58『錦地さん家はひび割れている』
錦地 美寧には、3つ上の姉がいた。
名前を錦地 安璃(にしきじ あんり)と言った。
美寧の姉は非の打ち所もない、非常に優秀な人物であった。
まず、勉強が出来た。
学校のテストではどの教科でも平然と満点を叩き出し、全国試験は当たり前のように1桁の順位に居座っていた。
運動も得意であった。
足は速く、力は強く、動体視力は非常に良好で、持ち前の頭脳を活かしてチームプレイのスポーツだって司令塔としていつも活躍していた。
さらに美人だった。
顔が良い、背が高い、スタイルが良い、だけではない。その素材を活かすメイクやファッションを熟知していて、そもそも美的センスが抜群だった。
ピアノを弾かせたら賞を取った。書道で筆を執れば入賞した。絵を描いたらコンクールで賞を取った。
何をやらせても、そして何をしても、美寧の姉は非凡な才能を発揮して、凡人を上回る正に天才だった。
されど、性格は明るく朗らかで、誰隔てず友好関係を築く人だった。
異性からはかなりモテていたし、同性からも不思議と嫉妬されずに受け入れられていた。少なくとも、自分の才能に胡座をかいて天狗になるような人物ではなかった。
一方、そんな姉のことを、美寧は嫌っていた。
苦手、とかではない。
嫌いだった。
今でも嫌いだ。
昔から、何でもかんでも姉と比べられて育ったからだ。
勉強を頑張っても、そこそこ優秀止まりであり、姉には遠く及ばない。学年主席なんて、一度も取れなかった。
運動を頑張っても、それなりのプレイヤー程度であり、姉には遠く及ばない。ましてチームリーダーなんて器はなかった。
メイクでもそうだ。ファッションでもそうだ。芸術関係、ぜんぶそうだ。
何をしても、どれだけ頑張っても、美寧はただただ平凡で、天才の妹と期待されてからの落差に誰も彼もが落胆した。そういう顔を、いつも見てきた。
『90点か。100点じゃなかったね。安璃ちゃんなら……』
『6位か。頑張ったね。でも安璃なら……』
『あー。うん、君はあの子ほどじゃないんだね。それじゃあレベルを落として……』
『安璃だったらこれくらいできたんだけど。流石に妹でもこれはムリかな……』
『君と同じ年でお姉ちゃんは賞を取ったんだけどね。まあ、姉妹揃って天才ってわけでもないか……』
『安璃なら出来たんだけどね』
『安璃ならやれたんだけどね』
『妹の方は、案外普通だよね』
嫌いだ。
姉と比べてくる奴は嫌いだ。
どいつもこいつも嫌いだ。
全員まとめて嫌いだ。
私だって頑張ってる。
自分で言うのも何なのだが、結構いい線いってると思う。
ただ、あの姉と比べれば、全てが全て劣っているというだけで。
嫌だ。
嫌いだ。
大嫌いだ。
姉のことは、心の底から大嫌いだ。
頭が良くて、スポーツ万能で、美人で、スタイルが良くて、明るくて、モテモテで。
そんな超人みたいなヤツに毎日比べられて、ただひたすらに毎日が惨めになるしかなくて。
“姉さんなんか嫌い”
“姉さんが居るから、誰も私を見てくれない”
“姉さんなんかが居るから”
“姉さんなんか大嫌い”
“姉さんなんて、居なくなれば良いのに”
“死んじゃえば良いのに”
心を抉られ続けた日々に、性根がすっかり曲がってしまった美寧は、毎日のように薄暗い感情を抱きながら、残酷な恨み言を内心で姉に吐き続けていた。
それを口に出したことなど、ないが。
あるわけ、ないが。
美寧はいつも笑顔で、姉妹喧嘩は全くせず、表面上は姉と良好な関係を築いていた。
内心は腐った生ゴミみたいにドロドロしているくせに、姉に付き従っている金魚の糞みたいな妹を演じていた。
笑顔で姉に接しながら、心の中では、死ねば良いのに、といつも思っているくらいに美寧という人間は腐りきっていた。
天才の姉に、腐らされていた。
居なくなれば良いのに。
死ねば良いのに。
毎日毎日、笑顔のまま、真っ黒な心で、そう祈った。
そうしたら、誰も姉と私を比べなくなるのに。
そうしたら、誰かが私を見てくれるのに。
そうしたら、誰かが私を、素直に褒めてくれるのに。
そうしたら、きっと。
天才に負け続けた凡人は、最低でクソみたいな願いを、毎日毎日、祈っていた。
なのに何故、その願いが叶ったというのに、全く嬉しくないのだろう。
大嫌いな姉が居なくなったのに。
大嫌いな姉が死んだのに。
何で自分は喜びもせず、あの日、病院で泣き叫んでいたのだろう。
姉のことは嫌いだ。
今でなお大嫌いだ。
それでも、姉が死んで全く嬉しくも何ともなかったのは、もしかしたら頭の片隅で分かっていたからかもしれない。
姉が死んだところで、自分はこれから先もずっと、姉と比べられ続けるのだと。
そして、その姉を超えるチャンスはもう、二度とないのだと。
あの日、誰よりも姉の死に泣きじゃくったのは、そんな事実を認識してしまったから、なのかもしれない。
「…………おぇ」
最悪な目覚めだった。
胃からナニかが逆流してきそうな感覚に叩き起こされ、覚醒の瞬間に口元を咄嗟に手で押さえる。
吐きそう。
最低だ。
机にうつ伏せになっていた身体をゆっくりと起こし、錦地 美寧はゆっくりと深呼吸をするように息を吸って、違うものを吐きそうになる。
気持ち悪い。
これは、本当に吐いた方がいっそ楽になるかもしれない。
しかしながらここは美寧の自室で、吐いて良さそうな場所は何処にもない。ビニール袋も近くにない。立った瞬間に、吐く自信がある。最悪だ。
口を手で押さえたまま天井を向き、ゆっくり、ゆっくりと、静かに呼吸を整える。
ゆっくりと、吐き気が治まるのを、待つ。
「……ぅ……ふぅ」
大丈夫、自分は大丈夫だ。
そう自己暗示を掛けながら2分か3分か、嘔気の波が次第に遠ざかっていく。
大きく息を吸う。
はぁぁ、と、吐き出す。
どうにか、治まった。
3日ぶりの吐き気であった。
かれこれ2年以上、週に2回か3回は突発的な吐き気に襲われているので、慣れたものである。気分的には最悪だが。
「……あっちゃ」
深呼吸をしてから、美寧は自分は突っ伏していた机を見ると、握りしめてしまったノートが見事にぐしゃぐしゃになっているのに気がついた。
ああ、そうか、勉強してたんだった。
寝落ちしたのか。最悪だ。
深呼吸の次は溜息を吐き、明るい茶色の髪をぐしゃぐしゃと乱雑に掻き毟る。
全然勉強出来なかった。1ヶ月後には学年末試験があるし、そうじゃなくても来週には小テストがあると言うのに。最悪だ。
ちくしょう、ちくしょう。
頑張って学年3位をどうにかこうにか維持してたというのに、ここで手を抜いてどうするんだ。
頑張るしか能のないクソが、なに寝てるんだ。
馬鹿じゃないのか。
ちくしょう。
美寧は心の中でひたすらに毒を吐く。
錦地 美寧は、基本的にはこんな女である。
外面はまあ、悪くはないだろう。
内面は、煮詰まったドブみたいなクズである。
美寧は自分のことを、そう評している。
「……すまーいる」
一頻り自分を罵倒した後、美寧は机に置いていた手鏡を取り、にへら、と笑う。
気持ち悪い。
そこそこ美人のハズなのに、笑顔が、気持ち悪い。
僅かに吐き気がぶり返してくるが、それでも美寧はにへらと笑顔を手鏡に向ける。
気持ち悪い。
何笑ってんだコイツ。
ゴミみたいな顔じゃん。
何で生きてんの。
死ねば
「ふぅ」
小さく一息とともに、手鏡をことりと机に置いた。
何だか段々、笑顔が下手くそになっている気がする。と言うより、自分の顔が段々嫌いになってきた気がする。
あー、いっそ顔に大きな傷でもできれば、箔がつくってものなのに。
おかしなことを考えながら、美寧はゆっくりと椅子から立ち上がる。貧血のように一瞬くらっとした気がするが、それはたぶん、気のせいだ。
「……のど、かわいた」
嫌な夢を見て、汗がびっしょりだ。
喉もカラカラだ。
何か飲みたいなとキッチンに向かってみれば、母親が居た。
げ。
その1文字が思わず口から出そうになるが、それを飲み込んでから美寧はにへらと笑顔を浮かべた。
「あ、母さん、おかえりなさい」
「ええ、ただいま」
挨拶をしても、母親はこちらを見てくれない。
なんだよ。
見てよ。
私を。
にへらと笑ったまま、美寧は冷蔵庫からペットボトルを1本取り出す。なんのラベルも貼られていないペットボトルである。
中身はただの水だ。
冷やしただけの、水道水だ。
それを一気に呷って飲み、飲み干す。
と、ピー、と電子レンジの音がする。
「ついでに美寧、ごはんにしましょう」
「わ」
やだ。
独りで食べたい。
勝手に口から脱走し掛ける言葉を押し殺す。
「……わぁ、母さんとごはんは久しぶりじゃんね。食べる食べる。今日はどれにしようかな?」
親とは食べたくない。
小言がキツい。うるさい。
今日の晩ご飯は絶対に美味しくないのが確定だ。最悪だ。
外面は母親と食事が出来ることを喜ぶ娘を演じながら、腹の中では毒しか出て来ない。感情がぐちゃぐちゃしてくる。叫びたい。暴れたい。食べたくない。
それでも笑顔を絶やすことなく、美寧は冷凍庫からごそりと弁当パックを取り出した。
手作り料理なんてのは存在しない。
栄養バランスを考えられた、宅配の冷凍弁当である。
「あの人とは食べてないの?」
「父さん? んー、今年入ってからは、まだ1度もないよ。お仕事忙しそうじゃん?」
「どうだか」
冷たい言葉を呟きながら、母親は暖めた弁当パックを電子レンジから取り出した。
まあ、その言葉を零したくなるのは分かる。
どうせ父親が忙しいのは、仕事だけじゃないだろう。
その他のことにお盛んなのは、既に知っている。
だが興味が無い。
と言うか、そう呟いた母親だって、ヤケドを伴いそうな火遊びをしている。
たぶんそろそろ、末っ子が出来るだろう。
父のか、母のか。
弟か、妹か。
どちらか、もしくは、どちらとも。
最悪だ。
冷凍弁当を電子レンジに突っ込んで、扉を閉める。
黒いガラスに、薄気味悪い自分の張り付いた笑顔が見えた。
姉が死んでから、美寧の家族は、ボロボロだ。
「美寧、最近はどう?」
「順調」
温まった弁当を持ってダイニングテーブルに着けば、母親からの言葉は定番のような質問である。
話題ないなら喋らないでよ、と内心で溜息をつきながら、美寧の返事もまた定番のものであった。
そう、と呟いてから、母親は弁当のフタを開ける。待っていたのだろうか。さっさと先に食べれば良いのに。
美寧も弁当のフタを開け、いただきます、と手を合わせてから食べ始める。
慣れた味だ。飽きた味だ。
早く食べて部屋に戻ろう。
室内は煌々と明るいのに、母娘の間に漂う雰囲気はどんよりとしていた。
「ああ、そう言えば美寧」
「うん?」
「テストは? 来月?」
話題が急である。
いや、それしか話題がないと言うべきなのか。
はいはい、生徒の仕事は勉強だもんね。分かってる分かってる。
「そうだね」
「勉強は?」
「順調だよ。学年3位は死守したいね」
「3位、ね」
母親が呟く。
嫌な感じだ。
ぼそぼそ呟くなよ。
どうせ、いつものパターンだろ。
もぐもぐとごはんを食べながら、美寧はにへらとした笑みを貼り付けていた。
ゴムを噛んでるみたいだ。
美味しくない。
「安璃は主席だったわね」
「……ん」
ほら、どうせ。
どうせ、いつもの、この会話だ。
3位でもいいじゃん。凄いじゃん。頑張ってるじゃん。
でも姉は、高校1年生では、ぶっちぎりの学年1位だった。
それと比べたら、自分はカスみたいなものだけど。
貼り付けた笑みが冷笑になりそうなのを堪えながら、そうだね、と美寧は一言だけ返す。
ごはんを、さっさと食べよう。
「安璃の分まで頑張りなさい」
「はーい」
「あなたも頑張れば出来るんだから」
「へへ、そーかなー?」
「ええ、あなたは安璃の妹なんだから」
「はは……」
適当に返事をしながら、ごはんを食べる。
砂団子だ。
何を食べても、砂みたいだ。
どうしよう。
ごはんが楽しくない。
ごはんが気持ち悪い。
ごはんが嬉しくない。
ごはんが暖かくない。
ごはんが美味しくない。
て言うか、味が、しない。
口の中に入れる。
噛む。
飲み込む。
吐きそう。
気持ち悪い。
でも食べる。
食べる。食べる。食べる。噛む。うぇっ、と一度箸が止まる。飲み込む。
苦しい。
つらい。
しんどい。
やだ。
ごはん、やだ。
食べたくない。
手が止まる。
「……どうしたの?」
「え? あ、ううん、何でもないよ……」
めざとく見つけてきた母親に、にへら、と笑みを向け、また食べ始める。
いやだ。
気持ち悪い。
胃がむかむかする。
つらい。
つらい。つらい。
つらい。つらい。つらい。つらい。
つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。
つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。
つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。
やだ。
もうやだ。
でも食べなきゃ。
理由は?
理由。
それは、まあ、生きるためだし、食べなきゃ。ああ、それから、えっと。
夜中になったら、筋トレ、するし?
「…………」
ああ、そうだ、ジム行かなきゃ。
今日こそは、背中の筋トレをしなきゃ。
そのためには、ちゃんと食べなきゃ。吐かずに食べなきゃ。お腹に入れなきゃ。
「美寧、そんなに急いで食べなくても……」
「ぅえ? ああ、うん、美味しいから」
「行儀良くしなさい。汚い」
うるさいな。
頭の中では反射的に反発し、口ではごめんなさいと自然と謝罪の言葉が家出する。
ジムに行くのは、やっぱり夜中にしよう。
今日は母親がいるが、まあ、化粧も落としてないしスーツ姿のままだから、この後出掛けてどっかの男とヨロシクなんだろう。年齢考えろよ。
父親は、帰ってくるかどうか怪しい。どこかの女に癒されてていれば良いんじゃないだろうか。汚らしいけど。
だから、どうせ夜は独りぼっちだ。
ジムでもどうせ、独りぼっち。
いや、真夜中のジムには、鬼みたいなのが出没するから、独りじゃないか。
丸刈りでヤバい面構えをしたボディビルダーを思い出し、ふっ、と思わず美寧は笑ってしまった。
よく考えたら、独りぼっちの家よりも、ジムの方がヤバいじゃん。
鬼マッチョの住処じゃん。
なんだそれ、ウケる。
どうにも堪えることが出来ず、ふふっ、と追加で笑ってしまう。正しい意味での失笑である。
「……美寧?」
「んふっ……んんっ、ごめんごめん。ほら、母さんと久しぶりのごはんなのに、叱られてばっかだなって笑えてきた」
「なによそれ、変わった子……」
呆れた様子の母親に、はいはい変わった出来損ないの子ですよ、と腹の中で毒づきながら、鯖の味噌煮を口にする。
あ、鯖の味噌煮だった、これ。
もぐもぐと食べながら、ようやくこの弁当が何かを思い出す。なんで食べ終わる直前くらいで気付くのだろうか。舌まで馬鹿なのか。
適当に選んだけど、渋いセレクトだな私。
まあ、魚は良質な油とタンパク質源で、米は大事な炭水化物。あ、よく見たら白米に麦が混ざってる。
これは筋トレ前の栄養補給としては、ナイスセレクトなんじゃなかろうか。
鯖の味噌煮、美味しいし。
ああ、そうだ、筋トレしている人ってプロテインとか飲んでるイメージあるけど、栄養学的にはどうなんだろう。太るんじゃないかな。何か食事で気をつけた方が良いことってあるんだろうか。どうなんだろう。何も知らない。
先生だったら、知ってるかなぁ。
「……美味しそうね」
「へ?」
「……いいえ、なんでも」
何か母親が言った気がするが、何でも無いと一蹴されたら、そうですか、としか言いようがない。
なにさ、辛気くさい顔して。
自然と毒を吐きながら、弁当を見れば最後の一口になってしまった。
ああ、やっと食べ終わる。
最後に残ったブロッコリーを食べてから、ぱちん、と美寧は手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
親と一緒の食事なのに、今日は不思議と、満足出来る食事だった、気がした。
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錦地さん家、ドロドロしてる
・父
浮気している。
安璃の誕生日は覚えている。美寧の誕生日は覚えていない。
・母
浮気している。
安璃に出来て美寧に出来ないのは、美寧が馬鹿だからと思っている。
・姉
美寧のことは出来の悪い妹だとナチュラルに思って、いた。
と言うか、出来ない人のことを基本的に理解出来ないタイプの人、だった。
故人。
・妹
下水の底の方に沈殿しているヤツみたいな性格をしている、と自分では思っている。
父が嫌い。
母が嫌い。
姉が嫌い。
みんな嫌い。
自分も嫌い。
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