101『世界は広いが、世間は狭い』
「あ、そうそう、昨日なんだけど、そっちのジムに行ったみたよ」
朝から乱闘騒ぎが起きている教室で、それに自分は関わるつもりが一切ないと言わんばかりに日比野が話を切り替えた。
良いのだろうか、キミの友達が殴られているんだぞ、女子生徒に。
そう思いつつ、秋水も騒ぎの方から目を逸らした。「こらー! 痴話喧嘩やめー!」 と言いながら紗綾音が突っ込んでいくのが見えたので、まあ、何とかなるだろう。
「おや、そうでしたか。いかがでしたか?」
「いやもう、客層からして全然違うよね。男の人が多い多い。みんな筋肉大きくて、ちょっと怖いくらいだったよ」
「あー、それはそれは。たぶんみなさん、威嚇しているつもりはないとは思うのですが、如何せんガタイが良いと雰囲気がですね……」
「まあ、うん、それは分かるよ。棟区さんを見ていれば特にね」
苦笑いで応える日比野に、秋水は一度微妙な顔をする。
秋水を見ていれば分かる、というのは、意図していないが威圧感があるよねお前は、と言われているに等しい気がするのだが、考えすぎだろうか。
「でもやっぱり、フリーウエイトの充実っぷりは比べものにならないよ。50㎏のダンベルまであったけど、使う人いるのかなってレベルだよね。ちょっと重すぎるんじゃない?」
「50㎏でしたら、ワンハンドロウとかで使う人がぼちぼちいますよ?」
「うわ、本当? やっぱり次元が違……いや待って、棟区さんってまさかあれ使ったりするの?」
「はい。もう少し上の重量も欲しいですね」
できれば70㎏まで2㎏刻みに置いて欲しいというのが本音ではあるが、流石に利用者が極端に少ない重量まで導入するのはコストパフォーマンスが悪すぎるであろう。
腕を組んで残念そうに零す秋水に、マジかお前、と日比野はドン引いた。バーベルでのベンチプレス最高記録が50㎏止まりの自分からすれば、同じ重量のそれをワンハンドで引っ張るとか意味が分からない。
これがガチ勢か、と遠い目になった。
「まあ、移籍されるかどうかは、じっくり考えてから決めて下さい」
「え?」
「はい?」
遠い目をした日比野に気付かずに声を掛けた秋水の言葉に、日比野は思わず首を傾げた。
それに対し、同じく秋水も首を傾げて返す。
はて、何かおかしなことを言っただろうか。
「いや、もう入会したよ?」
「え?」
「え?」
少し間を置いて返されたそれに、今度は秋水が聞き返す番であった。
もう入会した?
いや、昨日見学して、もう入会したって、いくら何でも早すぎやしないだろうか。
そもそも、ジムの話をしたのは週の頭であり、その週の間には見学の予約をしたのもかなり早いと思うのだが。
そして見学したのが昨日となると、タイミング的にその場で入会手続きを行ったということになる。つまり即決だ。判断が早すぎる。
「あの、今まで通われていたジムの方は……?」
「退会したよ?」
「早すぎませんか?」
「いや、だって、前のジムは会費が日割り計算だったから、早く退会した方がお得かなって」
「それにしたって思い切りが良いですね。もう少し悩むものだと思っていましたが」
「まあ、前の方は女の人が本当に多くてさ、肩身が狭かったんだよね。それにガチガチに追い込む人も居ないから、場違い感が凄くて……」
再び日比野が遠い目になってしまった。
まあ、それは確かに、秋水もその気持ちは容易に想像出来る。
筋トレは自分との戦いで、究極的には孤独なものではあるものの、それでも周りの雰囲気というのは重要である。秋水とて周りがきゃっきゃうふふとした雰囲気の中で筋トレに集中出来るかと言われると、正直厳しい。集中力が足りないと言われたら、まあ、その通りなのだが。
環境って大事なんだなぁ、と秋水はしみじみと頷いた。
「そうですね、ウチのジムにも女性はいらっしゃいますが、基本的にはほとんどの方が黙々と追い込まれているので、その点は大丈夫でしょうね」
「そうだね。昨日見学したときも、周りみんなガチ勢ばっかりみたいだったしね。それに男ばっかりで、女の人は3人くらいだけだったし、同性が多いのは心強いね」
逆に女の人は肩身狭そうで悪いけどさ、と日比野は苦笑する。それにも同感である。
「……あー、雫金の人だけはビギナーさんっぽかったか」
と、ぽつりと日比野が零した。
雫金。
雫金高校だろうか。
ここから近い場所にある高校の名前だ。
どちらかと言えば進学校に分類されるであろう、普通科の高校である。
そして、秋水の進学第一希望の高校である。
別に雫金高校に対して何か思い入れがあるとか、特別な理由があるというわけではない。
家から近い。
別に高校で特別なにかを勉強したいとは考えていない秋水にとって、それが希望理由の大半を占めている。
その程度の認識でしかないのだが、進学希望先である高校の名前が出たことに、おや? と秋水は首を捻った。
「雫金高校の方が、どうかなさいましたか?」
「え? あ、いや、ちょっとね」
思わず質問を口にしてみれば、日比野は一瞬だけきょとんとした後に、自分が零した言葉を拾われたことに気がついたのか両手をぱたぱたと横に振るった。
そして少しだけ間を置いてから、あー、と少しだけ言い辛そうに頬を掻く。
「いや、昨日の見学したとき、初心者っぽい雫金の人が居たなー、って思ってさ」
僕も普通に初心者だからとやかく言えないけどね、と付け加えながら日比野は再び苦笑する。
「トレーニングウエアばっかりの中で、1人だけ雫金のジャージだったから変に目立ってたんだよね」
「ジャージ、ですか」
呟きながら、秋水の頭の中で1人の女子高生の顔がぱっと浮かんだ。
美寧である。
錦地 美寧だ。
彼女は間違いなく初心者であり、ジムで筋トレを行うときの格好は毎回芋っぽいジャージである。
ただ、秋水はあのジャージが雫金高校の指定ジャージかどうか知らないし、そもそも美寧が何処の高校に在籍しているのかも知らない。秋水の通っているジムで他にもジャージを着用している人は何人か居るのだが、高校生で、初心者で、ジャージ着用、となるとどうしても美寧を思い出してしまうのである。
「……雫金高校の指定ジャージは、緑色、でしたっけ?」
「あれ? 棟区さん、知り合いだった?」
美寧の着ていたジャージの色を思い浮かべながら尋ねてみれば、日比野は驚いた顔で聞き返してきた。
これは、当たりだろうか。
「でも雫金のって、確か学年で色が違うんだよね。緑と青と赤、だったかな。どれが何年生かは分からないけど、その人は緑色のだったよ」
「そうなのですね。デザインは、あの、腕のところに白いラインがあるタイプですか?」
「そうだね。下は側面に白いラインが2本ある感じの」
「明るめの茶髪の方でしたか?」
「あー……そうだったね、うん」
「……美人系の女子高生?」
「わーお、棟区さんの口から美人って言葉。その通りだよ」
なるほど、美寧だ。
ほぼほぼ美寧で間違いないだろう、その日比野が見かけた初心者とやらは。
マジか。
秋水はがくりと肩を落とした。
「あれ、どうしたの?」
「……いえ、世間は狭いな、と思いまして」
「ああ、やっぱり知り合いさんだったんだ」
モロにがっつり知り合いである。
ジムは閉鎖的な空間であり、生活パターンなどの関係上、利用時間や曜日が被る人とはとことん被ってしまい、会話したこともなければ名前も知らないが顔はしょっちゅう見ている、いわゆる顔見知りだけは多くなりがちである。それは秋水も何人か思い当たる節がある。
だが、美寧は違う。
思いっきり会話して、普通に名前も知っている間柄だ。
何なら美寧の筋トレ内容を指導する、トレーナーと生徒の関係である。筋トレは本人が自由にやるべきだと思っているし、ただの一般人がトレーナーみたいな真似をするのは正直抵抗があるので、不本意ではあるのだが。
「そうですね、知り合いです。ご迷惑はおかけしませんでしたか?」
「なんで棟区さんが保護者みたいなの?」
「ああ、そうですね、つい。わりと大きな声で喋っているイメージがありまして」
「普通に黙々とトレーニングしてたよ?」
「そうですか、良かったです」
「え、棟区さんとどういう関係なの?」
ついつい心配してしまった秋水に、日比野はとても不思議そうな顔である。
そうか、美寧は平日の昼にもジムに通っていたのか。そして真夜中のジムで秋水と喋っているような声量で、他の人に迷惑を掛けていないのか。
それは良かった、と秋水は安心したように一息ついて、それからため息とともに再びがくりと肩を落とした。
ああ、いや、そうじゃない。
問題はそこではなかった。
美寧は、雫金高校の生徒だったのか。
そして、秋水の進学第一希望は、雫金高校である。
つまり、高確率で来年度は同じ学校、ということだ。
マジか。
来年度とは言うが、今は1月である。あと2ヶ月とちょっとすれば、その来年度だ。
これで美寧が3年生であれば、丁度良く入れ替えとなって鉢合うことはないのだが、どうだろうか。美寧が今何年生だとか言ったことはあっただろうか。まるで覚えていない。
これは、なるほど、面倒だ。
はぁ、と秋水はため息を再び1つ。
「えーっと……もしかして、その人と仲悪いとか?」
そのため息に、どこか心配そうに日比野が尋ねてくる。
ああ、いらぬ心配を掛けさせてしまった。
秋水は顔を上げ、苦笑いと共に顔を横に振る。
「いえ、そうではありません。みね……彼女には、少々誤解をされておりまして」
「マフィア家業とか思われてる?」
随分ストレートに言葉のナイフでぶっ刺してくるじゃないか。
「そうではないのですが、ただ、今までは特に問題なかったのですが、彼女が雫金高校の方となると少々問題が……」
いや、別に問題ないと言えば問題ないのだが、放っておけば確実に面倒そうな話がある。
誤解だ。
そう、秋水は美寧から完全に誤解を受けていることがある。
年齢の話である。
どうにも美寧は、秋水のことを自分よりも年上だと思っている節がある、と言うか確実にそう思っているのだ。
なんならば、成人男性だとすら思われている。
いや、前に極々普通に 『おじさん』 とか言われたことがあった気がする。
自分が周りよりも大人びて見えるであろうことは重々自覚はしていたものの、そんなレベルで老けてみるのだろうか。随分な時間差でショックだ。
そしてこの年齢に対する誤解は、そのうちなんとかしようと思いつつ、今までズルズルと誤解を解かずにいた問題である。
今までは、ジムでは会うかもしれないが他の生活圏内で会うこともないしな、と思っていたので、何となく後回しにしていたのだが、美寧が雫金高校の生徒であるならば話は別だ。
年上だと思っていた男が、新入生で制服を着て、やあ、と挨拶をしてくる。
普通にホラーじゃないか。
まあ、そもそも美寧が勝手に勘違いしているだけの話であるので、秋水には何の非もないので問題ないと言えば問題はないのだろうけれど、確実に面倒な話になってしまうのは火を見るよりも明らかだ。
「これは、早めに誤解を解かないと……」
「よく分からないけど、なんか大変そうだね。って言うか、棟区さんの志望先って雫金だった?」
「そうですね。家から近いので、雫金が第一希望です」
そーなんだ、と頷いている日比野を見て、そう言えば家族と教師以外に高校の志望先を口にするのは初めてであったことに気がついた。
いや、それ以前に話す相手が居なかっただけなのだが。
しれっと普通に日比野が会話をしてくれているのだが、これは秋水にとっては異常事態である。誰からも話しかけられず、遠巻きにされているのが、秋水にとっての 『普通』 であった。
先週までは日比野だって、秋水を怖がって近寄りもしなかったのだから。
朝に挨拶と共にデカい声で呼び出してきたミカちゃんさんだってそうである。
絡まれているところに助け船を出してくれた覚王山だってそうである。
そして、年が明けるまでは、誰とでも仲の良いこのクラスのマスコットにも。
「え、棟区くん、雫金行くの!?」
何で普通にクラスメイトと自分なんかが喋っているのだろうと考えていると、丁度考えている最中であったそのマスコット、紗綾音から投げかけられた声にはっとなる。
声は遠い。
その方を見てみれば、紗綾音自身は良く分からない乱闘現場の席にいて、何故か叩いていたミッチでも叩かれていた覚王山でもなく、倒れた覚王山の巻き添えを食らって押し倒されていたミカちゃんさんにヘッドロックを嗾けているところであった。何がどうなればそういう状況になるのだろうか。
元気な声で離れたところからでも会話に乱入してくる。
紗綾音らしいと言えば、紗綾音らしい。
しかし、今までそういう光景は、あまりなかった。
あまり、と言うか、なかった。
少なくとも、秋水が居る教室内では。
秋水が教室に居るときは、良くも悪くもクラスメイトはいつも静かであったからである。
全く会話がなかったわけではもちろんないのだが、少なくとも、今の紗綾音のように遠くから大きな声で言葉を投げかけるような会話はなかった。
なんと言うか、不思議な光景だ。
扉を隔てることもなく、賑やかな教室に、自分がいるのが。
秋水は苦笑いを1つ浮かべる。
自分はそんなに大きな声で喋っているつもりはなかったのだが、あのチワワ、耳が良いじゃないか。
「ええ、はい。受かれば、ですが」
「そーなんだ! 私も雫金だよ!」
「え゛?」
思わず変な声が出てしまった。
お前も来んの?
この言葉が出なかっただけでも褒めて欲しい。
え、あれ、中学生活が終われば紗綾音との縁もそれまでだと勝手に思っていたのだが、まさかの延長戦ということだろうか。
進学先には勝手に人の年齢を誤解している美寧がいて、トドメに紗綾音が同じところに来るということか。
嘘だろオイ。
マジか、と言わんばかりに秋水は天井を見上げた。
「志望校の変更って、今からでも間に合うのでしょうか……?」
「どーいう意味かなそれぇっ!?」
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何だかんだで日比野くんは気さくな友人枠。
……が、出てくるのに何で100話以上もかかってるんだろうねぇ(;´・ω・`)
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