刈り頭に、鋭く悪い目付きが凶悪な面構えをさらに強調している。
そして下から見上げれば、とにかく体の大きさから受ける威圧感が半端ではない。
縦にデカい。
そして横にもゴツゴツとデカい。
街中で出会ったら確実に関わり合いたくない見た目の巨漢だ。
なのだが、まあ。
一瞬は驚くが、その悪人面の大男は、見覚えのある人で。
「……美寧さん、大丈夫ですか?」
棟区 秋水。
美寧の、ジムでの先生だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
思いつきで100%も負荷を増やすんじゃねぇ(-_-#)
本当に危ないから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます