67『継続こそ力ではあるが、継続するのが一番難しい』
パンプアップ、と言う現象がある。
筋トレを行った直後など、筋肉が通常よりも膨らむという現象だ。
身近なところでは、今日は沢山歩いたから足がパンパンだ、といったそれのことである。
基本的には水分や老廃物が溜まることで筋肉が膨らんでいるだけであり、効果は一時的なものでしかない。筋肥大や筋成長とは別物だ。
筋トレを行えば程度の差こそはあれ、パンプアップは普通に起こるものではあるが、一時的とは言えども筋肉がより逞しく見えることから、ボディビルの大会では各選手が直前までパンプアップを起こすための運動をしていることが多い。
それが所謂、『最後の仕上げ作業』 である。
「が、なんで普通に起こってるんだろうなぁ……」
パンツ一丁という碌でもない格好のまま、秋水はまじまじと姿見に映った自分の体を覗き込んでいた。
秋水の身体は、完全に仕上がっている。
ミッチミチに筋肉が張っている。
それは千切れてしまったのを治したばかりである左腕だけではない。全身の筋肉がパンプアップを起こしているようである。
「ボスウサギと戦ったのって、そんなに体に負荷かかってたか?」
首を傾げながら思い起こしてみるものの、全身の筋肉がパンプアップを起こすくらいの動きをした覚えはない。
確かにボスウサギは強かった。
だが、勝負そのものは超短期決戦。
身体強化と興奮で長く感じこそしたものの、実際には部屋に足を踏み入れてから1分もかからずに決着したと思われる。
全力では動いたが、そんな短時間で血管がバキバキに浮き出るレベルでのパンプアップは起こらないはずだ。
勿論だが、ボス部屋からセーフエリアへ歩いただけで足がパンパンになるほど、秋水の体は貧弱ではない。
「うーん」
鏡の前で考え込む。
鏡の中の秋水も考え込んでいる。
全身がパンプアップしている理由は、よく分からない。
ならば頭を切り換えて。
「……たぶんこれ、相対的に筋肉が痩せた、よな?」
切り替えたら切り替えたで、悲しい現実に気がついてしまった。
マジか。
思い至ったそれに秋水は肩を落とした。
パンプアップしていることにすぐに気がつかなかったのは、ぱっと見た自分の体型が大して変化なかったように感じたからである。
だが、実際には全身の筋肉が膨らんでいるようだ。
膨らんでいる状態で、体型の変化を感じなかった。
しかしながら、パンプアップは一時的な現象である。筋肥大のように筋肉が大きくなったわけではなく、一時的に膨らんでいるだけである。
つまり、パンプアップが治まったら、以前よりほっそりした自分がいることになるのだ。
「あー……腕生えた代償かなぁ……」
肩を落としながら、自分を納得させるように秋水は呟いた。
千切れた左腕が治った代金みたいなものだろう、きっと。そう思っておくことにする。
まあ、筋肉が痩せても、また鍛えれば良いだけの話だ。ひょろっとした腕が生えてこなかっただけ儲けものだと考えよう。
それに、ダンジョンを見つけて、と言うよりもポーションを見つけて以降、ここ半月程で急速に一回り大きくなったのが元に戻ったくらいである。ポーション服用の筋トレをして取り戻すことにしよう。マッスルメモリーがあるさ。
小さく溜息を零してから、ふと秋水は顔を上げた。
「……で、だとしたら、実際にどれだけ筋力落ちたかな?」
いつものジムに来た。
日付が変わったくらいの深夜に中学生が出歩いて良いのかという問題は横に置くとして、24時間ジムはこういうときに便利である。
真夜中のジムには誰もいない。今日は貸し切りのようであった。
「ま、独りは気楽だな」
軽くウォーミングアップを終わらせた秋水は、誰に言うでもなく呟いた。
時間帯的に、もしかしたら居るかもな、と思っていた女子高生の姿はない。
取り繕ってこそいてくれたものの、昨日はどうも機嫌が悪そうだった様子なので、あまり顔合わせたくないなぁ、とか若干思っていたのだが、どうやら杞憂であったようだ。
機嫌が悪かったのは、背筋を動かすコツを全く掴めなかったことに対する苛立ちなのか、それとも女性特有の虫の居所が悪い日だったのかは秋水の預かりするところではないのだが、ピリついている人の傍にいると、いつ爆発するか分からないと気が気じゃないのだ。
それに、今からは筋力の測定実験だ。
気兼ねなく行いたい。
リュックサックからタオルとトレーニンググローブ、そしてポーションの入ったペットボトルを取り出す。
「……もしかしたら、来なくなるかもなぁ」
残念そうに一言だけ漏らし、秋水はバーベルとベンチのあるパワーラックへと向かう。
別に彼女のことは嫌いではないし、むしろ筋トレの同志だと勝手に思っている。
ただ、昨日の筋トレは全然上手くいかなかった。
背中側の筋肉が総じて硬く、上手く動かせていない以上、成功するはずもない。
まあ、ストレッチをしっかりやって、動かすコツさえ掴めれば、そのうち解決する問題ではある。筋トレは名前の通りトレーニングだ。やれないことは、やれるように練習すれば良いだけの話である。
それを、向こうがどう思っているかは分からないが。
運動習慣なんてものは、初心者が思い立ってはじめてみても、大半は長続きしない。
ウォーキングしよう、ジョギングしよう、と運動していなかった人間が目標を立てたところで、今日は気分が乗らないし、ダルいし、天気悪いし、寒いし、暑いし、などなど理由を付けて行かなくなるのはよくある話だ。
三日坊主、と言うヤツである。
まして、それが筋トレとなろうものなら、しんどい、つらい、苦しい、キツい、と三日坊主になる理由はてんこ盛りだ。若葉マークのピカピカ初心者がトレーニングジムを1年以上継続出来るのは5%程だと言われているし、ある程度強制力があるパーソナルトレーニングだって8割が脱落するとか何とか。人間は元より運動より休養を好む生き物であると言うことか。
まして、華の高校生ならば、他に楽しいことはもっとあるだろう。
筋トレなんてマゾ向けのそれを独り孤独にせっせと励んでいるよりも、友達と遊んでいる方が楽しい時期であろう。
「ま、仕方ないよな」
苦笑を1つ零してから、秋水は気持ちを切り替えるように自分の頬を叩く。
来なくなってしまうなら、それは確かに残念は残念だ。
だが、まあ、仕方のないことである。
秋水がとやかく言う資格はない。
所詮、他人のことなのだ。
ガチャン、ガチャン、とパワーラックの準備を行う。
セーフティバーとバーベルラックの高さを調整し、ベンチの位置を確かめる。
独りは気楽だ。誰に気兼ねする必要もない。
慣れた動きで準備を終えて、秋水はごろりとベンチの上に仰向けで転がった。
転がるときに、ついでに肩甲骨を寄せて、下げる。
そして肩甲骨の所をベンチに押しつけ姿勢を固定すれば、自然と胸を張った姿勢になる。
息をするように自然と、ベンチプレスのスタートポジションに入った。
「この姿勢とれるようになるのに、随分掛かったっけな」
重りも何も付けていないバーベルだけのそれをラックから外し、フォームを確かめるようにして1回、2回、とベンチプレスを行う。
重量を扱う筋トレを行うなら、肩甲骨を自在に動かせるようになるのは前提条件みたいなものである。
最低限でも寄せると開く、この動作が出来なければ話にならない筋トレ種目は多い。そして、可能ならば上下と前後に動かせるならば、なお良し。
「背中の種目以外でも、大事だよな、これ」
20㎏しかないバーベルを10回程軽く上げ下げしてから、静かにラックへ掛ける。
雑念だな、と一度溜息をついてから、秋水はベンチから体を起こし、再びベンチプレスの準備に移った。
「んー……まずは、100㎏追加で」
スマホで記録を確認してから、秋水はパワーラックに備え付けられている重りを手に取る。
20㎏を2枚。
10を1枚。
ガチャガチャと片側に3枚の重りを取り付けて、それが滑り落ちないようにカラーを付ける。
そして反対側にも同じく装着し、100㎏の重り、バーベルと合わせて合計120㎏の重量となった。
「おー、ちょっと懐かしい」
そう零してから、秋水は再びベンチの上に寝転がった。
まだ1ヶ月も経っていないのだが、ポーションを飲むようになり、そして身体強化という意味不明なチートを意識的に使えるようになってからは、20㎏を左右に3枚ずつ装着した140㎏、もしくは4枚ずつ装着した180㎏のバーベルでベンチプレスをするようになっていたので、120㎏は久しぶりである。まあ、180㎏は流石に身体強化を使っての重量ではあるが。
ポーションを飲む前は、120㎏を限界までやって、次は110㎏を限界までやって、その次は100㎏を限界までやって、というドロップセットがベンチプレスの基本ルーティンであった。
「まずはこれを13回、と」
自然とベンチプレスのフォームを作り、バーベルへと手を添える。
身体強化のことをまだ全然分かっていなかったとき、それを確かめるために選んだ種目も、確かベンチプレスであった。
あの時、身体強化を使わないでの記録が13回。
それを基準で考えていくとする。
「さーて、痩せた筋肉で何回行けるかな……ふっ!」
大きく息を吸って、止める。
ラックからバーベルを持ち上げる。
持ち上がる。
重量をしっかり感じながら、バーベルを胸の上までゆっくりと下げていく。
フォームに注意。
大胸筋にストレッチが掛かっていることを確認。
「ぅ!」
下ろす動作から反転、今度はバーベルを上へと持ち上げていく。
上がる。
ちゃんと、上がる。
バーベルが左右や前後にフラフラしないように、見えないレールの上を走らせるように正確なコースを辿って、バーベルを上げきった。
まずは1回。
たったの1回。
バーベルを持ち上げた姿勢のまま、秋水の動きが止まった。
なんだが、妙な感じだ。
いや、妙な感じと言うか、なんと言うか、うん。
とりあえず、120㎏は持ち上げられる。
持ち上げられるだけの最低限の筋力があることは分かった。
あとは回数、なのだけれど。
「……ま、とりあえず……ふっ!」
再び息を吸って、胸を膨らませるようにして止め、バーベルを下ろしていく。
下ろして、上げる。
息を吐き、吸って、止める。
下ろして、上げる。
4回目。
5回目。
6回目。
そして歯を食いしばって7回目を持ち上げ、大きく息を吐き出す。
重い。
重たい。
重りのついた鉄の棒を、腕と、肩と、胸の筋肉で120㎏の重さを制御する。
動ける。
やれる。
問題なくベンチプレスは行えている。
行えては、いる。
ただ、どうにも妙な感覚に、秋水の表情は微妙なものである。
「……雑念っ!」
気が散っているのかもしれない。
秋水はそう思って再びバーベルを胸の上まで下ろしていく。
バーベルが胸に少し触れてから、持ち上げる。
8回目だ。
13回まで、あと5回。
頭の中で正確に回数がカウント出来ている。
ジムで流れているBGMがはっきりと聞こえている。
周りの雑音が消え、自分自身と対話するような、もしくはメンタルとフィジカルが殴り合いの喧嘩をしているような、そんな不思議な集中状態に、ならない。
つまり、余裕が、ある。
動きを確かめるように9回目。
そして集中して10回目。
すっと、意識が完全に自分の内側に向けられるような感覚。
バーベルを下ろし、続いてBGMが秋水の認識から切り離される。
11回目を持ち上げる。
つらい。
重たい。
しんどい。
もう止めようぜとフィジカルが言っているのを感じ取りながらも、メンタルで続行させる。
あ、メンタルとフィジカルが殴り合いの喧嘩を始めた。
いつもの不思議な集中状態で、12回を持ち上げて、息を荒く吐き出す。
「はぁ……は、はぁ……はぁ……」
腕がぷるぷるし始めている。
フォームが少し乱れた。
なるほど。
「ぬっ!」
息を吸う。
止める。
ゆっくりとバーベルを下ろした。
下ろす位置が僅かにずれた。
キツい。
それでも、バーベルを持ち上げる。
フォームが微妙な感じになった。
筋肉が悲鳴を上げている。
無理無理、ぶっ壊れる、死んじゃう死んじゃう。フィジカルが泣き言を言っている。
流石に休憩しようぜ、とメンタルもフィジカルの肩を持ち始めている。
13回目。
から、プルスウルトラ。
フォームを崩しながら、14回目。
下げたバーベルが、持ち上がった。
つらい。
くるしい。
13回超えたぞ。
むしろ14回出来たぞ。
検証終わり終わり。
荒く息をしながら、バーベルラックが目に付いた。
これにバーベルを掛ければ終わりである。
一休みしたい。
汗を拭きたい。
早くポーションを飲みたい。
なんて泣き言は、雑念だ。
「にっ、ぎっ!!」
バーベルを下ろす。
肩甲骨と言うよりも、肩に向かって力が逃げたのが分かる。
チーティングした。
が、良し。
今度はバーベルを上げていく。
筋肉が収縮している感じではなく、もはや関節を押し込む感じ。言ってしまえば、ただただ単純に、バーベルを押し上げただけの格好。
だが、これで15回目。
上げきって、すぐにバーベルをラックに掛ける。
ガチャンッ、と音が響いてしまった。
「は、は、は、はぁ、はぁ、はっ」
息が荒い。
酸素が足りない。
気がつけば汗だくになっていた秋水は、息が治まらないまま動かせる筋肉を総動員して、のそりとゾンビのように秋水は起き上がった。
「…………」
「はぁ、は……はぁ……」
「…………ど、どうぞー」
「はぁ、はぁ……ええ、はぁ、どう、はぁ……」
で、何故か差し出されたペットボトルを震える手で受け取った。
ポーションだ。
蓋が開いている。
1セットでいきなりオールアウト寸前までやってしまったので、ちょっと助かる。
秋水は受け取ったポーションを一口飲む。
ポーションはチートだ。
飲む一瞬前まで死ぬ程疲れている状態だったはずなのに、それが一気に吹き飛んだ。
疲労がポンと消える、と表現したらヤバいクスリに思われそうである。鎬からは疑われたが。
「……はぁ」
一息。
本当に、ポーションを飲んでの筋トレは凄まじく捗る。
ポーション様々だ。
もう一度ポーションを飲んで、秋水は顔を上げた。
「……ありがとうございます。それと、こんばんは、美寧さん」
「こ、こんばんは先生。いやちょっと、先生のベンチプレス、ヤバない?」
顔を上げた視線の先には、錦地 美寧が引き攣った顔で立っていた。
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(こ、これがガチ勢の筋トレ……)
※ ガチ勢でも序盤にこんな追い込み方はしません。(以降のトレーニングの質が著しく下がるから)
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