104『ぽちっとな』


「ホントにお願いしますね! 助けて下さいね! ホントに気不味いどころの話じゃないんです! 後生ですから! 後生ですから!」


「分かりました、分かりましたから……」


 喫茶店を出たその場でも、がっしりと秋水の腕を掴んで泣きを入れてくる祈織に、周りからの視線がエグい、と思いつつ秋水はげんなりしていた。

 結局、明日は祈織の店に手伝いに行く、と言うよりも祈織と鎬の間に立って仲介役をすることとなってしまった。具体的には一体何をすれば良いのだろうか。

 酒を飲んで鎬とにゃんにゃん的な間違いを犯した件については、鎬側が何も気にしていないだろうことから、その気不味さとやらは祈織の杞憂である可能性は非常に高い。正直なところ、秋水は自分がいなくても良いのではないかとすら思っている。

 まあ、こんな念を押してくる以上、この約束をすっぽかしたら、後で何をされるか分かったものではない。


「それでは栗形さん、また明日」


「はい、また明日……ホントにまた明日ですよ! お願いしますね!」


「承知しています、承知していますから……」


 祈織は結構しつこかった。











「えっと、明日は10時くらいに栗形さんの店に顔を出して……んー、アラームは9時半くらいで良いか」


 喫茶店からの帰り道、秋水はスマホのアラームを設定しつつ、はぁ、と小さくため息を吐き出した。

 明日の約束である。

 すっぽかしでもした日には、包丁持って家まで押しかけられそうな勢いの約束である。

 全く、面倒だ。

 スマホをポケットにしまってから、ぐいっと秋水は伸びをする。

 家が見えてきた。

 セーフエリアに戻ったら、一眠りして、それから腹拵えをしよう。

 そして、装備を調えたら、ダンジョンに潜る。

 目的は、リセットボタンだ。

 何が起こるか分からない、リセットボタンを押すとしよう。


「ま、約束破ったらゴメンなさい、ってことで」


 リセットボタンを押して、死んだり帰って来れなくなったら、祈織との約束は果たせなくなるだろう。

 それはもう、ごめんなさいと言うしかない。それ以前の問題だろうから許してくれ。

 しかし、まあ、約束をしてしまった以上、守れるならば守りたいものである。


「死ぬわけにはいかない、か」


 全く。

 面倒だ。

 秋水の口元には、僅かに苦笑が浮かんでいた。











 セーフエリアで2時間程寝れば、相も変わらずすっきりと目が覚める。寝起き特有のぼんやりとした感じはまるでない。

 軽くストレッチをして体を動きを確かめてみれば、問題なし。絶好調とまでは言わないが、違和感はない。

 そしてセーフエリアから家へと戻り、買っていた諸々を腹に詰め込めば、あとは本番の時間である。


「……よし」


 使った皿や箸を洗い、水切りに立て掛けて、手を拭きながら気合いを入れるように一言呟く。

 ダンジョンアタックで次のステップに進むとき、こうやって時間を掛けて準備をするのは初めてのことかもしれない。

 最初に角ウサギと遭遇したのは、ダンジョンを見つけてすぐであり、準備も何もなく素手で挑まざるを得なかった。

 3体の角ウサギを相手にした複数相手の戦いも、その場のノリで突っ込んだ。

 ボスウサギのときも、我慢出来ずに扉を蹴り抜いて戦いに挑んだ。

 基本的にノープランの考えなしで動いてきた。

 なので、次のチャレンジの予定を決め、ゆっくり覚悟を決めるというのも、なんだか変な感じである。


「じゃ、準備しますかね」


 セーフエリアに戻り、着ていた部屋着を脱いで、畳んで、布団の上へと置く。

 肌着類だけという非常にラフな格好で、まずは軽く動的ストレッチ。筋トレ前にやっているのと同じ準備体操を一通り行って、体の筋肉をほぐしておく。

 そしてライディング装備を取り出して、黙々と装着していく。

 インナーアーマーに、ジャケットとパンツ。

 ライディングシューズを履いて、グローブを着ける。

 ヘルメットを被り、締める。

 作業ベルトを腰に締め、バールを4本差し込み、鉈と斧を吊り下げる。ポーチの中身は、大丈夫だ。小瓶に入れたポーションもある。

 それから小瓶のポーションを、ジャケットやパンツの各ポケットへと1本ずつ仕込んでいく。

 リュックサックの中身は事前に、そして十全に用意されている。

 もしもダンジョンの出口がなくなり、帰れなくなったときのために食料は多めだ。いや、帰れなくなったら、どのみち餓死するしかないのだろうが。

 そのリュックを担ぎ上げ、巨大バールを1本手に取る。

 手にしたその感触が、最早安心感の代名詞。


「行くか」


 秋水の心はとても平穏なものであり、緊張は僅かなものであった。











 淡々と支度を終え、何のアクシデントもなくダンジョンの階段を下る。

 馴染みに馴染んだ地下2階。

 そこに足を踏み入れて、ちらりと横目でショートカットの通路を確認する。

 T字路の先には、ボス部屋と地下3階へ続くであろう階段がある。あと、通路には置き去りにしっぱなしの曲がってしまった巨大バールが転がっているくらいか。回収せねばと思いつつ、不法投棄継続中だ。

 今日の目的は、リセットボタン、ただそれのみである。

 セーフエリアより下りた階段から真っ直ぐ進めば、まずは小手調べの角ウサギが1体だけ待ち構えている部屋がある。そこから順番通りに踏破して、正規のコースでボス部屋まで進んでも良いだろう。

 しかし、現在は角ウサギと戦っても、得られるものは限りなく少ない。

 魔素は回収出来るので、得られるものがゼロというわけでは、ないのだが。


「こっちだな」


 呟きつつ秋水はT字路を曲がる。

 角ウサギを全無視して、ボス部屋の裏から入るショートカットコースだ。

 途中にある曲がった巨大バールを通り過ぎ、しばらく進めば再びT字路。ボス部屋へと続く道と、階段へと続く道との分かれ道。

 リセットボタンがあるのは、ボス部屋の入口近くにある。

 このままボス部屋を出口側から入り、通り抜ければすぐである。


「……ふむ」


 秋水は軽く鼻を鳴らしてから、ボス部屋とは反対側、恐らく地下3階へと続くであろう階段の方へと顔を向ける。

 今のところ、こちら側には用事はない。

 まあ、興味はある。

 本当に地下3階へと続くのか。

 その先に何が待っているのか。

 違うモンスターでもいるのだろうか。同じく角ウサギだったりするのだろうか。今の装備で対処出来るのだろうか。

 岩肌のトンネル通路で慣れてしまっているが、地下3階も同じ構造なのだろうか。通路にも平然とモンスターが出てきたら、戦略を変える必要があるぞ。

 興味自体は、とてもある。

 ただ、この地下2階でやり残したことを全て片付け終わるまで、この先へと進むつもりは、まだない。

 そのやり残したことも、たぶん、今日で終わる。


「どう終わるかは、分かんねぇけど」


 振り返り、ボス部屋に向かって足を進める。

 ボス部屋には、相も変わらず何もない。誰も居ない。

 広いだけの部屋をそのまま通り過ぎ、入口を逆方向に跨ぐ。


「えーっと、ボタンは……どの辺だっけ?」


 そして凡ミス。

 リセットボタンの位置を、よく覚えていない。

 元より壁と同じ色合いの、大きさも然程大きくないようなボタンである。迷彩ボタンとか止めてくれ、と思うような見つけにくいものであった。

 何か目印でもおいておくべきだったな、と今更の後悔だ。

 通路で雑に転がしていた巨大バールでも置いておけば良かった。


「えーっと、えー……ああ、あった」


 しばらく壁沿いを探し回り、どうにか見つけることが出来た。

 捜索の所要時間は10分。とんだタイムロスだ。角ウサギと戦ってないので、今日の時間はたっぷり余っているのだけれども、出鼻を挫かれた感で微妙に気疲れである。

 リセットボタンは、やはり見つけづらい色と形と大きさをしていやがる。

 見たこともないのに何故か読めるという、そんな軽くホラーな文字で書かれた説明文も変わらず、残り1、という不吉なものだ。

 これが一体何の残り回数なのかは、当然ながら見当が付かない。

 早めに消費した方が良いのか、それとも後々で消費した方が良いのか、それも分からない。

 そもそも、このボタン自体がいつまで存在しているのか、それすらも分かったものではない。

 押しても何しても、このダンジョンがある限りずっとあるのかもしれないし、押す押さないに関わらず、明日にはなくなっているかもしれない。

 地下3階への階段へ続くショートカットコースだって、唐突に開通したという謎の現象が起こるダンジョン内である。ボタンが1つ、急に出現したり消失したりしたとことで、何の不思議もありはしない。


「そう考えてみたら、今日まで放置してたってのも、ある意味リスク取ってたんだな、俺」


 無意識ながらに自分がリスクのある選択を取っていたことに驚きつつ、秋水はその場でリュックサックを下ろす。

 このリセットボタンを見つけてから今日まで、準備として日にちを置いていたのだが、その数日間の間にリセットボタンが忽然と姿を消していた可能性があった。

 消えてなくて良かった。

 ほっと胸をなで下ろしつつ、作業ベルトから片手斧を取り外す。

 角ウサギ相手ではいまいち活躍の機会がない、鳴り物入りみたいに買ってきた割りには使い勝手がいまいちな片手斧である。ついでに鉈の方も微妙な感じだ。

 すっかりサブウェポンと化している片手斧は、作業ベルトの穴に差し込んでいるバールや、鞘に納刀している鉈とは違い、作業ベルトにぶら下げている形であり、戦闘中にさっと引き抜くのが難しい仕様となっている。

 そして刃の部分を剥き出しにしておくわけにもいかないのでカバーキャップをしているのだが、それも戦闘中に外さなければいけない手間のことを考えると、どうしても最初から手に持っておくべき武装となってしまう。

 左手に持った片手斧をぶんぶんと素振りして、秋水は振った具合を確かめる。

 特に問題はない、ような気がする。

 状況によっては即座にぶん投げることにしよう。トマホークブーメランだ。

 右手には巨大バール。

 こちらも作業ベルトで固定出来ない関係上、初手で装備せざるを得ない武装である。

 もっとも、巨大バールはメイン武器なので問題はない。


「……ふぅ」


 両手の得物を確認してから、秋水はゆっくりと息を吐く。

 吐ききる。

 それから魔力を意識する。


 まずは、その魔力を、体全体に行き渡らせるようにして、回す。


 体の中にある魔力は、あれから練習を重ねていく毎に制御権が増している、ように思える。

 あくまでも体感の話でしかないのだが、最初は半分程しか上手く動かせなかった魔力が、現状は半分よりやや多いくらいの量を動かせるような感じがする。

 50%から55%くらいになった感じだろうか。数字に置き換えた途端、急に微妙な出来なような気がしてきた。

 体の隅々まで魔力が循環してから、すぅ、と大きく息を吸う。

 再び吐き出し、また吸う。


「身体強化」


 そしてぽつりと漏らした言葉で、ただの意味不明なエネルギー、無色透明な魔力に色を付けた。

 方向性、と言うべきなのか。

 動かした魔力で、今から何をするのかを認識する。


「60%」


 そして出力の調整。

 現段階の最大強化倍率が、だいたい110%程である。

 それの6割。おおよそ66%の強化倍率と言ったところだろうか。

 魔力を認識する前の強化倍率が50%程で、ボスウサギを倒す前までの強化倍率が25%だったことを考えれば、6割の出力でも角ウサギ相手であれば既に過剰スペックである。

 それに、6割程の出力が、今の秋水にとっては色々と都合が良かった。


「……ちょっと時間が掛かるなぁ」


 体に力が漲るのを感じてから、秋水は改めて深呼吸を1つしてから苦笑した。

 前まで行っていた身体強化は意識すれば一瞬で出来たのだが、今行っている魔法としての身体強化はどうしても発動までに時間が掛かってしまう。

 およそ15秒か、良くても10秒は掛かるのだ。

 強化倍率も上がって出力調整も出来るようになったのだから、今の身体強化が悪いというわけではないのだが、この身体強化の魔法を発動させるまでの時間はどうにかして短縮出来ないものだろうか。

 魔力の制御権を上げることと同じく、こちらも要・練習、なのだろう。


「さて」


 ぶおんっ、と右手に持った巨大バールを1閃。

 振り回した130㎝の鉄の塊、その遠心力にも体が持って行かれない。

 良い感じだ。

 そのまま巨大バールを肩に担ぐように置き、地面に置いたリュックサックを確認する。

 問題なし。


 そして、壁を見る。


 リセットボタンだ。

 押せばどうなるか分からない、リセットボタンだ。

 何がリセットされるのだろうか。

 もしもダンジョンという存在自体がリセットされたら、自分はこれから先どうするのだろうか。

 これだけ毎日遊び倒しているアトラクションみたいな場所であるダンジョンが、消滅したら自分はどうなるのだろうか。

 考えてみても、それは分からない。分かるわけがない。

 何が起こるか分からないのだから、どれだけ考えたところで、仮定の話しか出て来ないのだ。

 まあ、良い。

 押せば分かることだ。


 最悪なのは、ダンジョンのリセット。

 もう2度とダンジョンに入れなくなること。

 この秘密基地のようなダンジョンが、なくなること。


 それなりに悪いのは、ダンジョンの出入り口のリセット。

 秋水自身がこのダンジョンに取り残されて、セーフエリアからの縦穴がなくなること。

 自分が生き埋めになること。


 それなりに良いのは、ボスウサギを討伐したという実績のリセット。

 1度倒したら復活してこなかったボスウサギと、もう一度戦えること。

 偶然に頼りすぎた、あの負けのような戦いに、リベンジマッチが出来ること。


 最高なのは。


 いや。


 左手に持った片手斧の柄を、こつん、とリセットボタンに当てる。

 このボタンを押して、最高の結果は、ボスウサギと再戦が出来ることに決まっている。

 それが一番最高だ。

 そのはずだ。

 ダンジョンにあるリセットボタンなのだから、リセットされるのはダンジョンに関係のある事柄と考えるのが自然である。

 だから、ダンジョンの外の事柄がリセットされるというのは、考えにくい。

 まあ、考えにくいことが平然と起きるのが、ダンジョンなのだが。


「出て来いよ、デカウサギちゃん。もう一度だ」


 願っているのは、ボスウサギとの再戦。

 リベンジマッチ。

 コレに限る。

 唇をぺろりとなめてから、秋水は左手に力を入れた。


 片手斧の柄を当てたリセットボタンは、特に抵抗もなく、カチリ、と押された。




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 秋水くんがリセットボタンに興味を持った一番の理由は、ボスウサギと再戦出来る可能性があるから、ではない。

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