82『リセット(対象不明)』
リセット。
全てを元に戻すこと。最初からやり直すこと。また、状況を切り替えるためにいったん全てを断ち切ること。
機械や装置を、作動前の初めの状態に戻すこと。セットしなおすこと。コンピューターの場合、特に正常な動作をしなくなったときに、強制的に起動しなおすことを指し、再起動と区別することがある。
スマホで調べれば、返ってきた解答はこんな感じである。
リセット。
要は、全てを最初に戻すこと。
なるほど。分かり易い。
問題は、最初、がどの時点を指しているのか分からない、というところにある。
「90、91、92」
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、秋水は深夜のジムで黙々とトレーニングを続けていた。
筋トレ、と呼んでいいのだろうか。
秋水にしては珍しく、筋力向上を目的としたトレーニングとは異なる内容だった。
「93、94、95、96」
ガシャン、ガシャン、とマシンの音が、人気のないジムに虚しく響く。
使っているのはケーブルマシン。
やっているのは、何だろう。片腕のケーブルプッシュに近いだろうか。
動きはパンチ、正拳突き。
ケーブルにグリップを付け、それを握って殴る動作だ。負荷は後ろ向きで、重量は初めてなのでとりあえず50kgに設定している。
それを片腕100回行う。
「97、98、99、100」
握った拳を突き出し、100回目を終える。
50kgは少し軽すぎたかもしれないが、100回もこなせばそれなりに運動になる。筋トレかと聞かれると少し違う気もするが。
ゆっくりとケーブルを戻し、ガチャンと重りを下ろすと、秋水はグリップを放し、ひたすら突き続けていた右手を軽く振った。
「うーん、格闘技の特訓って、たぶんこうじゃない、よな……?」
秋水が普段とは違うトレーニングをしている理由は単純で、徒手空拳の練習である。
ただ、全くの素人である秋水には、パンチやキックといった徒手空拳の練習といっても、何をすればいいのかよく分からないのが現状だ。
とりあえずジムのケーブルマシンで、負荷をかけてなんとなく殴り方の練習をしてみたが、秋水自身も薄々感じている。たぶんこの練習は間違っている、と。
そもそも殴り方の型やフォームといった基礎的なレベルすら怪しい。
ケーブルを押し出すようにパンチの練習を繰り返し、何となく効率のいい動き方は感覚でつかめてきた気がするが、それはあくまでケーブルマシンの負荷に対して効率の良い体の動かし方だ。おそらく、実際に殴る動きでは役に立たないだろう。
「サンドバッグでもあれば良いんだけど、ボクササイズジムじゃないしな、ここ」
はぁ、と軽く溜息を吐いてから、試しに空を殴るようにして、ぶんっ、と拳を突き出した。
殴り方が上手くなっている気が全くしない。
本当ならばサンドバッグ相手にひたすら殴る蹴るの練習をしていた方が絶対に良い、というのは分かってはいる。ケーブルマシンで負荷をつけても意味など無いだろう。
しかしながら、ここは筋トレジムである。
スパーリングの施設では、ない。
どうしたものか。
はああ、と再び長い溜息をつく。
「……とりあえず反対側もいっとくか」
考えても仕方がないと、今度は左手でグリップを握り、再びパンチの練習を開始する。
右足で踏み込み、腰をひねり、左の拳を突き出す。拳を後ろに引っ張られるような負荷をかけ、それを100回。
今日は筋トレはなしだ。
殴る、蹴る、掴んで投げる。これらの肉弾戦で十分に角ウサギと渡り合えると分かった以上、格闘戦の基本練習は必要になる。本日はその模索だ。
という建前で、今日の筋トレはなし、なのである。
まあ、本音は、モヤモヤしていて集中できないから、なのだが。
「22、23、24、25」
ガシャン、ガシャン、と音が静かに響く。
やはり50㎏は軽いだろうか。どうしても雑念が消えやしない。
いっそ、ちゃんとした筋トレに切り替えた方が、モヤモヤしている考え自体は消えるであろう、一時的には。
もうダメ、死にそう、ギブアップ、というくらいに筋トレで追い込めば、気持ちがモヤモヤしているなんて余計な雑念を抱いている余裕はなくなるだろう。
悩んだときには筋トレだ。
経験則として秋水はそれを知っているのだが、それでも今日の筋トレはなしだ。
「31、32、33、34」
規則正しく、ケーブルマシンが動く音。
世間一般的な普通の範疇であれば、50㎏の負荷をつけた運動は十分に筋力トレーニングの範疇なのだが、秋水にとってはこれはあくまでも強度の高い体操ぐらいの感覚である。
筋トレのように、筋肉が無理だ無理だと悲鳴を上げ、精神的にももう止めようぜと弱音が出てくるレベルではない。
40回を超える動きをしたところで、まだまだ余計なことを考えている余裕がある。
ただ今日はその、余計なこと、を考えたいのだ。
秋水は軽い運動をしながらの方が思考が良く回るタイプなのである。
「43、44、45、46」
もっとも、考えたいその雑念とやらは、突き詰めれば1つしかない。
あのリセットボタンは、なんのリセットボタンなのだろうか。
ダンジョンの地下2階、ボスウサギがいなくなったボス部屋の前、なんちゃらを探せのように見つけにくいところにみつけにくい色で、リセットと書かれたあのボタン。
しかもご丁寧に、残り1、とか意味深長な一文が添えられている。
あれは、なんのリセットボタンなのか。
何をリセットするボタンなのか。
それが秋水はずっとモヤモヤしていた。
一番都合のいい予想をすれば、それはボスウサギを討伐したという事実のリセット、になるだろう。
平たく言って、もう1回だけ、ボスウサギを出現させるボタンだ。
なにせ、わざわざボス部屋の前にあったのだ。
角ウサギのように時間経過でリポップせず、殺してしまえばそれっきりの相手であろうボスウサギと、もう1回だけ戦える。
すっきりとしないグダグダとしたアクシデントが重なって、勝ちこそしたものの実質的に敗北した感じもするボスウサギに再挑戦することが出来る。
そう考えれば、テンションが上がるというものである。
しかし、頭の中身まで筋肉が詰まってそうな見た目をしている秋水は、テンションが上がろうとも冷静だった。
都合の良い予想を立てたなら、都合の悪い予想も立てねばならない。
鎬から金融教育を受けていたときに、そんなことを教えられたことがある。
教えられた内容自体は株式投資に関するもので、損切りラインについて、という話をされたときに出てきた言葉である。
その当時からテーマや個別株をこの先もするつもりはなく、何も考えずに投信で全世界突っ込んで忘れて寝てるわ、というスタンスであった秋水は、ふーん、くらいに聞いていたが、良い予想と悪い予想はセットで立てる、というのは何故か気に入っている。
ボスウサギを討伐したという事実のリセット、が都合の良い予想だ。
なら、そんな都合の良い予想に反して、都合の悪い予想をするならどうなるか。
決まっている。
ダンジョンのリセットだ。
今の秋水にとって、最悪中の最悪は、それなのだ。
今ではすっかり当たり前に潜っているあのダンジョンは、1ヶ月前までは、なかった。
1月1日、急に出現したのだ。
だから、急に消失する可能性は、十分にある。
あり得る。
それは心の何処かでずっと分かっていたことであった。
だからこそ、リセットボタンを発見して、ずっとモヤモヤしているのだ。
「78、79、80、81」
ガシャン、ガシャン、と一定のリズムが響く。
流石にキツくなってくる。
呼吸を乱さないように、左腕を押し込むようにしてケーブルを引っ張る。
引っ張られる負荷に負けないよう、股を開いてしっかりと踏ん張り、腰を落として腹圧を入れ、上半身を安定させながら腹斜筋を意識して左肩を前に持って行くように上体を捻り、手首を曲げないように注意しつつ肩から肘へ力を伝えるようにして拳を突き出す。
なんちゃって正拳突きである。
正しいかどうかは分からないが、思っていた以上に良い運動である。
疲れてくれば、思考は自ずとクリアになってくる。
「89、90、91、92」
終わりが見えてきても気を抜かず、動作は丁寧に、しかしゆっくりとならない程度に速く。
気持ちがモヤモヤしていても、頭は冷静に。
冷静に考える。
冷静に考えれば、あのリセットボタンは、無視するべきだ。
予想される最大のプラスリターンは、ボスウサギとの再戦。
予想される最大のマイナスリターンは、ダンジョンの消失。
明らかに、マイナスを引いたときの損失が大きすぎる。
ポーションの入手手段がなくなる。睡眠時間と電気代を大幅カット出来るセーフエリアが使えなくなる。少しは売れるようになってきたらしい白銀のアンクレット、それの入手手段がなくなる。
そして、それ以上に、容赦の無い殺意を真っ正面からぶつけられ、それを容赦なくぶっ殺せる場が、なくなる。
最悪だ。
最悪が過ぎる。
秋水にとって、ダンジョンの消失だけは、避けたい。
それを考えれば、リセットボタンを押して得られるであろう期待値は、大きくマイナスだ。
リターンの幅が大きすぎる。
リスクが高すぎる。
だが別に、リセットボタンは押す必要がない。
押さねばならない状況でもない。
ボタンがあると言うだけの話であり、押さない、という選択肢があるのだ。
そして現状では、それが一番賢明な選択であろう。
冷静に考えれば、そのはずだ。
最悪なのはダンジョンの消失。
次点では、ダンジョンからの帰還経路の消失。
それに比べれば、ボスウサギとの再戦なんて、ちっぽけなものなのだ。
なに、まだ地下2階だ。
地下3階への階段も見つけた。
下に進めば別の何かがあるだろう。
強化された角ウサギか、はたまた別のモンスターか。
ダンジョンの楽しみは、まだまだありそうだ。
飽きるのは、もっと先の話だろう。
だから、あのリセットボタンは無視するべきだ。
ダンジョンという存在そのものがリセットされるリスクは、決して無視出来るものではないのだ。
ボスウサギを討伐した事実がリセットされる、なんて可能性があるとしても、ダンジョンが消滅するかもしれないリスクを冒してまでチャレンジするべきではない。
天秤に乗せて比べる必要は、ない。
はずだ。
例え、あの実質的敗北という戦いを、上書き出来るチャンスがあるとしても。
「100」
正拳突きらしき何か、100回目を突き出す。
軽く息が上がる。
思考はクリアだ。
気持ちはまだ、モヤモヤしたまま。
ふぅ、と腹圧を緩めるように強く息を一度吐き出す。
ゆっくりとケーブルを元の位置へと戻してから、秋水はちらりと時計を確認した。
「……ああ、学校」
今日は月曜日、学校は通常通りにある。
モヤモヤしながら格闘技の練習っぽいことに黙々と打ち込んでいたら、ぼちぼちと良い時間になってきた。
気持ちはともかくとして、頭の方はだいぶ整理が出来た気がする。
「そろそろ帰って、風呂でも入るかね」
独り言ちりつつ、秋水は大きく深呼吸をする。
息を吸って。
息を吐く。
頭は、冷静だ。
今日は筋トレらしい筋トレをしなかったが、頭の整理が出来たのならば、良く分からない格闘技の練習っぽい何かをしていた甲斐があると言うものだ。これでパンチやキックが上手くなるなら文句なしだが、まあ無理だろう。
とりあえず、あのリセットボタンに対して、秋水の対応は決まった。
いや、最初から決まっていたのだが、再確認出来た。
もう一度深呼吸をして、息を整える。
とりあえず、今日から学校だ。
憂鬱な1週間の幕開けだ。
秋水は公立高校への進学予定なので関係ないのだが、今週は私立高校の一般入試組の試験があって、何名かがピリついている楽しい週である。そう言えば確か、秋水のクラスでは1人だけ私立高校の推薦入試が終わって、ぼへぇ、としているのがいた。
それに期末試験まで残り1ヶ月を切っている。受験ガチ勢がピリついているのが、友達のいない秋水でも肌で感じる時期である。
いやぁ、学校、行きたくない。
それでも行かねばならない。
とりあえずは学校だ。
月曜日から金曜日までの5日間。
学校に行き、ダンジョンで角ウサギを狩りまくり、今週は筋トレを軽くして。
調整したら、週末の金曜日、チャレンジしてみるか。
なにを。
決まっている。
リセットボタンを押すんだよ。
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ここまでお読み頂ありがとうございます。
と言う、中途半端なところで第3章終幕です。どういう区切りなのか……(;´д`)
第4章は秋水くんの本格強化、及びリベンジマッチ編を予定しています。はよ3階に降りろ。
次回の更新はざっくりとした登場人物の紹介だけで、1週間程休みを頂き、第4章を開始します。
それでは、これからもお願いします。
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