52『失敗』

 深夜のジムで、怪しい雰囲気の2人がいる。

 1人は上半身裸になり、筋骨隆々という言葉通りのマッシブなその肉体を晒していた。

 もう1人は、そのムキムキの上半身をを、顔を真っ赤にしてマジマジと眺めていた。

 上半身裸体の男は秋水で、それを固唾を呑んで間近で鑑賞しているのは美寧である。ここに他の利用客がいたら、通報待ったなしの状況であった。


「まずは美寧さん、ベントオーバーロウはわりと難しい種目でして、ミスが起こりやすいトレーニングの1つとされています。つまらないでしょうけれど、最初に簡単な座学から行きます」


「うお、おお……え? うわぁ……」


 2人しかいないジムの、バーベルが設置されているパワーラック内、上半身裸のまま美寧と向かい合いながら、秋水は美寧へと落ち着いた声で語りかける。

 しかし、相手は聞いていない様子であった。

 何が面白いのか、美寧は興味津々というように秋水の晒した裸体を舐め回すかのようにガン見して、ふんすふんすと鼻息を荒くしていた。何故だろうか、若干の恐怖を感じる。


「……あの、美寧さん?」


「ほええ……むっきむきぃ……」


「……ちなみに、背中の筋肉はこう動きますよ」


「うわぁっ!? 動いたっ!?」


「聞いてます?」


「え? ごめん、なんて?」


 これは駄目だと言うべきか、効果覿面だと言うべきか。

 まるで話を聞いてくれていない美寧にくるりと背を向け、背筋の動きを見せるかのようにバックダブルバイセップスのポーズをかましてみれば、凄く良い反応であった。見せつけてくるタイプの変態呼ばわりされたが、現状は美寧が見てくるタイプの変態である。

 いや、見てくれるだけまだマシだ、と思うことにしよう。男の裸体なんぞ、うわキモい、の一言で目を逸らされる可能性の方が高いのだ、普通は。

 軽く溜息交じりで考えながら、背中の筋肉の動きを意識しながらバックラットスプレッドのポーズへ移行すれば、ぬひゃぁっ、とか良く分からない奇妙な歓声が上がる。悲鳴じゃないだけ良しとしよう。


「まずはベントオーバーロウの座学をしましょう。よろしいですか?」


「あ、はい、よろし……よろ……ちょっと待って先生、先生の体が刺激的過ぎて話が全然入ってこない」


「おや、彼氏持ちのわりには意外と初心なのですね」


「ちょっと失礼じゃんね?」


 煽るような台詞で茶々を1つ入れてみれば、すん、と美寧の表情が戻った。ちゃんと話が頭に入っているようで何よりだ。

 秋水は1度苦笑を浮かべてから、美寧に対して横向きになる。


「まずは、お尻を後ろへしっかり引いた基本ポジションです。背中に効かせるには前傾の角度を深く、肩は竦めないようにします。浅かったり肩を竦めたりすると、僧帽筋に負荷が入るので注意しましょう。ここまでは美寧さんも出来ているご様子です」


 説明しながら、秋水はゆっくりと尻を引きながら中腰のような姿勢を取った。

 ヒップヒンジ、と言う、筋トレにおいては基本中の基本となる動作だ。

 太ももの後ろ側の筋肉であるハムストリングス、そして尻の大臀筋をしっかりと使って刺激を入れるためには、この動作が重要である。

 さらにはヒップヒンジの動作がしっかりと上手く行えることによって、スクワットやデッドリフト、そして勿論今回のベントオーバーロウなど、様々なトレーニングにおいての腰痛リスクを大幅に低減することができる。いや、トレーニングだけではなく、日常生活においての腰痛リスクも軽減出来る、正に必須級の基本動作だ。


 だが、残念ながら、このヒップヒンジ、正しく出来ない人は、かなり多い。


 恐らくだが、美寧もその1人である。

 まずはそれを確認する。


「それで、最初の注意事項なのですが、恐らく美寧さんは体を支えるときに大腿四頭筋を使ってバランスを取られていると思われます」


「だ、だいたいしとうきん? どこだっけ?」


「太ももの前側の筋肉群ですね。重心が前に行くのを踏ん張って止めている感じで力が入っているご様子でした」


「えーっと、うん? でもその姿勢って、頭が前に行ってるから嫌でも重心が前に行かない?」


「いえ、この姿勢はヒップヒンジと言いまして、重心はむしろ後ろに行きます。そして使っている筋肉はハムストリングス、太ももの後ろの筋肉を主に使用するんです」


「え?」


 まずは大前提となるヒップヒンジの説明だ。

 重心が前だの後ろだの言われ、美寧は目を白黒させながらも秋水と同じ中腰の姿勢を取り、自分の太ももを揉むようにして触って確かめている。

 傍から見れば、秋水も美寧も同じような姿勢ではある。

 同じような、だ。


「美寧さん、もう1度一緒にやってみましょう」


「あ、はい。よろしくお願いします」


「はい、お願いします」


 中腰姿勢から秋水はすっと体を起こし、真っ直ぐな立ち姿勢へと戻る。

 遅れて美寧も体を起こし、若干だがふらりとよろめいた。

 重心がブレている。


「まずは美寧さん、ヒップヒンジは股関節を支点に曲げます。お尻を後ろに突き出すようにして、お辞儀をするように腰を曲げないで上半身を前に倒して、重心を後ろへ持って行きながら、しゃがんで行きます」


「えっと、こう?」


 説明をしながら再び中腰の姿勢へと戻り、美寧は秋水を見ながら同じような中腰の姿勢を取る。

 しかし、それはあくまでも、同じような、止まりである。


「違います」


「え?」


「もっとお尻を、後ろに突き出して下さい」


「ええ? もっと後ろって……」


 即座に出された秋水のだめ出しに、美寧は一瞬だけきょとんとした表情になってから、言われた通りに尻を後ろに引くように重心を移動していく。

 美寧の足と尻が、ぷるぷるしていた。

 ああ、なるほど。

 これは確定だ。思った通りである。

 スクワットを教えたときは、初心者所ではない壊滅的な状態だったので気にしていなかったが、現在の美寧の様子を見て秋水は改めて確信を得た。


 美寧は、背面の筋肉が、総じて、硬い。


「あの、先生……これ、お尻、って言うか、もも裏が、凄い引き攣るって言うか……」


「キツいですか?」


「千切れそうなんだけど」


「最終的に腰を曲げないで、上半身を床と平行になる角度まで前傾します」


「嘘じゃんね?」


「こうなります」


「本当じゃんね……」


 ハムストリングスと大臀筋に力を入れながら、重心はしっかりと後ろへ引きながらも秋水は深々とお辞儀をするようにして、ヒップヒンジの中腰のまま上半身を床と水平になるまで曲げてみた。

 太ももの裏側が張るような、ストレッチがしっかりとかかっている感覚。ヒップヒンジの動作を行う独特な感覚だ。

 横目でちらりと美寧の方を確認してみると、愕然とした表情である。

 何故だろう、思っていた以上にショックを受けているようだった。


「え……え? なんで? できない……」


 頑張って尻を後ろに引くようにしてヒップヒンジの動作を行おうとするのだが、美寧のハムストリングスや大臀筋は現代人らしく凝り固まっているのだろう、一向に伸びる気配がない。それどころか、重心を後ろへ下げようという意識だけが先行してしまっているのか、ふらふらとバランスが不安定になっている。

 焦っている。

 何故だ?


「ま、待ってね先生、お尻を後ろに引っ張る感じだよね? こうだよね?」


 ふらふらした状態のまま、美寧はそれでも一生懸命にももの裏を伸ばそうとする。

 まあ、それで伸びるわけがない。

 現代人は良くも悪くも便利な生活をしている。その生活の中では、背中の筋肉群や下半身の筋肉群はどうしても硬くなりがちなのだ。

 筋トレの中でベントオーバーロウはわりと難しい部類の種目であり、ヒップヒンジの動きをちゃんと行うことができ、背筋をちゃんと動かすことが出来る、という大前提が立ち塞がっているのだ。

 ヒップヒンジの動きで躓いているようでは、とてもではないが。


「こう……こんな感じ……違う、股関節を支点にして、こうやって……」


「美寧さん」


「あ、ちょ、ちょっと待って、もうちょっとで何か、できそうって言うか」


 ぶつぶつと独り言ちりながらヒップヒンジの動作を繰り返している美寧を呼べば、美寧はがばりと顔を上げる。

 焦ったような表情だ。

 おかしい。

 美寧は初心者だ。最初から完璧には出来ないことは、当然のことである。

 と言うか、今までも美寧は散々出来ないことが山積していた。初心者である以上、それを1つずつクリアしていくのが普通のことであり、出来ないこと自体に焦る必要など全くないはずである。

 それなのに、今日の美寧は、どことなく余裕がない。

 はて、と秋水は1度首を傾げてから、気を取り直して自分の背中を指で指して示した。


「美寧さん、追従して頂いているところで恐縮ですが、私の背中の方を見てもらってもよろしいですか?」


「え、でも……」


「まずは座学、ですよ」


 美寧は若干渋りはしたものの、秋水の言葉に美寧はゆっくりと上体を起こした。

 何となくではあるが、やる気が空回りしているように思える。

 はぁ、と溜息のように美寧は大きく深呼吸をしてから、にへら、と笑ってから秋水の後ろへと小走りで移動する。

 その作り笑いはさっきも見たな、と思いつつ、秋水は傍にあるバーベルの方へと向かい合った。

 パワーラックの前に張られた鏡を見れば、秋水の背中をまじまじと、正に舐め回すように美寧が見ている。先程のような興奮気味ではなく、しっかり観察するように、まじまじと、だ。

 学習意欲が高い。

 やる気は十分にある。

 ただ、体の柔軟性がついてきていないだけである。


「では、基本ポジションからバーベルを持ちます」


 後ろからしっかり観察してくる美寧から鏡越しに視線を外し、秋水は改めて中腰の姿勢を作り、バーベルを握る。

 5㎏のプレートが左右に1枚ずつ。バーベルと合わせて30㎏。

 秋水が行うにしては軽い、と言うか片手で行うにしても軽過ぎるくらいの重量だ。

 ただ、美寧が取り扱うにしては、ちょっと。

 いいや、重量設定は人それぞれだ。

 高重量低回転も、低重量高回転も、どちらのトレーニングにも貴賤はない。

 余計な考えが一瞬秋水の頭を過ぎるが、それを打ち消すように30㎏のバーベルをゆっくりとラックから引き上げ、当たらないように少しだけ後ろへ下がった。


「バーベルは体の近くにしましょう。それから胸に向けてバーベルを引き上げますが、ちょっと私の背中をよく見ていて下さい」


「はいはい。何かもう、筋肉凄いことになってるけど」


「バーベルを引き上げるとき、その背中の筋肉を動かすんですよ」


「うん、まあ、背中の筋トレだもんね」


「実際行ってみると……こう」


「おわっ!?」


 掛け声と共にバーベルを胸に向かって引き上げると、美寧から驚きの声である。最初にバックラットスプレッド見せた気がするのだが、新鮮さが保たれているリアクションである。

 ベントオーバーロウに限らず、背筋を鍛える種目の全般に言える問題として、背筋をちゃんと動かさなくてはならない、という問題がある。

 ヒップヒンジでのもも裏や大臀筋が硬いのと同様、現代人は背中の筋肉もまた凝り固まっている場合が多い。これがしっかりと柔らかくならないと、背筋のトレーニングがままならいのだ。


 そして恐らく、美寧も背中の筋肉が、硬い。


 さらに言うと、日常生活において、自分の背中はなかなか見る機会がない。

 腕の筋肉や脚の筋肉のように、動きが見て分かる、という筋肉ではないのだ。特に広背筋や脊柱起立筋は、ストレッチや収縮などの動きを意識し辛い筋肉である。

 まして背筋の主な動作である、引く、という動きは、腕の力や体全体での動きでおおよそ何とかなってしまう動作なので、余計に背筋が使われないのが常である。

 使われないから意識出来ない。意識出来ないから余計に使われなくなる。

 負のスパイラルだ。

 背筋が硬いのと同じく、現代人はどうしても背筋そのものが弱い傾向にある。


 そして恐らく、美寧も背中の筋肉が、弱い。


「手で引く、と言うよりは、肘で引く、と認識すると広背筋は動かしやすいですね」


「な、なるほど……これは分かり易いね」


「そうですね。背中の筋肉がどう動くか意識しないと、最初はどれだけ筋トレをしてもチーティングをしてしまうので、まずは筋肉の動きを見て覚えましょう」


「うん。先生が見せつけてくるタイプの変態とか言ってゴメンね」


「……分かって頂けて何よりです」


 良かった、好きで上半身晒す趣味があるとかいう誤解をされるところであった。

 先に背筋群の動きを見せて良かったと安堵しながら、秋水にとっては軽過ぎるバーベルを何回か上げ下ろしをして、ベントオーバーロウの手本を見せていく。

 ただ、思いっきり引き上げるとバーベルが胸に当たってしまうので、ちょっとやりづらい。ベントオーバーロウはやはりダンベルの方が好みだな、と思っていると、秋水を後ろで見ていた美寧がうずうずとしたように声を上げてきた。


「あ、先生先生、次、私やって良い?」


 やる気があるじゃないか。

 失敗も経験の内だろう、と秋水はバーベルをひょいとラックに掛けてから、ちらりとバーベルの端に取り付けられている5㎏のプレートへと目をやった。

 重量設定など、人それぞれだ。

 ただ、まあ。


「構いませんが、1度プレートを外してもよろしいですか?」


 振り返り、そう尋ねてみる。

 30㎏のバーベルでは、今の美寧にとっては。

 差し出がましいと言うか、余計なお世話と言うか、そんな提案である。

 振り返り、美寧を見る。


「…………なんで?」


 何故か、表情が抜け落ちていた。


 不思議そうでもなく、不満そうでもなく、ただ、表情がない。

 美人というのは、他意がなくとも無表情が一番怖い表情だ。

 それは鎬という、見た目だけなら誰が見ても美人である叔母が身近にいるので、身に染みて良く分かっている。


「練習だからですよ」


 態度が急変する美寧に大して動じることもなく、秋水は許可を待つことなくテキパキとバーベルからプレートとカラーを外していく。

 薄々分かってはいたのだが、今日の美寧は感情の起伏に随分とムラがある。

 誰しも機嫌の悪い日はあるものだろう。下世話な話と言うか、ただの下の話と言うか、女性はそうであるというのは、秋水はちゃんと認識している。妹は毎月布団に蹲り、凄い不機嫌になっていた。

 懐かしい。

 もはや、懐かしい。

 秋水は思わず苦笑いを口の端に浮かべてから、パワーラックにプレートを戻し、改めて美寧に向き直った。

 若干俯いて、むすっとしている。

 何故かは分からないが、不機嫌そうだ。


「美寧さん」


「……なに?」


「まず基本的に、筋トレのフォームを体得するときは重量を軽くしましょう。あくまでも練習なのです。適切な重量設定というのは後にしましょう」


「う……」


「重い物を扱う、という意識ではなく、どこの筋肉が動いているのか、正しいフォームになっているのか、体のどこに負荷が掛かっているのか、チーティングで負荷を逃がしていないか、そういう所をしっかり意識しましょう」


「…………はい」


 それでも説明すれば、美寧はちゃんと理解を示してくれる。

 そもそも説明をちゃんと聞いてくれる。

 どうにもこの女子高生、態度のわりには育ちの良さみたいなものが滲み出ているのだ。

 学校でチョロい子とか思われてないだろうか。

 いらない心配をしていると、ぱちり、と美寧が気合いを入れるように、もしくは顔を隠すように、両手で自分の顔を軽く叩く。


「……駄目だな、私」


 ぼそりと零した言葉は小さく、いつもの大きな声ではない。

 独り言だろう。


「頑張れ、私」


 小さな小さなその声は、誰に聞かせるわけでもないのかもしれないが、二人きりのジムの中で、ましてこの近さで、聞こえないわけがない。

 まあ、聞かなかったことにしよう。

 叩いた両手を顔から離せば、にへら、とした作り笑い。


「かしこまりました先生! まずはヒップピンチだね!」


「ヒップヒンジです」











 ちなみにこの日、美寧は最後までバーベルベントオーバーロウを体得することは出来なかった。

 当然と言えば当然である。

 もも裏の筋肉も、背中の筋肉も、硬いのだ。それで出来るわけもない。

 ヒップヒンジのストレッチと、背筋のストレッチ。美寧にとっての課題はそこなので、家でも出来るそれらのストレッチを、美寧が帰るギリギリまで教えるだけで終わってしまった。

 そのストレッチを美寧はスマホのメモを駆使しながら、必死になって覚えてくれた。

 やる気は十分なのだ。

 ストレッチである程度は背面の筋肉立ちがほぐれたら、改めてベントオーバーロウを教えることを約束した。




 錦地 美寧がその日の中で、筋トレの種目を1つも体得出来なかったのは、初めてのことだった。




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 どこぞのチワワが明るさ全振りなものだから、相対的に美寧さんの方が影のある感じになってる気がする(^^;)

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