114『ざーこ♡ ばーか♡』
「え、美寧、そんなのも出来ないの?」
姉が心底不思議そうに投げかけてきた悪魔の一言に、かぁ、と美寧は顔が赤くなるのを感じた。
恥ずかしい。
いや違う。
悔しいのだ。
悔しかったのだ。
このときは確か、死ぬほど悔しくて、たった一言で暴れ回りたくなるほどに心をぐちゃぐちゃにされて、泣きそうなのを必死に我慢していたのだ。
つまり、過去の記憶だ。
ああ、これ、夢だ。
それはすぐに分かった。明晰夢、と言ったか。夢だと自覚している夢だ。
美寧の目の前には、姉。
2年以上前に死んでいる、もう居るはずもない女だ。
なんで自分の夢になんて出てくるんだ。頼むから大人しく死んでてくれよ。頼むよ。思い出させるなよ。
「ここを動かして、ほら出来た」
ほら、じゃないよ。
自慢かよ。ふざけんな。殴るぞ。
いつものように心の中では悪態がてんこ盛りなのだが、体は動かない。動かせない。
ああ、俯瞰してみるタイプの夢じゃなくて、主観で見てくタイプの夢か。
しかも見るだけ。見せられるだけ。見たくもないのに。
悪夢か。
最悪だ。
どうにも出来ないことに美寧は歯噛みをしたくなると、夢の中の美寧自身もぐっと奥歯を噛み締めた。
そうか。
そうだよね。
昔の私も、悔しかったもんね。
今の自分が嫌な気持ちになるように、昔の自分も嫌な気持ちになったのだ。
つまり、変わってない。
進歩がない。
最悪なのは、自分か。
「ほら見て美寧。美寧の名前もあるよ」
うるさい。
見たくない。
記憶の中にある通り、姉は明るく美寧に話しかけてくる。
そうだった、姉はこんな奴だった。
いつでも明るく、誰にでも優しく、何をやらせても優秀すぎて、最高に嫌な奴だった。
このときも確か。
たしか。
あれ、これは、いつの話だっけ。
自分は、なにが出来なかったのだっけ。
思い当たる節が多すぎる。
そして姉は、なにを出来ると見せびらかして来やがったのだっけ。
思い当たる節が多すぎる。
なんだっけ。
姉は今、なにをしてるんだ。
ふと、顔を上げる。
夢の中なのに、美寧の意思で、顔が上がった。
学校だった。
「……え?」
思わず間の抜けた声が出てしまう。
ここは、学校だ。
高校だ。
美寧の通っている、雫金高校である。
「まだテストの順位張り出してるんだ。上位だけって言っても、個人情報のリテラシーどうなってるんだろうね?」
姉がけらけらと脳天気に笑っている。
制服を着ていた。
雫金高校の制服だ。
自分の姿を見下ろしてみると、美寧もまた同じく制服を着ていた。
やはり、雫金高校の制服だ。
ありえない。
そしてゆっくりと前を向き、見上げる。
通用口の、大きな掲示板。
そこには試験結果の上位10名の名前が学年毎に張り出されていた。
この点数、この順位、見覚えがある。去年の2学期、その期末試験の総合結果である。
1年生の3位には、錦地 美寧と書かれている。
点数は7科目で686点。
「あちゃー、美寧は7つも問題落としちゃったんだ。1科目1個ミスは駄目だよー」
ぞわりと、鳥肌が立つ。
ありえない。
ありうるはずが、ない。
これは1ヶ月と少し前の記憶だ。張り出された期末試験の順位に、学年3位か、と落胆したのははっきりと覚えている。
だが同時に、記憶にない。
あるはずがない。
いや、ありえない。
だって、姉は、もう。
「あ、1位の子見て見て、700点だって。ノーミスだよ。私と同じだ。美寧もあのちっちゃい天才ちゃんを見習わないとね」
姉は、2年以上前に、死んでいる。
だから、去年の2学期末試験の結果を一緒に見るなんてことは、ありえない。
そして、3歳差である以上、同じ制服を着ていることも、ありえない。
あれ、これは、記憶を思い返している夢じゃ、ない。
ああ、これ、ただの、悪夢だ。
「そう言えば、あの天才ちゃんは全国統一試験は何位だったっけ? 美寧よりも上なんだよね」
顔が蒼くなる。
耳を塞ぎたい。
姉の声が聞こえる。聞きたくないのに聞こえる。
やめてくれ。
やめて。
姉さんはもう死んでるのに。もう声を聞くことはないのに。なのにまた、昔みたいに、心を抉るように天才の声が響いてくる。
「私が1年生だったときは、全国は4位だったなー。天才ちゃんは3位だっけ、凄い凄い。美寧は?」
やめろよ。
やめろ。
32位だよ。凄いじゃん。全国高校生テストだったら決勝戦出られる順位だぞ。頑張ったじゃん私。でも30位圏内が精一杯だったんだよ。
そもそもウチのあの天才児がおかしいんだよ。
小学生みたいにちんちくりんなくせして、テストは常に満点を叩き出し、全国レベルの試験でもトップ勢と激しいデッドヒートを繰り広げて銅メダルを勝ち取るような天才だ。聞いた話では、すでに高校3年生のテストを問題なく受けれるとかいう、正真正銘の化け物である。
「美寧も頑張らなきゃ。ほらディフェンス」
え?
瞬きをした次の瞬間に、すぐ横を、誰かがすり抜けた。
ダンッ、とボールが床をつく音。
体育館の床を、シューズが蹴る音。
歓声が聞こえる。
コートの中には人、人、人。10人入り乱れ、1つのボールの奪い合い。
は、と息を小さく吐けば、自分の息がすっかり上がっていることに気がついた。
「ほらほら、シュート入れられちゃ……あ、すっごい素人ちゃんだ。あれは入らないよ。ほらリバウンド、走って走って」
振り向けば、体操服姿に背番号をつけた誰かが、バスケットゴールに向けて丁度ボールを投げているところ。
あれ。
ここは、体育館?
なんで?
テストの順位は?
自分の格好が、同じく体操服に背番号。
なぜかバスケットの試合中。
なんだこれ。
ああ、いや。
これは、記憶にある。
球技大会だ。
去年の秋に行った、球技大会である。
「あーあー、盗られちゃった。駄目だよ美寧、バスケは足で稼がなきゃ」
だから、なんで、お前がいる。
姉も同じく体操服。
当然だが、球技大会には姉が居るはずもなかった。死人が出てくるはずもなかった。
なのに姉は、なぜか美寧の隣にいた。
隣に立って、肩を持って、アドバイスをするように、茶々を入れるように、息をするように駄目出しを入れてくる。
「もう息上がっちゃってるの? 美寧は体力ないなぁ、よわよわのザコちゃんだぞ」
うるさい。
うるさい、うるさい。
向こうはバスケ部で、1年なのにレギュラー入りしてる奴が2人もいるんだよ。こちらとずっとフルで動きまくってて体力限界なんだよ。この試合だってもう、インで6発、アウトから4発入れてるんだ。1人で24得点、十分凄いだろ。負けてるけど。負けたけど。
「あ、そっか、美寧はザコちゃんだったね、ごめんね?」
ガシャン、と音がした。
あ、いやだ。
反射的に身構えた。
その音には、聞き覚えがあった。
聞き覚えが、あるようになった。
パワーラックのバーベルハンガーにバーベルを置いた、その独特の音だ。
「美寧は力ないもんね? 体も硬いし、よくそれでスポーツ頑張るよね? 怪我しちゃうよ?」
ジャージ姿の姉が居る。
自分も同じ姿である。
場所は。
「小学生に負けちゃってるね? 美寧はあの子の半分しか出来ないの? ザコちゃんだね?」
目の前には少女が1人。
顔も知らない。
名前も知らない。
一度だけ見た、女の子。
トレーニングベンチに仰向けになり、バーベルを胸の上まで上げ下ろし。
ベンチプレス。
重量、35㎏。
対して美寧のトレーニング重量は、重りも付けないたったの20㎏。
思わず視線を逸らして爪先を見る。地味な靴だ。
「頑張っても仕方ないよ? 美寧じゃ出来ないよ? やれるわけないから諦めた方がいいよ? 美寧はよわよわのザコちゃんなんだから、無理しちゃ駄目だよ? 諦めよ? 無理だよ?」
うるさい。
うるさい。
喋るな。
出てくるな。
ちゃんと死んでろ。
頑張ってなにが悪い。
出来ないなんてやらなきゃ分からないだろ。
なにもしないで諦めて堪るか。
雑魚なのは、認めるが、そうであるから無理をするんだよ。
無理をして、初めて半人前なんだよ、私は。
お前みたいな天才と違うんだ。
なにをしても認められるお前とは違うんだ。
とにかく頑張らなきゃ、無理しなきゃ、やらなきゃ、誰も見てくれないんだよ、私は。
「美寧はホント、私と全然違って可愛いなー。あれも出来ないし、これも出来ないし、なにも出来ないし。いっぱい頑張っても、ぜーんぶ私に負けちゃうもんね、ざーこ」
うるさい。
うるさい。うるさい。
うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
私にだって出来る。きっと出来る。
頑張れば、無理すれば、いつかは、1番に。
「いつかって? おっそいなー。そんなこと言ってちゃ美寧はいつまで経っても誰にも勝てないよ? 35? あのヤクザは180くらいだっけ? 美寧の9倍だよ? 勝てるわけないよ? 無理無理、人間は適材適所、得手不得手があるんだよ? 美寧は全部苦手だろうけどね?」
頭がぐちゃぐちゃする。
心がごわごわする。
気持ち悪い。
吐きたい。
逃げたい。
でも、足が動かない。
目の前では、少女がベンチプレスをやっている。
シュールな光景だ。
その隣に、筋骨隆々を絵に描いたような輩がいた。
なんか、少女のことを、凄い褒めてる。
あれ、誰だっけ。
あの男、誰だっけ。
なんで褒められてるの、私じゃないんだろう。
弱いからか、貧弱だからか。
うるさいからか、しつこいからか、喧嘩腰になるからか。
口が悪いからか、性格が悪いからか、ゴミみたいな奴だからか、性根が腐ってるからか、すぐに嫉妬するからか、才能ないからか、天才じゃないからか、凡人だからか、凡人以下の愚図だからか。
だから、褒められないのか。
あの男にも、褒められなくなってしまうのか。
見捨てられてしまうのか。
また、見限られるのか。
「美寧はなんだったら出来るの? なんにも出来ないよね? お勉強で私に勝てた? 運動で私に勝てた? 美術で賞取ったことある? 楽器はいくつ出来たっけ? 私の後ろをちょろちょろして、勝手に私と張り合って、ぜーんぶボロ負けして、勝手に僻んでる自己中のお馬鹿さんなの自覚してないの? 流石にちょっとダッサいんだけど?」
そうだけど。
そうなんだけど。
勝てなかったけど。
姉さんには、なにひとつ、かてなかったけど。
そんなに、いわなくても、いいじゃん。
すこしは。
すこしくらいは。
ほめてくれたって、いいじゃん。
みとめてくれたって、いいじゃん。
ちょっとくらい、がんばったねって、いってくれても。
「美寧は相変わらずに都合がいい子ちゃんだよね。みんなきらーい、お姉ちゃん大きらーい、とか言っといて、褒めて認めてなんて拗らせすぎだよ? みんな嫌いなんでしょ? だったら美寧もちゃんと覚悟しとかなきゃ駄目だよ?」
いやだ。
ききたくない。
みみを、ふさぎたい。
でも、てが、ない。
あしも、ない。
からだが、ない。
なにも、ない。
わたしには、さいしょから、なんにも。
「みんな、お前のことなんか、嫌いなんだよ、ばーか♡」
「うわっ!?」
びくりと体が跳ねた。
目が覚めた。
目が覚めたという事実に気がつくよりも先に、ジャーキングでびくりと体が動いてしまったせいでモロに姿勢を崩し、座っていた椅子から転げ落ちて強かに頭を打ち付けた。
痛い。
床だ。
頭ぶった。
そうだ、勉強してて、寝落ちしたのか。
いや、頭痛い。
じゃなくて。
「ぅぷ……」
痛む頭を押さえるより、周りの状況や時間を確認するより、床を這いずって美寧はベッド横に置いていたビニール袋をひったくるようにして手に取った。
マズい。
ヤバい。
震える手でビニール袋の口を開こうとするが、震えているそのせいで上手くいかない。
焦る。
いらつく。
何度か擦って袋の口が開くと、急いでそれをがばりと開く。
気持ち悪さは、とっくに限界だった。
「おえ、げ……お」
勢い良く、吐く。
ため息でも一息でもなく、胃の中の全部を絞り出すように吐いた。
ゲロである。
腹から込み上げる衝動に任せ、とにかく吐く。
中途半端に堪えようとすると後が悲惨なのは、経験上よく知っていた。
慣れているから。
げー、おえー、と何回かに分けて嘔吐する。びしゃびしゃとビニール袋に溜まる吐瀉物が臭くて、それによりより一層嘔吐感が高まってしまう。
吐いて、吐いて、とにかく吐いて。
ゲロがゲロ吐いてやがる、と自嘲気味な考えが頭に浮かぶ頃には、もう吐いているのは胃液ばかりで、それが終わりの合図になる。
それは、感覚的に分かっていた。
「……おー、おえ、ふぅ。くさ」
吐ききってから慣れた手付きでビニール袋の口を縛る。
喉が痛い。
ついでに転んで打ち付けた頭も痛い。
床を張った姿勢のままに嘔吐していたその体勢から、美寧はようやくもぞりと体を起こした。
椅子に、テーブルに、本棚に、ベッドに、壁には何枚か趣味丸出しのポスター。見慣れた光景。
ああ、家だ。
自分の、部屋だ。
はぁ、とため息をついてから、どさりとそのまま床に座り込む。
学校から帰ってきて、勉強してて、気がついたら寝落ちしてしまったらしい。
それで、悪夢を見てしまった、と。
まあ、悪夢なんて呼べるものは、週に2回か3回は見ている。
だが、今日の悪夢は随分と強烈だった、気がする。
起きた直後は覚えていても、みじめにゲロを吐いている間に8割方の記憶は薄らぼんやりになってしまっていた。夢の大半は忘れてしまうものだと言うことだ。正直、助かる。
しかし、吐くまでいったのは久しぶりだ。今年入って初じゃないだろうか。
最後に吐いたのはいつだったかなと、美寧は気怠げに天井を見上げて記憶を辿る。
クリスマス以降は、吐くまでキツい悪夢は見ていない。
あれだ、ジムに入会してから以降、吐いてなかったな。
「あー……ジム」
記憶を辿ったところで、ふと、ジムのことを思い出す。
夜の帳は降りきった。今は夜の、11時か。丁度良い時間だ。
頭が痛い。
喉がイガイガする。
口が臭い。
寝汗が酷い。
筋トレなんかしても、なぁ。
「うーっ、いやいやいやっ! 頑張れ私っ! それしかないでしょ私っ!」
一瞬だけ、心から弱音が漏れそうになった自分に活を入れるように、ぱんっ、と美寧は自分の頬を軽く張る。
それから意気込んで立ち上がって、ふら、と目眩がした。
才能もない。
センスもない。
人望もない。
頭もない
何にもない、自分には。
頑張る以外に、道はない。
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メスガキ風味って、こんな心抉る物言いになるの?(´Д⊂グスン
ちなみに、ひねくれた子が精神的に参って悪夢に登場しただけで、美寧さんのお姉ちゃん自身は全く違う性格です。
まあ、死んでるんで登場出来ませんが。
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