72『ダイエット講座なんて開くつもりは全くない』
「棟区くん、流石に失礼とか思わないのかな!?」
「いや紗綾音が言う?」
「女の子にデブとか太ったとか、デリカシーは欠落してるし気遣いリテラシーはどっか行ってるし!」
「いや棟区って1回もデブとか太ったとかは言ってないよ」
「さっきからサヨチはどっちの味方なのかな!? あと1回デブって言ったことあるよあのマフィアフェイス!」
「あれほとんど不可抗力じゃん……」
普段は全く寄りつきもしないバイクショップを覗きに来てみれば、クラスメイトである渡巻 紗綾音と竜泉寺 沙夜に遭遇してしまった。
どうやら挨拶ついでに秋水が先走った本音を混ぜ込んでしまったものだから、紗綾音の方は1発で激怒していらっしゃる。瞬間沸騰湯沸かし器か何かだろうか。とりあえず、今日も元気にチワワが吠えてるなぁ、くらいに思っておく。
きゃんきゃん騒ぐ紗綾音の襟首を後ろから掴み、その飼い主である沙夜は何とも気不味そうな顔をしている。
人相の悪い同級生へ元気に喧嘩を売りに行く友達を心配しているのか、それとも休日にその人相の悪い同級生と遭遇したのが嫌なのか、もしくは入店早々に騒いで店に迷惑を掛けているのが申し訳ないのか。彼女の性格的に全部のような気がする。
どれもこれも秋水と鉢合わせてしまったことが原因でしかないので、これは純粋に申し訳ない。
「ときに渡巻さん、冬休みでどれくらい太られたのですか?」
申し訳ないのはそれはそれとして、秋水はぷんすかと怒っている紗綾音へ向けて再び爆弾を投げ入れた。
悪気はない。
いや、悪気がなければ何を言っても許されるわけではないのだが、秋水自身は太ることに対して悪感情を抱いていないだけである。紗綾音の言う通りないのはデリカシーなのかもしれない。
ただ、ボスウサギ戦を経て、と言うよりも大怪我をポーションを治癒してしまったせいで、体脂肪をがくりと落としてしまった秋水からすれば、脂肪を増やすのはわりと大真面目な話として急務である。
飽食の日本ではダイエットだダイエットだと叫ばれて久しく、脂肪を減らすことこそ正義のように語られるのだが、だからと言って脂肪が少な過ぎも大問題である。
脂肪が少ないと言うのはクッション材が少ないという意味であり、怪我が増える。
一定量の脂肪を割り込むと免疫機能がダダ下がりになるので、体調を崩しやすく病気に罹りやすくなる。
エネルギーの貯蔵が少なければ、バテやすくなる。
髪や肌も不調をきたす。
体温の維持やホルモン代謝にも影響が出る。
その他諸々だ。
脂肪は多すぎても良くないが、少なすぎても駄目なのだ。何事もバランスである。
そして今の秋水は、残念ながら少なすぎの方に足を突っ込んでいる。
リアルにヤバいのだ。
正直、現状はヘルメットなどを吟味するよりも、脂肪を増やす方が重要な問題である。
とか思っていたところに、冬休みの間にお餅のせいで太ったと嘆いていた紗綾音の登場である。
乙女に対するデリカシー?
知らん。こちらは地味に日常生活の危機なんだよ。
紗綾音が秋水に対して遠慮しなくなってきたように、秋水も紗綾音に対して遠慮がなくなっていた。
ちなみに、これが沙夜相手であった、もっと躊躇っただろう。
「……ちょっと離してサヨチ! 今ならあの喋る大胸筋殴っても全世界が許してくれるよ!」
「許されないよ! 言葉の暴力が駄目ならリアル暴力はもっと駄目に決まってるじゃん!」
ただ、そんな事情など知る余地もない紗綾音からすれば、純粋に暴言を吐かれているだけである。
むきーっ、と秋水に殴りかかろうとしてくるブチ切れチワワの首根っこを引っ掴み、沙夜が必死に止めてくれている。
しまった、これでは沙夜が可哀想だ。重ね重ねで申し訳ない。紗綾音は横に置いておく。
「あの、ちょっと棟区、流石にちょっと今のは酷いんじゃないかなぁ、って……」
「これは、申し訳ありません、話題が先走りすぎました。ご迷惑をおかけしてしまいました」
「謝るんなら私にだよね!?」
秋水に対してはやはり未だに腰が引けてしまってはいるが、それでもこんな悪人面のゴリマッチョに言い辛そうにも苦言を呈してくる沙夜に、秋水は頭に手を当てながら申し訳なさそうに謝った。
飼い主の手を煩わせてしまったようである。本当に申し訳ない。
何かきゃんきゃん吠えているチワワの頭をぐりぐり撫でてから、秋水は改め沙夜にぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。実は今、太り方について困っていまして、それでつい……」
「え、太り方? 痩せ方、じゃなくて……?」
「ねえ、ちょっと、いま私、首掴まれてる挙げ句に頭撫でぐり回されてるんだけど。ねえ、これ明らかに、ペット挟んで井戸端道端バタバタ会議開会してる感じだよね?」
「可愛い子犬ですね。名前はなんと?」
「ちわねです。躾がまだまだで」
「ほとんどイジメの域だよこれ? なんで2人は意気投合しちゃってるのかすんごい不思議なんだけど?」
しまった。撫でる秋水の右腕を払い除けようとぺちりペちりと叩きながら、ジト目で文句を垂れてくる紗綾音の言葉につい乗って即興劇をしてしまった。
これが陽キャの力なのか。
戦慄しながら秋水はそっと紗綾音の頭から手を離す。
その即興劇に同じように思わず乗ってしまったと思われる沙夜は、やってしまった、と顔を赤くしながら気不味そうに秋水から視線を逸らしていた。
ただし紗綾音の首根っこは掴んだままである。
「で、なに、え? 太り方?」
「はい。どうも最近、脂肪が激減してしまいまして、かなり焦っているのです」
「え-、なにその悩みー、さついー」
チワワから殺意とか言われてしまった。
だけど仕方がないだろう。今回はアクシデントみたいなもので急務となってしまったが、秋水からしたら前々から脂肪を増やすのが苦手なのは切実な悩みであるのだ。
ふーん、と首を後ろから捕まえられながらも、紗綾音は少しだけ考えるように鼻を鳴らし。
「……油でも飲んでれば?」
アンサーは何とも雑であった。
おい、と後ろの沙夜がツッコミを入れてくれた。秋水の心の声を代弁しているかのようである。助かる。
「いえ、まあ、数字だけで見るならそれが一番効率が良いのは分かっているのですが、脂肪1㎏増やすのに800g近く飲まないといけないのは現実的ではないと言いますか……」
ツッコミは沙夜がしてくれるので、秋水は苦笑しながら答えておいた。
まあ、紗綾音の回答は雑ではあるが、それは的に的確に的中させている、そんな答えではある。
秋水だって馬鹿ではない。カロリー計算くらいは出来る。
と言うより、筋トレを真面目にしている者であれば、栄養に関する知識は必須である。
太るのは、摂取するカロリーが消費するカロリーを、コンスタントに上回っていれば良い。それくらいは普通に知っている。
ならば、ハイカロリーなものをドカンと摂取すれば一気に太れる、と言うのは理屈としては分かってはいるのだ。
そして、一番効率が良いのは、油、と言うのは理論上では大正解である。
それが現実的かどうかは別なだけで。
いや、普通に考えて、液体にしろ固体にしろ油を800g弱の摂取はしんどい。それを1週間で分けたとしてもだ。
だからこう、なんと言うか、もっと楽に、無理なくカロリーを増やせる食べ物はない物かなぁ、と思っての相談である。
まあ、それを栄養学の知識が何もないであろう女子中学生にしたところで、まともな答えなど返ってくるはずもないか。
どうやら自分は本当に焦っているようだな、と急に冷静になってきた秋水は、同時に何でこの2人に喋っているのだろうかと自分自身に呆れてしまった。
自分のようなヤツが急に相談を持ちかけても、困らせてしまうだけなのは分かっているハズなのに。
ああ、脂肪が減ってしまったのは、自覚していた以上にショックな出来事だったんだな、と今更になって秋水は自分自身の心情を把握することが出来た。
いやもう、本当に絶望なのだ。
苦笑しつつ、首元に手を当てて、はぁ、と秋水は小さく溜息を1つ。
この2人に聞いても仕方がない。
ここはさっさと別れの挨拶をして、1度バイクショップから撤退することにしよう。
店の入口近くで騒いでしまったものだから、店員がちらちら迷惑そうに見ている。しかし秋水の凶暴な見た目のせいで、直接注意しに来るのは躊躇っている様子だ。
それに、紗綾音はともかくとして、沙夜の方は休日に自分と遭遇して気分が悪かろう。
そう考えて秋水は2人の方へと視線を戻した。
「え? 1㎏太るのにそんなに必要なの? なんで? て言うか、そんだけ減らしたら痩せるの? え?」
「油って、ん? オリーブとかエゴマとか、あとラードとか色々あるけど、なんで800g近くとかいう数字がすって出てきた?」
何故だろう。
2人の目が、とても興味津々と輝いていた。
「お2人は、人間が太る場合と痩せる場合、これをカロリーという言葉を使って説明出来ますか?」
2階の奥にある自販機コーナーなのか休憩スペースなのか、そこの椅子に腰掛けながら秋水は渋々ながらに話題を切り出した。
自分は何を言ってるんだろう。そんな表情である。
いや、2人が急に話題に食らいついてきたときは、店で騒ぐと迷惑ですから、と質問を躱そうとしたのだが、ここの2階でお茶出来るよ! とチワワが回避を許してくれなかった。命中率高ぇ。
でもお2人の邪魔になりますから、と渋る秋水を無視して2階に連行され、今に至る。
と言うか紗綾音、何でこの休憩スペースを知っているのだろうか。このバイクショップ初めてじゃないのか。
「んーと、カロリー増やすとデブる……よね?」
「反対にカロリー減らすと痩せる、かな?」
逃亡しようとした秋水を阻止した同級生の女子2人は、秋水からの質問には完全に疑問系であった。
えー、と秋水は軽く鳴き声を上げる。
そこからか。
説明はそこから必要なのか。
「……そうですね。それで油と言うのは1gでだいたい9キロカロリーなので、脂肪を1㎏つけるには778g程、だいたい800g必要になるのです。以上、それでは」
「待って待って待って、説明がすんごい端折られてるよ」
「油って何? サラダ油なの? 米油なの? ゴマ油なの?」
早々に面倒臭くなって退散を決め込もうとしたものの、2人からの制止が凄い。
特に沙夜。先程から油の種類にめちゃくちゃ拘っている。
何がこの2人を惹き付けてしまったのだろうか。そもそも根本的になんの説明を求められているのだろうか。
脂肪1㎏に対して油が800g近く。それで説明終わりで良いじゃないか。
ジャケットの種類を見たいなぁ、と思いながら、秋水は再び渋々と上げかけていた腰を椅子へと下ろす。
「油と言っていますが、正確には脂質です。種類は関係ありません。脂質は1gで9キロカロリーです」
「グレープシードオイルは? 菜種油は?」
「サヨチ、なんか必死すぎない?」
「ヘルシーオイルってあるじゃん! あれはカロリー低いんだよね!?」
もはや端的に脂質の話をしてみたが、何故か油の種類に拘る沙夜が必死に食い下がってきた。何が彼女を駆り立てているのだろうか。
しかし、残念な話だが、現実というのは残酷だ。
脂質は1gで約9キロカロリー。
これはどうしようもない数字なのだ。
「ヘルシーオイルと謳っている製品は確かにありますが、あれも他の油とカロリーは基本的に同じです」
「ヘルシーって書いてるのに!?」
「Hell See(地獄を見る)ってね」
「紗綾音ちょっと黙って」
「くぅん……」
沙夜の目が普通にヤバかった。
紗綾音は小さくなって黙った。
秋水は引いた。
これはあれか、もしかしてダイエット講座的な話なのだろうか。
逆じゃないか。質問したいのは秋水の方で、内容はデブエット講座の方だ。何が悲しくて痩せる話をしなくてはならないのか。
「あのヘルシーと言うのは、揚げ物に使用したときに衣が吸う油の量が少ない、だからヘルシーですよ、と言う意味です。決して脂質そのものからカロリーが減っているわけではありません」
「酷い嘘っぱちだよね!?」
「詐欺だ!」
しかしながら沙夜の目がマジなので、ヘルシー油とか言うものの真実だけは伝えておく。
実はあの手の油、揚げ物で使えばカロリーを抑えられるが、炒め物とかに使うのであればカロリー的には他の油と大差ないというオチである。
その言葉に紗綾音の方は純粋に驚いた様子であるものの、その相方である沙夜はテーブルを叩いて嘆いていた。
どうした。そしてどうしよう。いつもは紗綾音を止めてくれる沙夜の方が荒ぶっていらっしゃる。
「でも……サラダ油は、一番カロリー低い油って、聞いたことある……っ!」
「まあ、油と言いましても種類によって含まれている栄養素に違いがありますから、その比率によってカロリーに差は生じますね」
「なら、サラダ油にすれば解決ってこと!?」
「いいえ。脂質は1gで9キロカロリーです。油の9割9分が脂質である以上、カロリーという視点ではほとんど誤差です。大差ありません」
「脂質の、低い、油は……っ!?」
「それがあったら、世界中でその油が大流行していると思いませんか?」
「ぐふ……っ」
「サヨチ、往生際が悪すぎるよ? 散り際の悪い桜のお花みたいになってるよ?」
ついにはテーブルに突っ伏してしまった沙夜の背中を、とても優しい声色で慰めなのかトドメなのか分からない言葉を投げかけながら紗綾音がそっと撫でている。
この状況、秋水はどういう感情で向き合うのが正解なのだろうか。
中華料理作れないじゃん……、とか細い断末魔を上げている沙夜の背中を撫でながら、昨日作ったとかいう炒飯と麻婆豆腐は美味しかった? ん? とか言ってる紗綾音はとりあえず屑だとは思う。
「……ん? て言うか、脂質が9キロカロリーなら、えっと、800g近くって言ってたから、脂肪は1㎏で7000キロカロリーくらい、なの?」
その屑、ではない、紗綾音はぱっと顔を上げて秋水に疑問を投げかけてきた。
学校の授業もそれくらい食い付いてれば良いね。
「そうですね。脂肪を1㎏増やすには7000キロカロリーほど必要だと言われています。なので、油を飲んで1㎏太るには778g程度、ざっくり800g程を飲まないといけないのです」
「わー、地獄だ」
「1週間に分割しても、100gを超える油を追加しなくてはいけません」
「体のどっかイかれそうだねそれ」
うわー、と顔を顰めている紗綾音に対して、そうですね、と秋水は軽く返しておいた。
逆説的な話ではあるが、短期間で太ってしまうというのは紗綾音の言う、体のどっかがイかれそう、という食生活が必要なのだ。
それを知っているからこそ、秋水は太るのが苦手なのである。
まあ、閑話休題としておいて。
とりあえずは最初に聞かれた質問は両方とも答え終わっただろうか。
何で急にカロリーの話をしなくてはいけなくなったのか未だに腑に落ちていないが、それでも役目は終わったと思い、秋水は改めて席から立とうとした。
さっさと撤退だ。
傍から見ればヤクザみたいな大男が沙夜を泣かせているようにしか見えないのだ。
これは早く逃げるに限る。
そう思って逃亡を図ろうとして。
「ちょっと待って棟区」
「はい」
がばっと顔を上げた沙夜に睨まれ、秋水は三度すごすごと椅子へ座り直す。
どうしよう。いつもは秋水に対してめちゃくちゃ腰が引けながらも根性で対峙している沙夜が、今日は非常に強気な態度だ。正直怖い。
「最初に言ってた、カロリーって言葉を使って太ると痩せるの説明、っての聞いてない」
「あ、それ私も気になる」
若干涙目で次の質問を飛ばす沙夜に、紗綾音も乗っかってきやがった。
どうやら秋水は過去の自分の手で今の自分の首を絞めていたようだ。
「いえ、あれは説明しても、とてもつまらない話になってしま」
「難しい話? 簡単な話?」
「……内容は至ってシンプルなので」
「説明して」
「はい」
こわぁい。
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太っちゃったと騒いでいるのがチワワ。
ダイエットに興味津々で体型維持を頑張っているのが飼い主。
太りたいのが主人公。
なんだこの地獄。
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