50『筋トレ種目の名前は方言みたいなもの(暴論)』
いきなり立ち塞がった扉を前に、あ、これが噂のボス部屋とか言うゲームシステムか、と直感で悟った秋水は、顎に手を当て、ふむ、と小さく鼻を鳴らした。
流石の秋水とて、よし行こう、と即決する程馬鹿ではない。
いや正直、ボス、とか言う強敵がいるならば、行きたい気持ちは十分過ぎる程にある。ぞわり、と言うか、ぞくり、と言うか、背筋に走るその感覚が、背中を押してくるまである。
しかし、いつものように部屋の中を覗き見ることが、黒っぽいその扉が邪魔で行えない。
ボスがどのような存在か分からない。
数で来るのだろうか、質で来るのだろうか。
10体とかの角ウサギに囲まれる可能性もある。秋水と同じかそれ以上に巨大化している角ウサギが待ち構えている可能性もある。はたまた、角ウサギとは全く関係ないモンスターが歓迎してくる可能性もある。
いや、そもそもボス部屋かどうかも分からない。
ボスだなんて、そんな殺し合い万歳の秋水にとって都合の良い存在なんぞ存在せず、扉を開ければ普通に次へ続く通路があるだけかもしれない。
予想が出来ないとか、福袋を開けるみたいにワクワクするじゃないか。
開けてみたい。
進んでみたい。
確かめたい。
その気持ちは、強い。
だが、ちょっと待った、という冷静な声も同時にあった。
確かに今日は調子良くダンジョンを進むことが出来た。
ほぼ無傷だ。
だが、万全か、と言われたら、どうだろう、と返す他にない。
今の装備はお試し運用の装備である。身体強化の強化倍率が上がってきているので、巨大バールをお試しで使っている途中だ。その巨大バールだって1本、道の途中で置き去りにしている。カラス避けネットに至っては全滅している。
使い勝手の良い装備にちゃんと固めて、万全を期して挑んだ方が良いのではないか。
「……前もこんな感じで悩んだよな」
悩むように唸りながら、前回のことを思い出す。
今まで各部屋に1体ずつしかいなかった角ウサギが、3体いるのを発見したときだ。
あの時は、準備不足だよな、と今と同じように悩んだ末、面白そうだから行ってみるかー、くらいのノリで突っ込んでいった。バチボコに殺し合っている感じが最高であった。
ならば、今回も。
「いや」
今回も、とは、ならない。
扉へと手を伸ばしかけたものの、その手をすぐに引っ込めて、秋水は首を横に振る。
止めよう。
今日は、ひとまず帰ろう。
巨大バールやカラス避けネットという新装備の試運転もできて、今日は十分に満足している。
次からのダンジョンアタックで、今日と同じように調子良く進むことが出来たなら、その時に挑戦することにしよう。
秋水にしては消極的な意見であった。
しかし、別に怖じ気づいているわけでもなかった。
首を振って、秋水は見上げるように顔を上げる。
その顔には、怖じ気づいているようには到底見えない笑みが浮かんでいる。
殺し合いに興じている時と同じ、獰猛なる笑みである。
今日は、ボス部屋には挑まない。
理由は単純だ。
「ボスがいるんなら、万全で挑んでみてぇ……」
単純に、サイコパスな理由である。
もしも仮に、巨大バールをメイン武器に据えるのであれば、問題となるのは技術である。
確かに、まあ、2本同時に巨大バールを扱うとなると、そもそもながら技術以前にパワーが足りていない、と言う問題もはある。
だがそれは、身体強化の強化倍率が上がっていくことで、いずれその内、勝手に解決する問題だ。
しかし、身体強化の強化倍率が引き上げられようと、トレーニングで筋力が底上げされようと、根本的に長柄の物という取り回しが悪い得物を取り回す技術が、秋水にはない。
武道や武術というものに今まで全く興味を示さず、男の子が好きそうなアクションシーンの多いヒーロー物も熱心に見ていなかったので、参考になりそうな記憶すら無いときた。
秋水はボス部屋らしき入り口を発見してから、そのまま道を引き返し、帰り道に再出現していた角ウサギをほとんど無傷のまま串刺しにして帰り、セーフエリアに辿り着いたのは23時より前のことだった。
それから風呂に入り、炊いた発芽玄米と適当な総菜で夜食を食べ、一息ついてから、巨大バールの取り回しの参考にならないかと動画サイトの方で槍捌きなどの動きについて探してみるが、そうそう都合の良い映像は見つけられなかった。
達人の動きが凄いよね、みたいな動画はあれど、それに近づくためには何を注意するべきなのか、みたいなコーチング動画がない。不思議なもので、日本刀に関しては居合い切りなどのコーチング動画はあるのに、槍などに関しては参考になりそうなものが見当たらなかったのだ。
そもそも、槍、で検索を掛けると、そのコーチング動画のほとんどが槍投げの競技に関する物である。これならば雑伎団の技術指導の動画の方が参考に出来そうだ。
「んー、本とかの方が良いのかねぇ……」
目当ての動画がない以上はそうなるか、と秋水は若干肩を落としながらスマホの画面を閉じる。
日付が変わっていた。
土曜日の始まりである。
さて、これから朝までどうするか。
今日は学校がないが、昼に用事があるので、1日中ダンジョンに潜る、ということは出来ない。
まあ、もう1度だけダンジョンアタックをボス部屋前まで1周しても良いのだが、それをすると、もう1周、もう1周、となってしまう未来がはっきりと幻視出来てしまう。
それに、昼の用事は時間厳守である。
早く行く分には良いかもしれないが、遅れれば災悪が秋水の家に乗り込んでくる可能性があるのだ。
そう考えると、ダンジョンアタックをするにしても、その用事が終わった後の方が色々な意味で安全だ。
然りとて寝るにはまだ早い。
街をぶらつくにしても深夜である。
どうするか、とは考えてみたものの、今の状況だと秋水に残されている選択肢など1つしかそもそも残されていなかった。
「うん、筋トレするか」
ゴロゴロしようという発想はなかった。
ああ、そうか、土曜日だ。
いつもの通り、馴染みの24時間経営であるコンビニジムのドアを開けてから、秋水は至極当たり前のことを思い出した。
真夜中も真夜中であるジムの中には、すでに先客がいた。
昨日であれば誰も居ない時間であったのだが、今日はジャージ姿をしたギャル風味の少女が独り、黙々と筋トレに励んでいる。
少女と言っても秋水より年上だ。
来週にはジム通い1ヶ月目、すっかり筋トレ民の仲間入り、錦地 美寧(にしきじ みねい)である。
平日の深夜には会わなくなったが、先週の土日も似たような時間で遭遇した。学校との兼ね合いなのだろう。
「ふっ……ふぅ、ふっ……ふっ、ふぅ」
秋水と美寧しかいないジム。
入り口とは反対側にある、フリーウエイトのコーナーから荒い息遣いが聞こえてくるのは、たぶん幻聴だ。入り口のところまで反響するはずがない。
しかし、その呼吸が聞こえてきそうな程、美寧はバーベルを持って集中していた。
それこそ、秋水が扉を開けたことにも気がつかない程である。
今日はバーベルのベントオーバーロウか。
なかなか良いフォームじゃないか。みぞおち辺りにバーベルを引いているので、僧帽筋の筋トレを兼ねているのだろう。
広背筋へバキバキに効かせるつもりでやっているのならば、一部の負荷が腕を伝わり逃げてしまっているので若干惜しい感じもするフォームではあるものの、最初の頃の出鱈目な自滅一直線のスクワットを考えれば文句など一切出て来ない。
あれでも十分に広背筋には負荷が掛かっているので、美寧の筋力量を考えれば十分な効果は期待出来るだろう。初心者ボーナス期間中は、全身トレーニングの方が効率も良い。
頑張ってるなあ、と秋水は他人事のように考えながらコートを脱ぐ。
そのコートを棚に突っ込み、背負っていたリュックからポーション入りのペットボトルやらタオルやらを取り出し、そのリュックも棚に入れる。
ガシャン、と美寧のいるパワーラックの方からバーベルをラックに引っかけた音が響いたのは、そのタイミングであった。
響いたと言っても、その音は随分とソフトな物である。誰も居ないからといって、勢い良くラックに掛けるような置き方ではない。ナイスだ。
「ふぅ、ひぃ……あれ?」
2時間3時間くらい前までダンジョンで暴れていたものの、一応動的ストレッチでウォーミングアップでもしよう。そう思ってストレッチコーナーへ移動しようとするのと、パワーラックの方から声がしたのは、ほぼ同時。
見つかってしまった。
悟ったのは一瞬だった。
「あ、先生じゃん!」
先生ではない。
そして声がデカい。
さっきのバーベルをラックに置くときの配慮は何処に行ったのだろうか。2人しか居ないから、まあ、いいけれどさ。
「美寧さん、お静かに」
「え? なんて?」
難聴気味のおばあちゃんかな?
そうツッコみたいのをぐっと堪える。
流石に入り口からパワーラックが設置されているフリーウエイトコーナーのところまで、静か、という程度の声量では声が全然届かないようである。
仕方がない、と秋水はストレッチコーナーに向けていた足をフリーウエイトコーナへと向け、美寧のところまで近づいていった。
「こんばんは、美寧さん。精が出てますね」
「こんばんは先生。今日も顔が怖いね」
挨拶のようにさらっと心に包丁を突き立ててきやがった。なんだこの女。
いけない。平常心平常心。
出会い頭に心を傷つけられた秋水であるが、それでもすぐに立て直して美寧へと笑顔を向けた。
なお、その笑顔の完成度。
「美寧さんは今日も美人ですね」
「うっ……ごめん、ごめんて。先生が凄むとメチャ怖いから」
「凄んでませんが?」
引き攣った表情で美寧には視線を逸らされた。何故だ。
その引き攣った顔はほんのりと赤く、汗が少しだけ滲んでいる。
まだ1種目目、といったところだろうか。
パワーラックにあるベンチに腰を下ろして休憩の体勢に入っていた美寧を見れば、若干は肩で息をしている状態ではあるものの、疲労困憊、という様子ではない。
少なくとも美寧は、3種目目や4種目目に入ったくらいの疲労蓄積時に、ちゃんとした姿勢をしっかり取れるだけの体幹の筋力はまだ無いはずである。元より姿勢がちゃんとしている美寧ならば、疲労時の姿勢の崩れはより一層顕著な物である。
「美寧さんは、今日は何の日ですか?」
「家庭用消火器点検の日、だったっけ?」
「なるほど、背中がメインの日なのですね」
「わーお、先生、超クールじゃん……そうそう、今日は背中の種目を覚えようかなって。まずはバーベル……えっと、なんとか、オーバー、なんとかー? みたいなやつ」
「バーベルベントオーバーロウですね。ベントオーバーロウイングとも言われますが」
「あ、それそれ。筋トレの名前ってなかなかすっと出て来ないよ」
ははは、と軽く笑う美寧に、認知症初期症状のおばあちゃんかな? というツッコミを秋水はぐっと堪えた。
まあ、筋トレの名称なんて、結構適当なものである。
背中の筋肉を鍛えるトレーニングで 『後ろに引っ張る』 という動作を、ボートを漕ぐことに例えて 『ロウイング』 と言う名称を用いるが、ベントオーバーロウのように 『ロウ』 の名称になったり 『ロウイング』 の名称を使ったり、しかも、どっちの名称も正しい、となったりするのは、筋トレ界隈では良くある話なのだ。
『ロウ』 と 『ロウイング』 はまだマシな方で、中には全く違う名前なのに内容が全く一緒の筋トレもあり、逆に同じ筋トレでも人によっては似ても似つかないバラバラの名前で呼ばれていたりする。
方言によるバリエーションみたいな感じだろうか。もしくは、「名前はどうでも良いからトレーニング内容を覚えようぜ」 的な脳筋みたいなノリなのだろうか。
自分が言っている名称も正しいかどうかは自信ないしな、と秋水は心の中で苦笑いをしつつ、美寧の使っていたバーベルへと顔を向ける。
バーベルには、5㎏のプレートが左右に取り付けられていた。
ん? と秋水は軽く首を捻る。
美寧は今し方、種目を覚える、と発言した気がするのだが。
バーベルを見て、秋水は一瞬だけ疑問を覚えた。
「あ、そうだ先生。先生ってその筋トレ出来る?」
しかし、疑問自体をあれこれ考えるよりも早く、美寧がすぐに次の話題を投下してくる。
重量の設定は、究極的には人それぞれか。
秋水は感じた疑問をさらりと流し、バーベルから美寧の方へと顔を向け直す。
「その筋トレとは、バーベルベントオーバーロウのことでしょうか?」
「うん、それ。バーベルの、えっと、べんとおーばーろー? ってやつ」
「そうですね、ベントオーバーロウに関してですと、バーベルよりもダンベルの方を主に使っていますが、理屈としてはバーベルも出来るとは思います」
「おっと、先生はもしかしてダンベル派?」
「不毛な争いは止めましょう。どちらも素晴らしいじゃありませんか。ただ、私は体の厚みの関係で、バーベルでベントオーバーロウをすると、引き切ったときにバーベルがどうしても体に当たるのですよ。特に胸側に引く場合が顕著でして」
「あー、筋肉ムキムキすぎてバーベルが引っ掛かる的な?」
「そうですね。ですから、ダンベル派ではなく、ダンベルしか選択肢がないと言いますか」
「へー。巨乳の子は似合う服が少ない問題みたいな感じなんだ」
「コメントし辛いですね」
秋水の説明に納得したような声を上げる美寧であったが、逆に胸の話を引き合いに出され、秋水の方が何と返せば良いものかと困ってしまう。
と言うより、そんな問題があるとか初めて聞いた。何故だろう、着れる服が少ないという点では、凄く共感出来る問題じゃないか。
ガタイが良すぎるあまり、しっかりと伸びるタイプの服か、かなり大きいサイズの服しか着ることの出来ない秋水にとって、美寧が引き合いに出した問題は興味を引かれる話ではあるものの、それに食い付いてしまってはただの変態であるのも理解はしている。
うん、コメントし辛い。
秋水は少し遠い目をするが、その様子に気がつくことなく美寧が、ぱんっ、と両手を顔の前に合わせてきた。
用件はだいたい予想が付いている。
「じゃあ先生、今日もトレーニング教えて下さい! お願いします!」
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たまにダンベル派とバーベル派で意見が分かれることがありますが、細かい筋肉を狙うか大きな筋肉を狙うかで使い分けるので、どちらの派閥が良いよ、という不毛な争いは止めましょう。
ちなみに作者はキノコかタケノコかと言われたらタケノコ派です(不用意な燃料投下)
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