45『知らないことより怖いことはないんだぞー』


「ぷんぷんだよ! サヨチはいくら何でもビビり過ぎ! 棟区くんの顔は確かに馬鹿みたいに怖いけど!」


 混沌とした教室の状況で、紗綾音の言葉は良く響いた。

 しぃん、と、静まりかえっているせいもあるだろう。

 それでも、紗綾音の声は、良く通る。

 暴力騒ぎが起きる寸前といった戦々恐々とした雰囲気に全く飲まれることもなく、唇を尖らせながら、それでもガチめではなく、あくまで軽口のような調子で紗綾音は竜泉寺を軽く叱りつけていた。

 泣いて秋水を止めに入った勇気ある竜泉寺は、逆に叱られたことにぽかんと口を開けて固まっている。

 暴漢者役になってしまっている秋水も、ぷんぷん、とか口で言う奴を秋水は初めて見て固まっている。いやさ、幼稚園児くらいの子供が言うなら可愛いかもしれんがさ。


「声も怖いけど。聞いてるとお腹の奥らへんが、うっ、って感じになる声してるけど。体もおっきいから近づくと怖いけど」


「いや、ちょ……紗綾音……」


「てか棟区くん、どうやったらそんな全身悪人要素満点になるのかな。恐怖デバフ撒き散らすスタイルなのかな」


「いや紗綾音!?」


 何もフォローになっていないナチュラル無礼な発言がぽんぽんと飛び出してくる。普通に傷つく。

 必死になって庇ってくれていた竜泉寺の表情を1度落ち着いて見て欲しい。顔面蒼白で可哀想な感じじゃないか。

 それに周りの様子もよく見て欲しい。終わった、逃げよう、コイツ暴れ出したら誰も止められんねぇよ、とクラスメイトが揃いも揃って絶望的な表情になっているじゃないか。

 そんな地獄みたいな空気の中でも、紗綾音はけろっとしている。おデブちゃんネタはやめろと言っているが、お前の神経の図太さは何なのか。

 竜泉寺に腕を捉えられ、衆人環視に晒されて、別に暴れるつもりもキレ散らかすつもりもないのだが、言葉の刃を無遠慮に突き刺してくるこの子犬をどうしたものかと秋水は軽く唸った。

 その小さな唸り声に、再び竜泉寺がビクリと震えたのが、抱きつかれている腕を通してダイレクトに伝わってくる。

 気不味い。

 と、対応を迷っている秋水よりも先に、口を開いたのは紗綾音の方だった。




「それでも私、棟区くんが誰かをボコボコのボコちゃんにしてるの見たことないよ!」




 真っ直ぐに秋水の方を見上げて口にした紗綾音の言葉は、妙に自信満々だ。

 いや確かに、誰かと殴り合いの喧嘩をした経験は秋水にはない。

 だがしかし、ここ半月以上、角の生えたウサギというジャッカロープもどきを何体もシバき倒して殺しているので、微妙な気分である。しかも1体相手なら一方的に殴り殺している場合がほとんどだ。

 なんだか渾身のフォローをしてくれているみたいだが、逆に申し訳ない感じがしてきてしまう。


「だからサヨチは手を離す。おっぱい当たってるじゃん」


「え? あ、わっ!!?」


 ぽんぽんと竜泉寺の肩を叩き、紗綾音が余計なことを吹き込んだせいで、真っ青だったその顔を一気に赤く染め上げながら竜泉寺はがばりと秋水の腕を解放してくれた。

 解放してくれたのは良いのだが、おい待て、誤解だ。


「む、むむ、棟区、あんた!」


「待って下さい。誤解です」


「ここは3階だよー」


「おーよしよし、チワワさん、ちょっとお口を閉めてもらっても宜しいでしょうか」


「イヤだわん」


 顔を赤くしながら睨み上げてくる竜泉寺に釈明しようと、秋水は両手を挙げて無罪アピールをするものの、笑うように紗綾音が茶々を入れてくる。うるせぇ。

 とりあえず紗綾音の頭をぐりぐりと撫でてみるが、黙らせるのは拒否された。


「私、棟区くんが暴力団の人と仲良しこよししてるとこ、見たことないよ。サヨチもないでしょ?」


「え? や、それはそうだけど……」


 ぷくっと頬を膨らませ、頭を撫でてくる秋水の腕をぺちりペちりと叩きつつ、紗綾音は竜泉寺への注意を続行し始めた。

 胸元を押さえるようにして秋水を睨んでいた竜泉寺は、再び言葉の矛先が自分に向いてきたことに驚いて紗綾音の方へと振り向く。

 いや距離が近い。

 元より秋水が紗綾音の頭を撫でられるくらいの距離で、そこに竜泉寺が割って入ってきた状況だったので、3人の距離はかなり近い状況だ。

 とりあえずは離れて欲しい。

 が、紗綾音の頭に秋水の手があるせいで、距離が取れない。しかも手を離すタイミングを逃した。

 なんだこの状況。


「怪しいおクスリ売ってるのだって、見たことないよ。サヨチは?」


「あ、それは、ないけど……」


 ついぞこの前も自分の叔母から麻薬ヤってんじゃないかと疑われたことを思い出し、思わず秋水は遠い目になった。

 いや、自分がそういう風貌なのは理解しているけれども。


「じゃあ、誰かを脅してるとか、喧嘩してるとか、お巡りさんにお世話になってるとか、見たことある?」


「そ、それも、まあ……」


「ないよね?」


「う、ないです」


 軽く詰められるように紗綾音に問われ、しゅん、と竜泉寺は肩を落とした。

 警察には何度も職務質問されているなと思い出し、しゅん、と秋水も肩を落とした。フォローしてくれているのだろうか、背後から刺しに来ているのだろうか。

 紗綾音が言っている内容は、まあ、どれも秋水が聞いたことがある内容だ。


 陰口で良く叩かれている、鉄板のデマである。


 自分がそういう風貌なのは、理解している。

 だから、そういう噂話をされているのも、納得できるし、知っている。

 と言うか、実際に陰口を聞いたことがある。

 目立たない場所で、独りぼっちで食事をしていると、入れたくない話が耳に入ることだって、あるのだ。

 2人揃ってしゅんとしていると、軽い溜息交じりに紗綾音は続けてきた。




「クラスの皆も、見たこと自体は、ないんだよ」




 そして、周りを見渡すことなく、クラスメイトの様子を窺うことなく、はっきりとした口調で紗綾音はそう断ずる。

 腰に手を当てて、胸を反らして、自信満々に。


 秋水の噂話を、ばっさりと切り捨てた。


 ……いや、職務質問されている姿くらいは、見られてるんじゃないかなぁ。

 そんなツッコミはきっと野暮なのだろう。秋水はぐっと出かかった言葉を飲み込んだ。


「棟区くんは見た目ヤバいけど、お話ししてみたら全然大人しいもん。むしろなんか大人だもん」


 大人ではない。ここに居るクラスメイトと同じく子供である。そのツッコミも野暮だろう。

 ああ、いや。

 照れてるな。

 これは、照れてるな、自分。

 クラスの女子にフォローされて、照れているんだな、自分。

 自分を子供だと認識しているわりに、秋水は自分の心情をしっかりと自己分析できていた。ツッコミが頭にぽんぽんと浮かんでくるのは、照れ隠しみたいなものなのだろう。こそばゆい。

 でも、見た目ヤバい、という表現は普通に傷つく。


「でも紗綾音、あんた、さっき殴られそうだったし……」


「これ頭撫でられてるだけだよ。しかも良く見てよ、絶対犬とか相手の撫で方だよねコレ」


「ちわね……」


「最近ワンちゃん扱いに違和感なくなってきちゃったわん! わたしの性癖ねじ曲がったらどう責任取ってくれるのかな!?」


 竜泉寺から視線を移し、じとっとした感じで秋水を睨んできた紗綾音の顔には、チワワ扱い最初に始めたのお前だよなぁ、と書かれているようだった。

 いや、周りがチワワ扱いをすんなり受け入れたと言うことは、程度に差はあれど友達連中は紗綾音に対して小型犬みたいなイメージを持っていたのではなかろうか。と言ったところで言い訳にしか聞こえない。

 苦し紛れに秋水はもう一度紗綾音の頭をぐりぐりと撫で、それからゆっくりと手を離す。すっかり見失っていたタイミングがようやく掴めた。


「棟区くんはさ」


「はい。次は私が説教を頂く番でしょうか」


「や、そうじゃないけど」


 そして続いて矛先が秋水の方へと向いてきたっぽいので、姿勢を正して聞く体勢に入ると、軍隊みたいじゃん、と紗綾音が苦笑する。


「棟区くんはさ、いっつも、すっごい皆に気を遣ってるよね」


「そうなのですか?」


「私に聞いてどーすんだよー。立ったり座ったりするときとか、いつもゆっくりじゃん。ドア開けるときもゆっくりじゃん。足音も小さくしてさ。言葉遣いだって丁寧さんだし、挨拶は欠かさないし。皆がビビっちゃわないように、すっごい気を遣ってくれてるよね」


「お褒めに頂いているようで、ありがとうございます」


「棟区くんは、皆からイヤだなーって思われるよりも、皆がイやーな感じになっちゃうのが、イヤなんだよね?」


 そうですね、という返事は飲み込んだ。

 そうか。紗綾音の目には、自分はそう映っているのか。納得出来るような納得出来ないような感じだ。

 実際のところは、そんなに気を遣ってなど、いない。

 むしろ、当然のことをしているだけである。

 なにせ、顔が怖い、声が怖い、ガタイが怖い、そんなその場にいるだけで雰囲気が悪くなる風貌なのは、自分自身でちゃんと認識しているのだ。


 居るだけで自分は悪いのだ。


 居るだけで自分は怖いのだ。


 なら、少しでも威圧感を和らげようとするのは、秋水にとって当然のことである。


 紗綾音が評価した、ゆっくり動く、というのは周りを驚かせないためである。

 勢い良くドアを開いたら、誰でもビビるだろう。まして開いたドアから自分が出てきて悲鳴を上げられたら、ただただ申し訳ないだけである。

 早足でドスドス歩けば、威圧感が半端じゃないだろう。まして足音に振り向いて自分のような奴がいて泣かれたら、ただただ申し訳ないだけである。

 そして自分のような奴が乱暴な言葉遣いをしたら、それはもう本物のマフィアである。

 ああ、なるほど。

 なるほど確かに。

 そう考えてみれば、確かに。

 紗綾音の言う通り、周りを嫌な気分にさせるのは、秋水の望むところではない。


「でもすっごい見た目怖いから、皆ビビッちゃんだよね、怖がっちゃうんだよね」


「私はあと何回くらい怖いと言われるのですかね」


「あ、ごめん、やっぱり怖いって言われるのはヤだ?」


「渡巻さんが、おいデブ、と呼ばれたらどう感じますか?」


「なんだとコノヤロー! でもごめん! 私すっごい言い過ぎてるね! めっちゃゴメンなさい!」


「はい、謝罪を承りました」


「あとね、去年までずっと怖がっててゴメンね! 私が棟区くんの立場だったら、すっごい悲しくて、とっくに泣いてたよ!」


 謝る気があるのかないのか、両手をぱっと上に開きながら冗談めかして紗綾音が謝ってくる。

 その言葉に、あ、と竜泉寺が漏らした。

 周りでハラハラと成り行きを見守っていたクラスメイトの何人かも、あ、と呟いたのが、なんだかいやに良く聞こえた。


 棟区くん、ずっと泣きそうだもん。


 状況分からないクソバカ扱いされてすぐ、紗綾音はそう言い返していた。

 あれは、秋水の心情を察していたわけではない。

 紗綾音自身が秋水と同じ扱いをされたら、と自分事として考えていたからの台詞だったんだろう。

 いや別に、そんな泣きたくなるような立場にいるつもりは秋水はないのだが。

 自分が怖いのは本当のことで、怖がられるのはどうしようもないことで、学校でコソコソしているのは当然のことで、陰口を叩かれるのはいつものことで。

 泣きたくなるような立ち位置では、ないだろう。うん。

 もしかしなくても、紗綾音からは過剰に哀れみを持たれているのではないかと、秋水は微妙なモヤモヤを抱えるが、それを知ることのない紗綾音は小さく、ふっ、と笑う。




「だから棟区くん、いっしょにごはん食べよーよ!」




「いやです」




「えー!? なんでー!?」


 そして唐突なる提案を、秋水は即決で断った。

 食べるわけないだろ馬鹿犬が。

 目を白黒させる程に驚いている紗綾音に、ふっ、とお返しのように秋水は小さく笑い返した。


「お喋りしよーよー! 私、棟区くんのこと知りたいなー! 知らないことより怖いことなんてないんだぞー!」


「それは身に余るお誘いですね。ありがとうございます」


「じゃあ、一緒にお昼ごはん!」


「いやです」


「断り方だけ右ストレートだこんにちわ!!」


 だんだん、と紗綾音は地団駄を踏んだ。

 リアル地団駄だ。やってる奴を初めて見た。幼児か。

 しかしながら、そんな駄々をこねられても、一緒に食べるのは断固お断りである。


「まず、竜泉寺さんの顔を見てあげて下さい」


「およ?」


「へ!?」


 急に名前を呼ばれ、びくっと竜泉寺の肩が跳ね上がった。

 素直と言うか何と言うか、気の抜けた声と共に紗綾音は竜泉寺の方へと顔を向けた。先程まで涙目だった友人の顔である。

 それを見て、紗綾音の動きがぴたりと制止した。

 ようやく気がついたようである。


「それから、皆さんの顔をよく見てあげて下さい」


 固まった紗綾音に続いて声を掛けるも、紗綾音は固まったまま動かない。

 いや、わざわざ周りの様子を確認する必要などないと言ったところか。


「あー……」


「そうですね、渡巻さんの言葉を借りるなら、皆さんが嫌な感じになるのが、私は嫌なのですよ」


「そー……そーだねぇ……」


 滅茶苦茶に歯切れが悪い紗綾音から、じわりと冷や汗が出てきているのは幻覚だろうか。本物かもしれない。

 そして、その冷や汗をかいている紗綾音は、クラスのほぼ全員が注目している。

 大丈夫なのか。喧嘩にならないか。こっちに飛び火しないか。ハラハラしているクラスメイトからは、そんな視線がどっすどっすと突き刺さっている。

 それはもう、視線の集中砲火である。

 一言で言って、地獄だ。




「この居た堪れない雰囲気、原因はどちら様でしょうかね?」




 言外には、こんな雰囲気でお前と飯が食えるかクソ犬が、という意味が込められている。


「ははは、あーっとね、うん…………ごめん皆、許して」


「紗綾音、正直空気死んでるからね」


 少々顔色を悪くしながらも、乾いた笑いと共に紗綾音は許しを請うものの、竜泉寺からばっさりと切り捨てられた。南無。

 それこそ捨てられた子犬のように、紗綾音は不安そうにようやくながら右を見て、左を見て、クラスメイトの雰囲気を確認した後に情けない顔を竜泉寺へと向ける。


「サヨチ助けて、私、暴走しちゃったみたいだよ」


「うん、でもその前にね、先生いるの知ってる?」


「ぶぇっ!? タケちゃんセンセ!?」


 それは乙女の上げて良い声なのか。

 竜泉寺の言葉に紗綾音が跳び退くように身を引きながら、教室の扉の方へと顔を向けた。良い反応速度である。

 その発言に秋水もついでに教室の扉の方へと目をやると、そこには疲れたような表情をした担任の教師が、それこそ疲れたように扉へともたれ掛かりながらこちらの様子を眺めている姿があった。

 そう言えば、先生呼んでくると出て行った奴がいたな、と今更ながらに思い出す。

 その担任の教師は自分に注目が集まってきたことに気がつくと、溜息とともにもたれ掛かっていた扉から体を離し、芝居掛かったように拍手をしてきた。




「いやー、良い演説だったなぁ渡巻」




 ニヤニヤしている担任の教師に、紗綾音がムンクの叫びのような表情になった。黙ってれば普通に美少女なのに。

 他人事のようにそれを見ながら、はて、どれくらい前から担任の教師はいたのだろうか、と秋水は首を捻った。随分前から居たようだが、それにしても助けに入ってくる様子はなかった。


「それでまあ、情報リテラシーしっかり屋さんの渡巻と、あと棟区、いっそのこと先生と一緒に飯食わないか?」


「ええっ、理不尽! そりゃないよタケちゃんセンセ!」


 別に理不尽ではないだろう。

 と言うか、お前も一緒に飯食おうとか言ってたよな。

 ならお前も理不尽ではないのか。

 わざとらしい担任の教師からのお誘いに嫌そうな顔をする紗綾音を見て、頭の中で3段式のツッコミが駆け巡るのだが、それをぐっと堪えて殺す。なんかもう、本当にこのチワワ、疲れる。


「お喋りしよーぜー渡巻。棟区はついでみたいで悪いな、退避も兼ねてで良いか?」


「はい、生徒指導室の方で宜しいですか?」


「ああ、すまんな。おい見ろ渡巻、大人の落ち着きってのはこういう感じなんだぞ」


「同学年! 同い年! クラスメイト! タケちゃんセンセの目は消費期限切れて腐っちゃってるのかな!?」


「はっはっは、タケちゃんはやめろな? コーヒーくらいならご馳走してやれるぞー」


「お砂糖とミルクいっぱい入れてね!!」


 紗綾音の方は引き摺られつつ、秋水の方は普通について行き、担任の教師が預かるという形でようやく元凶2人は教室から退室することとなった。

 重たい空気がようやく霧散したことにクラスの面々はほっと肩をなで下ろし、それを見ながら取り残された竜泉寺は遅れて悟った。


 あ、これ、後始末は私がやる感じ……?




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① 紗綾音から過剰に哀れみを受けているだけ。


② 自分が周りに過剰に気を遣っていることを、秋水自身が自覚できていないだけ。


 さて、どっちだ。

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