51『背中の筋トレの難易度は高い』

 秋水と美寧しかいない、真夜中の筋トレジム。

 顔を合わせれば毎度のことではあるが、美寧に頼み込まれ、秋水は美寧の筋トレを見ることとなった。

 バーベルを使ったベントオーバーロウ、広背筋などを狙った背中の種目である。

 秋水は別にトレーナーではないし、何なら筋トレ経験があるだけのただの一般人でしかないのだが、何かの縁だと美寧の筋トレを見ること自体に不満はない。

 ない、のではあるが。


「そうですね、それでは次に、肩甲骨を寄せるように意識してみましょう」


「ふにっ……ふっ、こう?」


「……うーん」




 今日の筋トレは、初っ端から見事に難航していた。




 どちらかと言えば、今日は秋水の教え方に問題がある感じであった。

 バーベルベントオーバーロウが、上手いこと教えられないのである。

 原因は、まあ、分かっているのだが。


「美寧さん、背中の筋肉を意識出来ますか?」


「せ、ぜぇ、え? 背中? はぁ、ふっ、ふー……こう?」


「ふむ」


 中腰のような姿勢で尻を後ろに引くように姿勢を低くしながら、美寧は懸命にバーベルを下腹部に向かって引き上げているのだが、違うのだ。

 いや、フォーム自体は、わりと正しい。

 それはジムに入ったときに遠目で見ていて思った通りであった。

 実際にフォームを修正するためにした助言は少ない。

 バチバチに背中に決めるのであれば、バーベルを引っ張り上げる方向がズレてますよ。下腹部を狙うように引き上げてみましょう。それと、引き上げるときに息を吐いてみましょう。ついでに肘を開かないように注意しましょう。

 言ったことは、これくらいだろうか。

 それらの動きは、見た目としては改善されている、ように思える。

 思えるのだが、美寧の動きが、どうにも、いまいち。

 いいや、悪いと言っているわけではない。

 今の動きでも、筋トレとしては十分と言えば十分なはずなのだ。

 はずなの、だが。


「……美寧さん、ストップです」


 少し迷ってから、秋水は中止を呼びかけた。

 それに対して、バーベルをゆっくりと下ろしているところだった美寧が、何故かぎょっとした目を向けてきた。


「はぁ、え? あれ? なんで?」


「とりあえず、バーベルを掛けましょう」


「ちょ、ちょっと待って、ぜぇ、まだ出来るって」


「いえ、1度置いて下さい。姿勢が崩れています。腰をやりますよ」


 荒い息を吐きながら何故か続行しようとしてきた美寧は、秋水へと顔を向けたせいで上体の姿勢が崩れてしまっている。

 顔を向けた、それだけで姿勢が崩れた。

 ああ、やっぱり。

 秋水は心の中で軽く溜息をつきながら、中止です、と告げるように胸の前で両手を使って大きく×の字をつくる。

 むっ、と美寧が不満げな表情を浮かべる。隠そうともしない。

 それでも、それ以上の文句など口にすることなく、美寧はもう一度バーベルを少し上げ、ゆっくりとラックへとバーベルを下ろした。

 うん、ちゃんと素直だ。

 一見すれば、そう見える。

 ガチャン、とバーベルを下ろしてから、少しの間だけ美寧はバーベルを下ろした姿勢のまま俯いて、はぁ、はぁ、と荒い息を吐き、深呼吸をするように1度大きく息を吸って呼吸を整える。

 整えているのは、呼吸だけだろうか。


「もしかして、全然ダメな感じ?」


 へら、と笑いながら、しかし、どこか不安そうに、美寧は顔を上げてきた。

 対して秋水は即座に首を横に振り。


「いえ、私の教え方が根本的に駄目なようです」


 その意見はだけは、誤解されないように率直に伝えた。

 そうなのだ。今日は、秋水の教え方に問題があるのだ。

 そこについては間違いなく、美寧が駄目、ということは全くない。

 むしろ美寧は良くやっている。1ヶ月も経っていない初心者が、ほぼほぼ独学で、そしてちょっと茶々のような指導っぽい助言をするだけで、あれだけのフォームを作れるのだ。同じ筋トレ民として、そんな美寧を責める理由など1つもありはしない。

 駄目なのは、秋水の方である。

 ここは、絶対に誤解させてはいけない点だ。


「美寧さんはとても頑張られています。素晴らしい。独学であれだけのフォームを作ることが出来たのです。美寧さんが駄目なところは全くありません、自信を持って下さい。美寧さんには才能があります。そこは断言出来ます」


「あ……わぁ、出た、先生の褒め殺し」


 美寧は駄目ではない。

 その一点だけは伝えようと言葉にすれば、美寧は一瞬だけきょとんとしてから、ようやく破顔してくれた。

 ああ、やはり、作り笑いだったか。

 別に褒め殺しているつもりは全くないのだが、それでもネガティブな緊張が解けたのは良いことだ。

 その美寧は肩の力がようやく抜け、不思議そうに首を傾げる。


「でも、えっと、先生の教え方、全然ダメじゃない気がするんだけど?」


「いえ……そうですね、少々お待ち下さい」


 問われたそれに、秋水は1度顎に手を当ててから考え込んだ。

 ちらり、と美寧が上げていたバーベルへと目をやった。


 バーベルには、5㎏のプレートが左右に取り付けられている。


 バーベルで20㎏、重りが5㎏を2枚、合計して30㎏。

 これは、秋水がジムには行ってきた時点で美寧が扱っていた重量、そのままである。

 重量設定は、人それぞれだ。

 高重量低回転にするか、低重量高回転にするか、それは好きにすれば良いと秋水は考えている。最近では低重量で多く回数をこなした方が筋肥大には良いと言われているが、それを含めて個人の好みである。

 そして、美寧は30㎏のバーベルを引き上げることが出来ている。ギリギリで。それは間違いない。

 さらには、30㎏でフォームを維持すること自体は出来ている。ギリギリで。それも間違いない。

 だから、バーベルの重量設定に、文句を言うつもりは、ない。

 ないのだが、秋水の中にある冷静な自分が、冷めたように告げるのだ。


 それで良いのか?


 たぶん、美寧の考えていることは、手に取るように分かる。

 悩みと言うか、焦りと言うか、疑念と言うか、モヤモヤと言うか。

 恐らく、筋トレに取り組んだことのない人には全く理解出来ないような話である。

 いいや、それこそ、かなり真面目に筋トレに取り組まなければ、抱くことがないだろう感情である。

 それ自体は、秋水も経験したことなのだ。

 だからこそ秋水は、重量設定など人それぞれだ、と思っている。

 それをとやかく言うのは間違っている、と思っている。

 経験したからこそ、そう思っている。

 だが、それで良いのだろうか。

 それで、美寧自身のために、なるのだろうか。




「…………先生?」




 ふと、美寧が声を上げた。

 不安そうな声であった。

 その声に秋水ははっとなり、慌てて視線を美寧へ戻す。

 いけない。本人を目の前にして、変なことを考え込んでしまった。


「ああ、申し訳ありません。少し考え込んでしまいました」


「あの、私にダメなところあったら、本当にじゃんじゃん言ってくれて良いからね?」


「駄目なのは美寧さんではありません、私の教え方です」


 無言の時間が思ったより長かったのか、再び不安そうになっていた美寧の言葉を一刀両断に断ち切ってから、秋水は静かに溜息を細く長く吐き出した。

 駄目なのは、秋水の教え方である。

 そして、その駄目な点は、秋水自身がちゃんと把握していた。


「……美寧さん、申し訳ありませんが、バーベルをお借りしても宜しいでしょうか」


「え? あ、うん。お手本見せてくれる感じ?」


「そうですね、そんな感じです」


 一言断りを入れてから、秋水は美寧と入れ替わるようにしてパワーラックのコーナーへと入る。

 入れ替わった美寧は、何処から見れば良いのだろうと秋水の後ろを少しちょろちょろして、とりあえずパワーラックからは出て下さいね、という秋水の声かけによりようやく離れてくれた。

 そう言えば物理的に距離感近い人だったな、と秋水は思い出す。

 クラスメイトの紗綾音も物理的に距離感が近いタイプではあるが、ボディタッチがない分まだマシな方かもしれない。美寧の場合は普通に体が触れるくらいの位置に陣取るとか言う、パーソナルスペースが狂っているレベルだ。

 きっと学校では色々な男子を勘違いさせているんだろうなぁ、と思ってから、ああ、そうだ、と秋水は唐突に思いついた。

 ボディタッチだ。

 無意識的に避けていたのだが、一番手っ取り早い方法があるじゃないか。


「そうです、美寧さん」


「うん? なに先生?」




「あとで美寧さんの体を揉んでもよろしいですか?」




 そしてド直球に聞いてみた。


「……ええっ!?」


 一瞬だけ美寧は黙った後、見事に素っ頓狂な、悲鳴に近い声を上げてくれた。

 しまった、聞き方を間違えた。

 言ってからではなく、美寧の素っ頓狂な声を聞いてから、秋水は自分の言い方が変態臭かったことを悟った。


「いや、え!? 揉むって!? あ、ちょっと待ってストップ!?」


「申し訳ありません。語弊がありました」


「あ、そ、そうじゃんね!? 語弊じゃんね!?」


「あとで美寧さんの体を触ってもよろしいですか?」


「よろしくないじゃんね!!」


 ちゃんと訂正したにも関わらず、美寧は顔を真っ赤にして自分の体を護るように、と言うか胸を隠すように両腕を構えて勢い良く跳び退いた。

 誤解である。

 いやマズい。そう言えば深夜のジムで二人きりの状態だった。この誤解は社会的に詰んでしまう。


「先生、もしかしてそっちが本性!? 似合い過ぎだけど普通にぶっ殺すからね!?」


「誤解です。聞いて下さい」


「辞世の句を!?」


「言い方が悪かったのを認めます。聞いて下さい」


「……だ、ダンベル持って来て良い?」


「はい」


 一気に警戒レベルを引き上げられてしまったせいだろう、両手を挙げて無罪アピールをしているにも関わらず、全く信用されず、美寧はダンベルハンガーのところまで逃げるように走り、護身用だと言わんばかりにダンベルを1つ持って戻ってきた。

 いや、そこは普通に逃げるところではないだろうか。

 こんな 『いかにも』 な奴が 『いかにも』 なことを言ってきたのに、ダンベルを持ったとは言えど、戻ってきてどうするのか。

 しかも選んできたダンベルが1㎏である。ぶっ殺すとか不穏な発言をしたわりには、殺意が低い重量だった。

 それと、顔は真っ赤だが、その表情に怯えた様子が窺えない。

 伊達に様々な人から怯えられている毎日を過ごしているわけではないのだ。その人が怯えているかどうかなど、見れば分かる。


「美寧さん、面白がってませんか?」


「や、普通わざわざ断り入れてから揉んでくる馬鹿いないじゃん?」


「ご理解頂けているようで何よりです」


「でも言われたときは普通にビックリしたからね」


「申し訳ありません」


 思っていた通りではあるが、からかい半分なようであった。

 心臓に悪い、とは思ったが、二人きりの状態で自分のような悪人面にセクハラを迫られたら、間違いなく女性の方が竦み上がって当然のような状況なのだ。

 これはどう考えても美寧側の方が心臓に悪かっただろう。

 ははは、と美寧は笑ってはいるものの、手にしたダンベルを手放す様子はない。もしかしたら、本当に恐怖を感じさせてしまったのかもしれない。

 申し訳なかった。


「それに先生に襲われたら抵抗無意味かなって諦めも入ってる」


「諦めないで頑張って抵抗しましょう。彼氏さんが悲しみますよ」


「彼氏……?」


 何故か美寧が首を傾げた。

 秋水も首を傾げた。

 あれ、彼氏のために運動を頑張っているんじゃなかったか?

 お互いがお互いに不思議そうな顔をすると、はっ、と美寧が何かに気がついたかのような表情となった。


「あ、ああっ! うん、そうだった! 彼氏以外に体を許すと思ったら大間違いじゃんね!」


「そうだった?」


「先生細かい! それでなんで私は体触られるの!?」


 何故か微妙にキレ返される。この人もキレ芸なのだろうか。

 恋人関係の話は秋水の理解の外なので、あまり彼氏の話はしない方が良いのかもしれない。喧嘩しただの別れただのくっついただの、面倒な話は御免である。


「触るのは手本を見せた後の話なので、先に見て頂きたいのですが」


「先生って本当に冷静だよね」


「ありがとうございます。それで、ああ、これも誤解しないで頂きたいのですが」


「うん」




「上の服を脱いでもよろしいですか?」




「見せつけてくるタイプの変態だったじゃんね!?」




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 セクハラのオンパレード。


 ちなみに今更ですが、基本的に1話あたりを5000文字から7000文字くらいを目安にしていますが、文章量はこれくらいで良いんですかね(^_^;) 凄い今更ですが。

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