68『絶望』
正直、もう来ないかもな、と思っていた。
筋トレを、と言うか運動習慣全般を、初心者が早々に挫折してやらなくなるなんてことは、よくある話だからである。
まして、今まで順調にトレーニングメニューを習得出来ていたのに、体が硬い、なんて理由での挫折をしたのだ。達成感すら得られなかった筋トレなんて、やーめた、となっても、何も不思議ではない。
それはまあ、仕方のないことである。
その人には、その人の性質というのがあるのだし、その人の生活もあるのだから。
だから、あれが最後の挨拶だったかもしれないなと、正直そう思っていた。
「え、なんか先生がガチで筋トレしてるところって何だかんだで見たことなかったけど、こんな追い込むんだね……」
しかしながら彼女、錦地 美寧は、秋水が思っていた以上にガッツのある女性であったようである。
ジムに来たばかりなのであろう、まだコートを着たままの美寧は120㎏のバーベルを見ながら、やばぁ、と顔を引き攣らせている。
美寧から受け取ったポーションを再び一口飲みながら、こりゃ傑物だ、と秋水は素直に感心してしまう。
いや、単純に美寧のことを侮っていただけかもしれない。そういう風には見ないように心掛けてはいたものの、女性だから、若いから、ギャルっぽいから、なんて心の何処かで美寧のことを色眼鏡で見ていたのだろうか。
ふ、と思わず苦笑が口元に浮かんでしまった。
「最初にお会いしたときも、確か私はベンチプレスをしている最中だったと記憶していますが?」
「え、あれ? そうだったっけ?」
「ええ、確か。美寧さんはスクワットを……」
「あ、止めよう。はい止め止め。この話止めよ。あの時のトレーニング、もう私の中じゃ黒歴史だよー」
「美寧さんは歌もお上手でしたね」
「先生はデリカシーってのを覚えた方が良いよ!?」
褒めているつもりなのだが。
顔を赤くしながら両腕で×を示してくる美寧は、どうやら機嫌は悪くなさそうである。
「てか、50と50で……120㎏!? 先生のベンチプレスってバーベルシャフト6本分なの!?」
バーベルの棒で重量換算する人を初めて見た。
再びラックに掛けられているバーベルの方を見て、えげつな、と美寧が本音らしき呟きを漏らす。
まあ、美寧自身はまだ、バーベルの棒だけでベンチプレスを行っているハズだ。重量の設定は人それぞれ好きにやるべきで口出しするものではない、と秋水は考えているが、美寧はまだまだ初心者中の初心者で、重量以前にフォームをしっかり覚える、と言う段階である。
その美寧からしてみれば、120㎏はまだまだ遠い到達地点であろうし、そもそもそこを目指していない可能性の方が高い。
いや、120㎏上げられたら、日本の女子記録じゃないか。
「そうですね。基本はこの重量でベンチプレスをしていますよ。回数とセット数がだいぶ上がってきたので、そろそろ重量を増やそうかとは思っていましたが」
「もっと増やすんだ。うわ、すごぉ……」
「ありがとうございます。ですが、世の中には300㎏でベンチプレスを行える人もいらっしゃいますから、私など可愛い方ですよ」
「先生が可愛いとか魑魅魍魎が跋扈跋扈してる世界じゃんね……」
「難しい言葉をよくご存じで」
さり気なくディスられている気がしなくもないが、素直に驚いてくれている美寧を見て、もう一度苦笑を漏らす。
大丈夫そうだな。
他人事であるハズなのに、どこかほっとしたもの感じつつ、秋水はポーションの入ったペットボトルをことりとサイドテーブルへと置いた。
「美寧さんは今からですか?」
「あ、うん。あ、ごめんね、邪魔しちゃった」
「いえいえ、ウォーミングアップはお忘れなく」
「はーい」
軽い返事だ。
気負っている様子は特に見られない。
昨日は背筋を上手く使えなくて筋トレは頓挫してしまったが、今日は何を行うのだろうか。
ベントオーバーロウに再挑戦するのだろうか。それとも、背筋はすっぱり諦めて、別のトレーニングに注力するのだろうか。
まあ、それは美寧が決めることで、秋水がとやかく言うないようではない。
それじゃあね、とストレッチコーナーの方へと向かう美寧を見送ってから、これも雑念だよな、と考えつつ、秋水はごろりとベンチの上に寝転がった。
眼前には天井と、鈍い銀のバーベル。
集中しなくては。
美寧に対して考えていたそれを雑念と断じながら、秋水はバーベルに手を掛けた。
口元には、ひっそりと笑みが浮かんでいた。
2セット目も、根性で15回。
当然のようにプルスウルトラ。
悲鳴と泣き言を上げる筋肉を、もう一踏ん張りと総動員する。
筋トレをしていくと、苦しいときにもう一頑張り、と言う根性が身につくと言われたりもするのだが、その通りだと秋水は考える。
その限界を一歩踏み越える感覚は、角ウサギやボスウサギをぶっ殺すときに大いに役立っている。
そして、不思議なことに、ダンジョンで殺し合いに勤しむようになってから、その感覚はさらに強くなっている気がする。
「はぁ……ふぅ、はぁ、はぁ……」
バーベルをラックへと掛けてから、秋水はのそりと起き上がる。
ベンチプレスを15回。
たった15回、上げ下げする運動で、全身から汗が噴き出している。
完全燃焼。本日2度目のオールアウトの達成感。これを筋トレの醍醐味だというマゾ野郎もたまに居るのだが、秋水はそのマゾ野郎に分類される人種である。
悩みがあろうと、嫌なことがあろうと、悲しいことがあろうと、それらは全てを出し切ったオールアウトの感覚の前には平等に無意味と化す。
無我の境地に近いのだ。
ごちゃごちゃした頭の中が、非常にすっきりとする。
これが堪らない。
オールアウトは良いぞ。
棟区 秋水はマゾ野郎で正解なのかもしれない。
ちなみに、筋肥大の観点からするとオールアウトに至る筋トレは、むしろデメリットの方がデカいから推奨しないと言われている。うるせぇ。
「……はぁ」
全てを出し切ったオールアウトのその疲労感は、ポーションを一口飲んだら全てが消し飛ぶ。
達成感はそのままに、疲労感が消え去るのは、本当にヤバい。
秋水は息を整えるように深呼吸をしてから、きゅっとペットボトルのフタを閉める。
普通はオールアウトに到達したら、その後の筋トレなんてやってはいられない。その寸前で切り上げて、セット間休憩を挟むのが普通なのだ。
1セット毎に問答無用でオールアウトまで持って行く、そんなことはポーションがなければ行えるはずがない。
毎度のことではあるのだが、ポーションの効果はつくづく反則である。
「さて」
息を整えてから、秋水はベンチから腰を上げた。
ベンチプレスは楽しい。
何言ってんだコイツは、と思われるだろうが、ベンチプレスは楽しいものである、秋水にとっては。
しかしながら、今、ジムに居るのは筋トレが目的ではない。
「1セットで筋トレヴォリューム240上乗せ、で1800っと。てことは、10回で逆算すれば……」
頭の中の計算を確かめるように、ぶつぶつと小声で独り言ちりながら、秋水はバーベルからカラーを外し、10㎏の重りも外す。
そして、バーベルに20㎏の重りを追加。
さらに、もう1枚。
20㎏の重りが4枚になったのを確認してから、秋水は再度カラーをはめて固定する。
続いて反対側も同じく20㎏の重りを4枚に変更し、もう一度頭の中で計算を行う。
「んで、それを半分に割るから……5回か」
うし、と軽く気合いを入れてから、秋水はいそいそとベンチへごろりと仰向けに転がった。
20㎏の重りが合計8枚、160㎏。
そこにバーベル自体の重さが加わり、総合計で180㎏。
秋水が見上げる先にあるバーベルは、いきなり重量を50%上乗せされた高重量だ。
基本的には高重量を求めていない秋水にとっては珍しいことである。
「すぅ……ふぅ……」
呼吸を整え、ベンチプレスの姿勢を作る。
身体強化は使わない。
今日は、素の筋力を確かめるために来たのだ。
バーベルに手を添える。
そして。
「ふっ」
ラックから、バーベルを持ち上げる。
ずっしりとした重さが秋水に襲い掛かってきた。いや、ずっしり、と言う可愛い表現では割に合わない。押し潰しに掛かる暴力的な物理の圧力だ。
それをゆっくりと胸まで下ろす。
胸に、バーベルがちょんと触れる。
その感触を合図にして、今度はバーベルを押し上げる。
下から上へと、全力で力を掛ける。
押す。
とにかく押す。
重力に逆らって、重量に逆らって、押し上げる。
「ぬっ……!」
押し、上げた。
さらに2回目。
息を吸って体を膨らませるようにしながらバーベルを下ろし、ごちゃごちゃ考えないでとにかく上へとバーベルを押す。
続いて3回目。
集中状態に入り込んだ。
早い。
歯を食いしばり、一気にバーベルを持ち上げる。
4回目。大胸筋と、三角筋と、上腕三頭筋が、悲鳴を上げているのが分かる。ストレッチを感じるとか言うレベルではない。感じるのは筋肉からの罵詈雑言のレベルである。
汗が噴き出す。
そこからさらにバーベルを下ろし、胸に付ける。
一瞬だけ休むように動きを止めてしまってから、無理矢理にバーベルを押し上げて、5回目。
集中状態は維持出来ている。
筋肉は、もうサボろうぜ、と誘惑している。
精神が、まだ出し切ってない、と囁いている。
深呼吸。
6回目。
メンタルとフィジカルが正反対のことを主張出来ているうちは、余裕があると言うことだ。
自分自身の体と対話しながら、7回目。
成体のツキノワグマかローランドゴリラぐらいの重さを持ち上げ、8回目。
そろそろ限界である。つまりまだ大丈夫。9回目。
やばい。反射的に浮かんだその考えに対して、咄嗟に根性がしゃしゃり出てくる。
限界の、一歩先。
プルスウルトラ。
10回目。
「づはっ、ふっ!」
ラックにバーベルをガチャリと掛ける。ちょっと音が響いてしまった。
ぜー、はー、と息を切らしながら、秋水は達成感を感じつつ、すぐに頭の中で回数を再度カウントする。
10回。
180㎏を、10回。
なるほど、これは間違いない。
筋力が、上がっている。
いや嘘だろ。
体の筋肉がパンプアップした状態で、ボスウサギに挑む前と同じくらいの体型になってしまったのだ。
パンプアップは一時的なものである。
1日経てば、膨らんだ筋肉は元に戻る。
だから、筋肉は細くなっている、ハズなのだ。
筋力というのは究極的には筋肉の断面積に比例する。筋肉が細くなれば、筋力は下がっているのが当たり前、のハズなのだ。
それがどうだ。
ボスウサギに挑む前、身体強化をして行ったのと同じ重量が、出来てしまった。
嘘だろ。
これしか意見が出てこない。
流石に回数こそ以前に身体強化をして行った方が倍くらい出来たのだが、180㎏と言う重量そのものを持ち上げることが出来てしまった。
しかも1発ではない。
10回だ。
これはつまり、ボスウサギに挑む前と比べても、素の筋力が向上している、ことになる。
筋肉は細くなった、ハズなのに、だ。
筋肉が膨らんでパンパンになっているように思ったのだが、もしかしてこれ、パンプアップとは違う現象なのだろうか。
いやでも、血管がビキビキに浮かび上がってるレベルだった。
もしかして、細くなったのは筋肉ではなく脂肪なのだろうか。
脂肪が減って、筋肉が増えて、それで以前と同程度の体型に見えた、とか。
それこそ嘘だろ。
と言うか、嘘だと言ってくれ。
秋水の体脂肪率は10%前半という、アスリート並の脂肪量である。
これが減ったとなると、色々と健康面に問題が出てきてしまうレベルなのだ。
筋肉が減ったら、あー悲しい、でもまた鍛え直せば良いか、で終わらせられるのだが、脂肪が減ると言うのは実害が出てしまう可能性があるので、わりと真面目に困る。
そして、さらには秋水は脂肪を増やすのが、やや苦手なのだ。
ただでさえ筋肉量が格段に多い秋水は、それ相応に基礎代謝が多く、脂肪を増やす、つまり太るためにはかなりの摂取カロリーが要求される。
太るためには、当然ながら摂取カロリーが消費カロリーをコンスタントに上回り続けなければいけない。
あまり食に対して興味がない、と言ってしまえば語弊があるが、暴食をすることのない秋水からすると、脂肪をつけて太るという増量は不得意なジャンル筆頭である。
「はぁ、ひ、はぁ……」
ベンチの上で荒い息を整えながら、秋水の表情は絶望に染まっていた。
気がつきたくない真実に辿り着いてしまい、筋トレの達成感は何処かへ行ってしまった。
くそぅ、脂肪が減るくらいなら、むしろ筋肉が減った方がまだ良かった。太るのは難しいんだよ。
全国でダイエットに勤しんでいる方々が助走をつけて殴りかかってきそうな、そんな暴言を内心で零しているが、秋水は至って真面目である。
脂肪を1㎏増やすのに必要なカロリーは、だいたい7000キロカロリーぐらいだったか。
キツい。
7000キロカロリーは、キツい。
もはや絶望だ。
そんな簡単に太れたら苦労しねぇよ。
ダイエッターが包丁や斧を振り上げかねない発言である。
しかしながら、同時に秋水は納得もしていた。
ポーションの副作用らしい副作用と言えば、腹が減る、と言うものがある。
あの空腹感は栄養が足りないからだとばかり思っていたのだが、なるほど、カロリーも要求されるから腹が減ったという感覚になる可能性もあるのか。
体の再生には栄養素を消費する。
それと同じく、エネルギーであるカロリーも消費するのだろう。
そう考えれば納得も納得だ。
脂肪はカロリーの貯蔵庫である。
ポーションで傷を治すとき、消費されるエネルギーを補うために脂肪が分解されるのだろう。
なるほど。
納得。
いや、特大のデメリットじゃねーか。
脂肪を増やすのが得意ではない秋水からすれば、ポーションに脂肪減少効果があるというのはとんだデメリットである。
世の減量に精を出している方々からすれば、ポーションの効能に更なるチート効果がガン積みされていると感じるかもしれないが、秋水からすればとんでもない、デメリットである。
いや、クソ、何故今まで気がつかなかったのか。
カロリーの量は、そもそもタンパク質と脂質と糖質の合計値だ。エネルギー生産の3大栄養素からカロリーという数字は成り立っている。
逆に言えば、栄養素が消費されるのならば、元が栄養素のカロリーが消費されるのは当然じゃないか。
と言うか、今までポーションをがぶ飲みしていたと言うことは、カロリーを消費していたと言うことになるじゃないか。
更なる絶望が秋水に襲い掛かってきた。
いや、腹が減るからと、食事量をかなり増やしていたからセーフだろうか。
よくよく考えたら、ダンジョンアタックのときに非常食をあれだけ追加で食べておきながら、今まで脂肪が増えた感じがしなかったのはおかしいじゃないか。
ヤバい。
ポーションがカロリーも消費する説、濃厚だ。
うわー、と秋水は両手で顔を覆ってから、ベンチからがばりと起き上がる。
「おっと生きてた!?」
そして隣からビビったような声が飛んできた。
美寧である。
ウォーミングアップが終わったのだろう、秋水の使っているパワーラックの隣に設置されているもう1台のパワーラックで準備を始めようとしていた美寧が、急に起き上がった秋水にビビって跳び上がっていた。
「おっと、申し訳ありません」
「いや、うん、先生ぐったりしてるなー、とか思ってたからビックリした」
「ああ、それはお見苦しいところをお見せしてしまいましたね」
「そんなことは……あ、そうだ、頑張ってる先生は美しい! 努力はダイヤモンドよりも価値がある!」
「大丈夫ですか美寧さん?」
「そんな不思議そうにしないで! 前に先生が言ってた台詞なのに!」
いきなりキメ顔をした美寧を普通に心配したら、何故かツッコミを入れられる。元気そうで何よりである。
はて、そんなこと言ったことがあっただろうか。
無意識とか最悪じゃんね、とか騒いでいる美寧を見ながら、秋水は不思議そうに首を傾げるのだった。
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・ポーションの特殊効果
疲れが消える。
傷が治る。
そして脂肪が強制的に燃焼する。
……やばくね?
文字数が多くなってしまったので分割です。
中途半端なところで区切ったら、2話連続で美寧さんがオチ担当みたいになってしまった……
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