94『ダンジョンには不思議なことが溢れている』


『母が大変なるご迷惑をおかけしました』

『いや流石に怒ったろーって思ったけど』

「お姉ちゃんが現在進行形でキレ気味に説教中なので」

『怒るに怒れない……』

『むきー!』


 そんなメッセージを紗綾音から受け取った秋水の素直な感想としては、「あ、そう」 という感じであった。

 まあ、流石に紗綾音の母親が通話に横入りをカマしてきたときは面を食らったが、楽しいご家庭でなによりである。そんな家庭で育ったから紗綾音はあんな感じなのだろうか。納得しかない。

 とりあえず、『楽しいお母様でしたね』 とだけ返信してみれば、即レスで返ってきたのは 『(´゚ω゚`)』 という感じのスタンプであった。どんな感情なのだろうか。


「ああ、そうだった」


 このメッセージの前にも未読のものが溜まっていたなと思い出した秋水は、スタンプに対して返信することなくメッセージを遡る。

 巫山戯ている感じはあるけれど、内容としては謝罪のメッセージであった。

 今まで怖がっていてごめん。

 気をつかわせ続けてごめん。

 卒業までいっぱい仲良くしよう。

 要約してしまえばこんなものであろうか。


「冗談」


 あのテンションと仲良くするのは疲れるな、と秋水は苦笑いを浮かべつつ、メッセージアプリを終了する。

 スマホの画面に、引き締まった身体のイケメンお兄さんが現れた。

 一時停止されていたボクササイズ動画である。

 やっと再開出来る、と秋水はほっと一息つき、スマホを持ったまま立ち上がる。

 さて、トレーニングの時間だ。











 覚王山から教えて貰ったトレーニング動画を3周し、ミッチから教えてもらったリストも一通り目を通す。それから最後に日比野から送られていたトレーニングの動画も3周すれば、結構な時間が経っていた。

 なるほど、これは良い汗かくな。

 ではない。

 覚王山と日比野が教えてくれた動画は、やはり体操のような運動をメインとしているボクササイズのトレーニング動画であった。

 今まで秋水が筋トレ前後に行うような運動とは一味違うそれは、やり慣れていないせいだろうか、確かにかなり良い運動になった。筋トレを趣味としている以上は使っていない筋肉というのがほとんど存在していない秋水ではあるが、動かすときに連動させていない筋肉群を連動させて動かす運動は、やはり新鮮なものである。それは間違いない。

 間違いないのだが、じゃあこれが実践で役に立ちそうかと言われると、どうなんだろ、といった感じである。

 ボクササイズはあくまでもエクササイズの一種だ。

 パンチだキックだスウェーだステップだと、ボクシングの技術的要素を取り込んで入るものの、根本的には格闘技ではないのである。

 実践向きではない。

 つまり、実践に向かせるためには、エクササイズの動きを格闘技の動きへと逆算させる必要がある。


「んで、逆算するためにこれ、と」


 休憩するように畳に置いている座布団へと腰を下ろしつつ、秋水はスマホの画面へと目を向ける。

 開いているのは動画のプレイリスト。

 ミッチから教えてもらった動画だ。

 こちらの動画は、男子2人からのトレーニング動画とはちょっと方向性が違うものである。


 ボクシングの動画だ。


 普通に野郎共が殴り合っている試合の動画である。

 そう言えば、確かに彼女は 「それっぽい動画」 と言っていた。ボクササイズとボクシング。似て非なるものではあるが、似ている以上は 「それっぽい」 の範疇である。どうなってんだAI検索。

 しかしながら、これは実践動画には違いはない。

 しかも、結構な至近距離からの映像である。

 これはある意味タイムリーな教材だ。

 ボクササイズの動きを実戦用に逆算させる、一番分かり易い資料とも言える。流石だAI検索。


「んー、角ウサギ相手で殴ることは少ないからキックの……いや、バールで突くこと考えたらやっぱパンチか?」


 ぶつぶつ呟きつつ、秋水はプレイリストに目を通しつつ、その中から動画を1つ選択する。

 流れる広告。スキップだ。

 本題の動画が再生されると、いきなり右ストレートでぶん殴っているシーンからであった。最初からインパクトが強い。

 ボクシングのことを全く知らない秋水は、この動画の選手がどちらが誰かなのか分からないし、これがいつの試合でどういう状況なのかも分からない。ただ、画面の中では優勢の選手が相手を右だ左だとパンチのラッシュでボコボコにして追い詰めているのが良く分かる。

 いや、猛攻撃を受けている側の選手はロープを背にしてきっちりガードして衝撃を受け流しているので、見た目程のダメージはないのかもしれない。素人判断だが。

 試合の流れが良く分からない。

 しかし、秋水にとっては試合の中身はぶっちゃけどうでも良かった。

 再び最初から再生する。


「うわ、体の軸がブレてねぇ……」


 秋水の目的は、あくまでもパンチの打ち方だ。

 動画内の選手の殴り方は非常に丁寧で、小さくまとまったジャブの連打に、時折思いっきり打ち込んでいくストレートを混ぜている。

 しかしながら、ジャブは当然としておいてもストレートを打ち込んだときもその勢いに体が持って行かれているようには見えない。体幹というか、軸がしっかりしているのだ。

 そう言えば、角ウサギに対してバールでぶん殴るときも蹴りを入れるときも、とにかく思いっきり振り抜くようにして攻撃を入れているのだが、確かに勢いがつきすぎて1撃を入れた後に体がその勢いに引っ張られる感じは確かにしていた。巨大バールを使用しているときは特にそれが顕著である。

 なるほど、動きをコンパクトにすれば良いのか。

 動きが小さくまとまる分、1撃の威力は落ちるだろうが、体勢の崩れが少ないのであれば次の攻撃に映る速度は向上するだろう。トータルでの火力向上が期待出来る、かもしれない。

 それに下手に体勢を崩していたら、咄嗟のときにすぐに反応して動けない。

 2体以上の角ウサギを相手にしているとき、それで手痛い一撃を貰ったことが何回か記憶にあるのだ。


「体がフラつかないようにして、動きをコンパクトにして、殴り方はほぼ一緒で……ふむ」


 数回程見直してから、秋水は小さく鼻を鳴らした。

 なるほど、なるほど。

 これは、疼く。











「うっし、準備準備っと」


 1時間もしない後、秋水はいつもの、ではなく新調したばかりのライディング装備一式に身を包んでいた。

 ダンジョンアタックである。

 ボクシングの動画を見て戦い方を考えていたら、すっかりその気分になってしまったのである。

 セーフティエリアに置いてあるダンジョンアタック用のリュックサックにポーションやら非常食やらを詰め込んでから、いつもの作業ベルトを装着し、武器となるバールを手に取って差し込んでいく。


「んーと、デカいバールはとりあえず保留で」


 本日のメイン武装は通常のバールである。

 作業ベルトには4本差し込み、ゴムネットを入れているポーチと小分けのポーションを入れているポーチの中身も確認する。

 巨大バールは本日はお休みだ。なにせ、あれは身体強化ありきの武器なのだ。今の状態で振り回したら、普通に遠心力で引っ張られてしまうだろう。そして鉈と斧、この新顔もお休みである。

 随分と久しぶりに身体強化なしでの殺し合いだ。

 最初にダンジョンに潜った頃に比べれば、素の筋力や戦いの経験は格段に向上しているが、やはり身体強化なしとなると一抹の不安はある。

 コンビニに野良犬が来店してきた惨事の時、何故か普通に身体強化が発動出来てはいたものの、あれは現状ただの偶然だと考えておくべきだ。とりあえず、体内にある 『妙な力』 を魔力だと認識した途端に上手いこと発動出来なくなってはいるものの、身体強化という魔法自体は使用可能だということが分かっただけでも儲けた経験ではあった。


「ま、今日は安全第一でちびちび行くか」


 装備を調えた秋水は、リュックサックを担ぎ上げ、意気揚々とセーフティエリアの階段を下っていった。

 安全第一であるならば、そもそもダンジョンに潜るんじゃない。

 そんな常識的ツッコミをする者はだれもいない。











 階段をとことこと下れば、いつものダンジョン地下2階である。

 まずは角ウサギ1体を相手取って、身体強化なしでどれだけ動けるかを確かめよう。ついでにボクササイズやらボクシングの動画を頭の片隅に置きながら動いてみよう。出来たら身体強化が発動出来ないか確認もしてみよう。

 色々考えつつ階段を降り、いつもの地下2階へと足を踏み入れた。


「……あ?」


 足を踏み入れたその瞬間、強烈な違和感に襲われた。

 違和感。

 そう、違和感だ。

 階段を降りきって、開けっ放しにしている扉をくぐったその瞬間のことである。

 あ、何か違う。

 直感で、そう感じた。

 あくまでも直感である。理由も理屈も何もない、純粋なる秋水の直感である。


「ん? えーっと……?」


 ぐるりと周りを見渡してはみるものの、見た感じではダンジョンに変化はないように思える。

 岩肌の通路。

 何故か明るい天井。

 変化は、特にない、はずだ。

 少なくとも、最近開通したショートカット用の道と繋がっているT字路のように、明らかなる構造の変化があるようには思えない。

 見た目は、いつものダンジョンだ。


 だが違う。


 じっくりと周囲を観察しても、違和感が拭えない。

 いつもと同じダンジョンなのに、いつもと違う。

 その感覚が秋水の中でしつこく引っ掛かっていた。


「見た目変わりなし。音は、まあ静かだな。変な匂いもしないし、うーん……」


 試しに耳を澄ませてみても、くんくんと匂いを嗅いでみても、特にいつもと違いは感じられない。

 気のせいだろうか。

 しかし、ダンジョンの中では幾度も秋水を助けてくれている自分自身の直感というのを無視するのは、少々嫌な予感がしてしまう。

 しばらく秋水はその場で、何か変わったことはないだろうか、ときょろきょろと探してみたものの、それでもやはりいつものダンジョンである。

 うーん、と秋水は一度考え込む。

 直感は大事にしたいが、そもそもこの違和感がなんなのかが分からない。

 もしかしたら、ボス部屋前のような意地の悪い隠しスイッチの気配でも感じ取ったのかもしれない。

 ちょっと壁を調べてみようか、とも考えたが、岩肌と同じ色で特徴もない小さなボタンを探すのは普通に面倒な作業だ。

 どうしよう。

 気持ち的には、早く角ウサギと身体強化なしの戦いを久々に殺りたい。

 だが、直感で感じ取り、今なお続く違和感の正体を無視するのも居心地が悪い。

 ダンジョンアタックで潜って早々、面倒なことになったと秋水は軽くため息を1つ吐く。

 吐いて、吸う。

 ダンジョンの空気を。




「……美味い」




 思わず呟いてしまった。

 呟いた直後、自分の耳を疑ってしまう。

 美味い?

 なにが?

 なにも食べてないし、なにも飲んでないぞ?

 それなのに、なにが美味しかったというのか。

 それは、もちろん。




「そうか、空気だ。空気が全然違うじゃねぇか」




 ダンジョンの空気が、美味い。

 違和感の正体は、それだ。

 空気が全然違うのだ。

 別に甘いとか苦いとか明確に味が付いているわけでもないのだが、ダンジョン内に満ちている空気が非常に新鮮なもののように感じたのだ。

 森林の澄んだ空気みたい、と言うべきだろうか。

 岩盤くり抜きましたと言わんばかりに岩肌剥き出しのダンジョン内で、森林みたいな空気というのも可笑しな話だが、それくらいに空気が綺麗で美味しく感じるのである。


 そして、昨日までは、そんなことはなかったハズだ。


 正確には今日未明のダンジョンアタックのとき、ボス部屋前にあったあの謎のスイッチを見つけて帰ったその時までは、こんなに澄んだ空気ではなかったハズである。

 澱んだ空気、とまでは言わないものの、洞窟内特有の重たい感じの空気ではあった。

 それは確かに、環境汚染最高だぜ、みたいな地上の空気と比べれば随分と澄んだ空気ではあっただろうが、こんなにはっきりと綺麗な空気だと感じられる程ではなかった、ハズである。

 若干自信がないのは、空気なんてあって当たり前みたいな感じの環境のことは、そんなに注意して覚えていないからである。


「なんだこれ、空気清浄機でも出現したのか?」


 家電製品が生えてくるわけないだろ、と自分自身にツッコミを入れるものの、秋水の発想力では急にダンジョン内の空気が文字通り一変したことの理由は思いつかない。

 それこそボスウサギを倒した特典で、湿度室温調整なども行っているダンジョンの不思議機能に、空気清浄能力が追加された、としか思い至れなかった。いや、それだったボスウサギ倒した時点でそうなっているか。


「うわ……違和感の正体分かってすっきりしたのに、なんか別の疑問が出てきたー……」


 とりあえず、違和感の正体ははっきりした。

 急に空気が美味しくなった原因までは分からないが、害はなさそうである。

 別のモヤモヤした気持ちを抱えつつ、秋水は微妙な表情のまま一度首を捻った。

 いや、まあ、害がないなら、良いんだけど。

 空気が綺麗になって悪いことは、もちろんないんだけど。

 そうなんだけど、なんと言えば良いのか、ねえ?

 何とも言えぬ気持ち悪さを覚えた秋水はコツコツとヘルメットを叩き、少し考えてから




「空気が澄んでる! よし! 殺し合いに支障なし! 行くか!」




 めちゃくちゃ強引に気持ちを切り替えるのだった。




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 田舎の森に入ると、本当に空気が美味しく感じるんですけど、あれってなんなんですかね? 不思議ー。

 子供の頃は心霊現象だと本気で信じてましたよ(;´Д`)

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