44『昼食時間を地獄に変えるチワワ』
確かに、渡巻 紗綾音はとてもとてもフレンドリーな人物である。
クラスメイトは勿論のこと、他のクラスの生徒にも平然と喋り掛け、しれっと会話に加わり、挙げ句の果てには教師と雑談をするために職員室へ行くような図太い神経をしている。分け隔てがないと言えば良いのだろうか。もしくは、物怖じしないと言うべきなのか。
どちらにせよ、他者に声を掛けるのに躊躇いがないタイプだ。
が、唯一、秋水は例外であった。
可能な限り近寄らない。
目を合わせない。
喋り掛けない。
まかり間違って、秋水が近くで目を合わせて声を掛けようものなら、それこそ雨に濡れた子犬かのようにぷるぷると震えて怯えていた。
まあ、気持ちは分かる。
自分みたいな奴とはお近づきになりたくないだろうし、目を合わせたくないだろうし、お喋りもしたくないだろう。分かる。それが一般的な女子として正常な反応だろう。
だから秋水も、紗綾音に自ら近づく気はなかったし、目を合わせる気もなかったし、話しかける気もなかった。それは別に紗綾音に対してだけではなく、どのクラスメイトに対しても、である。
ただただ単に、秋水にとっては紗綾音は同じクラスにいる普通の女子でしかない。
近づかない。
目を合わせない。
話しかけない。
怖がらせない。
他の女子の例に漏れず、紗綾音自身もそれを望んでいるであろうから、秋水はそうしてきたのだ。
きたの、だが。
「棟区くんってコンビニ飯なんだねー。前からそうだったっけ?」
「あげませんよ?」
「ちゃんと自分の分あるからいらないかなー」
「そうなのですね。時に渡巻さん、ダイエットは順調でしょうか?」
「一言もダイエットするなんて言ってないよね私!? いやしてるけど! おデブちゃんネタそろそろ止めてくんないかな!?」
「はいはい落ち着いてお座りぽよね! 早くドッグフード食べて散歩行くよ! 食事の最中にごめんなさいでしたっ!!」
「わたしのごはん、ついにワンちゃんの餌になっちゃったよ……」
昼休みが始まって、さあ今から昼飯にしようかというタイミング、何故か紗綾音が近寄ってきて、そして速やかに飼い主に回収されていった。
一体何なのか。
何故か知らないが始業式から毎日、紗綾音に絡まれるようになってしまった。
席が近いというわけでもないのに、わざわざ秋水の席まで寄って来て喋り掛けてくるのだ。
物怖じした様子はない。怯えている様子もない。他のクラスメイトに話しかけるかのようにフランクな感じである。
それはまあ、始業式の日から早々とそうだった。
だからそこは良い。感性と情緒が壊れている人間はどこにでもいるものだ。
だが、何で毎日のように絡まれるようになってしまったのだろう。
問題なのは頻度なのだ。
たまに話しかけられるくらいなら、それは別に構いはしないのだ。
だが毎日はちょっと。
何なら休み時間、半分くらいの確率でじゃれついてくる。
今のところは早い段階でチワワの飼い主、ではない、紗綾音の友人である竜泉寺という女子生徒が回収しに来てくれているので助かっているが、正直なところ、紗綾音相手の対応がだいぶ雑になってきてしまっている感がある。
これはいけない。
紗綾音自身のことはぶっちゃけどうでも良いのだが、雑な対応をすると他のクラスメイトが怖がってしまう可能性がある。
「あんたホント毎日ウザ絡みする気!? 棟区がいつブチ切れないか凄い心臓に悪いんだけど!?」
「え、わたし、ウザい子……?」
「向こうも段々イラっとしてる感じじゃん! 中学最後の最後で暴力事件とかヤだよ私!?」
「え、ねぇ、ウザい子否定してくんないのかな……?」
「可愛いなこの馬鹿犬!」
「わぁ、サヨチも可愛いよ♡ でもウザい子否定してくんなくて悲しみ♡」
毎度のように竜泉寺に引き摺られて退避させられた紗綾音は、いつもと変わらぬ脳天気そうな表情である。
しかしながら、周りの表情は硬いし青い。
紗綾音の次に会話をする機会が増えた竜泉寺だって、その表情は渋い。
あまり良くない兆候だ。
「ホントやめなよ紗綾音」
「怒らせちゃ駄目だよ。誰も止められんないよ」
「クラスの男子まとめて掛からせても制圧されるって」
「暴力事件どころか流血惨事になるよ」
「て言うか、後で裏でなんかされるかもだよ」
「怖い人に囲まれちゃうよ」
「刺激しないでそっとしとこうよ」
紗綾音の周りに集まってきた紗綾音の友達が、顔色の悪いままこそこそと忠告していく。
言っていることはぶっちゃけ秋水に対する悪口だが、その言葉自体は紗綾音を心配しているからこその言葉である。
それらに対して紗綾音は、んー、と小さく唸るだけでロクな返答をしない。
良くない兆候だ。
心配の言葉を掛けてくれている間は、まだ良いのだろうが。
こっそりと秋水は溜息を1つ吐き、昼食を入れた袋を持ってゆっくりと立ち上がる。
あまり周りを刺激しないようにおもむろな動作を心掛けて入るものの、状況が状況である、忠告という名の悪口を言っていた紗綾音の友達一同がびくりと震えて警戒してきたのが見なくても分かった。
出来ることなら、誰にも気付かれないようにこっそりと教室を抜け出したい。
ああ、平穏な学校生活はどこに行ってしまったのだろう。
「あ、棟区くもご」
「ちょっと紗綾音!」
「……むくー」
秋水が立ったことで顔を向けてきた紗綾音が名前を呼ぼうとしたものの、その口をぱしりと竜泉寺が塞いで止めた。ナイスである。
ここは竜泉寺が引き留めている間に、黙って教室を抜け出して、どこか独りで昼食が食えそうな場所を探しに行こうか。そんな考えが頭を過ぎる。
ぼっち飯はいつものことだ。
誰もこんな悪人面と一緒に飯を食いたくないだろう。
秋水だって、他人を不快な気持ちにさせてまで、誰かと食事はしたくない。
再び秋水の口から長くゆっくりとした溜息が逃げていく。
視線がチクチクする。針のムシロと言うやつか。
こっちに構うな。
近寄るな。
どっか行け。
早く出て行け。
視線が物語る無言のそれは、秋水とて同意見だ。
校舎端の、階段の踊り場。1月だとだいぶ寒いのだが、今日もそこで食べるとするか。
そう考えながら、怯えているクラスメイトの方にすっと一礼し、秋水は教室を出ようとして。
「もご……ぷぃっ、棟区くん! いっしょに食べないかなっ!?」
いやもう、ホントにさぁ。
竜泉寺が塞いでいた手を除けて、明るい声で紗綾音が、しかもデカい声をかけてくる。
紗綾音の周りはギョッとして、ついでに秋水もギョッとする。
コイツ、本当に状況分かってないのだろうか。
具体的に言えば、自分の立ち位置のことが。
秋水自身は、どうでも良い。既にぶっちぎりでマイナスの評価なのだ。
だが、紗綾音の評価は、現状で、崖っぷちに近い。
始業式より10日程。
土日はともかく平日ではしょっちゅう秋水に話しかけていく。
普通に考えて、周りはドン引きだ。
秋水はいかにもガラが悪くて厳つい大男である。話しかけたら返事で拳が飛んでくるのが似合いそうである。裏で何しててもおかしくなさそうな奴である。
実際はともかく、傍から見れば、そういう評価だ。
それに絡んで行く紗綾音の心臓はどうなっているんだという感じだが、周りからすればいつ逆鱗に触れて暴力沙汰に発展するか分かったものではない。毎回毎回ヒヤヒヤしているだろう。
それでも、止めに入ってくれているうちは、まだ良い。
オイ馬鹿やめろ、と引き留めてくれる友達がいるうちは、まだ良い。
しかしながら、とばっちりを嫌うクラスメイトは、既に紗綾音と距離を取り始めているのも事実だ。
紗綾音の近くに居たら、いつ巻き込まれるか分かったものではない。
友達というだけで因縁つけられるかもしれない。
目を付けられるかもしれない。
それはまあ、自然な考えであろう。処世術だ。悪いことではない。
今のところは、まだ良い。
距離を取ったところで、紗綾音自身はガンガンと距離を詰めていくタイプなので、まだ明確に友達から避けられまくっている、という気不味い状況ではない。
今のところは。
だが、崖っぷちには変わりがないだろう。
いやもう、本当に、何やってんだこのチワワ。
「……あのですね、渡巻さん」
「あ、いやちょっと待って棟区! ちょっとタンマ! 待って下さい!」
溜息を堪えながらも紗綾音の方を向き、なるべく優しい声で話しかけようとはしたものの、目を白黒させながら割って入ってきたのは保護者の方だった。いつもご苦労様です。
再び紗綾音の口を手で押さえ、いや、押さえると言うよりも自分の後ろに無理矢理押し退けるようにして紗綾音を庇いに入った竜泉寺は、ついに怒らせてしまったのかと顔が真っ青だ。
ホント、仲良いな、君ら。
「ご、ごめんなさい! ホント、毎回、その!?」
周りの友達が一斉に退いている。
その中でも、紗綾音を庇い立てるように、むしろ背中に隠すように一歩前に出てくる竜泉寺は、勇気がある。余程紗綾音のことを好いているのだろう。毎回チワワ回収を先陣切って行ってくれて、秋水としては本当に助かっている。
その竜泉寺に庇われて 「はぇ?」 みたいな表情をしている紗綾音は横に置くとして、秋水はゆっくりとクラスメイトの様子を確認するように視線を一巡させる。
ものの見事に、ビビられている。
視線が合った瞬間に凄い勢いで逸らされるし、何なら見事なバックステップで跳び退く男子もいた。
怖がられている。
そして再び竜泉寺に視線を戻す。
滅茶苦茶、怯えられている。ぷるぷるしているし、何なら若干涙目であった。
いつも以上の反応だ。
針のムシロが刃のムシロに進化している状況に、秋水は何か思い当たったかのようにすっと自分の眉間を触れてみた。
ああ、シワが寄っている。
眉間にシワが寄っている。
しまった。
ミスった。
声は優しくしようと意識をしたが、逆に表情が表に出てきてしまっている。
元よりガラの悪い目つきが、さらに悪化している。
マズい。
かつて、妹から言われたことがある。
兄さんがちょっと困ったときの表情、めっちゃ不機嫌そうに見えるから笑える、と。
「あの、あの、紗綾音に悪気はないの! 頭が悪いだけなんです!」
見ているこっちが可哀想になるくらいに怯えてしまいながらも、それでも必死に紗綾音を庇い立てる竜泉寺に、「えぇ!?」 みたいな感じで紗綾音がショックを受けている。
どうしよう。その言い分に納得してしまった。
ではない、どうしよう、別にそこまで機嫌を損ねているわけではないのに、必要以上に怖がらせてしまって罪悪感が半端じゃない。
と言うより、まるで一触即発みたいな雰囲気にしてしまい、ウルトラ申し訳ない。
なるべくクラスの空気を悪くしないように心掛けていたのに、飼い主にまで頭が悪いと評されてしまったチワワのせいでこんなことに。
寄ってしまったシワを伸ばすように、秋水はぐりぐりと眉間を揉んでから、はぁ、と堪えられなかった溜息をつく。
その溜息に 「ひぃっ」 と竜泉寺が上げた悲鳴が、ぐさり、と胸を突いてきた。
何故だろう、角ウサギにぶっ刺されたときよりダメージが大きい。
「……あのですね、渡巻さん」
涙目の竜泉寺には申し訳ないが、彼女を無視してその後ろにいる紗綾音に話しかけた。
なるべく優しい声を意識して。
なるべく表情を出さないように意識して。
返事をしたいのだろうか、紗綾音はぺちぺちと自分の口を塞いでいる竜泉寺の手をタップするのだが、竜泉寺の方がそれどころではない。むしろ余計に強く口を塞がれ、もぎゅ、と変な鳴き声が上がった。
その紗綾音の方へと一歩前に出る。
ざっ、とクラスメイトが跳び退いた。
逃げることは出来ない竜泉寺は、真っ青な顔でガクガクと震えて、なんだか可哀想としか言えない。
そんな震える竜泉寺の振動を直に受け、あぶぶぶぶ、とチワワの方から独特な鳴き声が上がった。
その鳴き声の方へとさらに近寄る。
「あ、の……」
そして、竜泉寺と紗綾音の前に立てば、30㎝以上は離れている身長差から、彼女たちは秋水を見上げる格好になってしまう。
竜泉寺の方は、この世の終わり化のような絶望的な表情で。
紗綾音の方は、息が苦しい、顔が潰れる、助けて、みたいな表情で。
他のクラスメイトは誰も助けに入らない。何なら1人、先生呼んでくる、とか恐怖の言葉を捨て吐いて、逃げるように教室から飛び出して行った。待て、教師を呼んだら余計カオスな状況になるだろ。
困ったな、と思いながら、秋水は真っ直ぐ紗綾音を見て、話しかけようと口を開きかける。
と、ついでに、紗綾音の方へと手が伸びた。
無意識である。
威嚇している妹を宥めるようなノリで、頭を撫でようと手が伸びた。
声と表情に気を配っていた分、行動の方が普通に出てきてしまった。
あ、ヤベ。
「っ!? 待ってっ!!」
そしてやはり、その動きに真っ先に反応したのは竜泉寺である。
紗綾音へと向けられた手を、がばりっ、と抱きつくかのようにして勢い良く止めに入ってくる。勢いが良すぎて押さえられていた顔を弾かれる羽目になった紗綾音が、あぶっ、と鳴いた。
どうしよう、状況が悪化した。
まるで今から掴みかかろうとしてくる暴漢を、必死で友達が食い止めようとしている図だ。
あまりに絵面が悪い。
「ごめんなさいっ! 紗綾音の馬鹿には本当に言って聞かせます! だから暴力はっ! 女の子なんだから!」
「わたし今、サヨチに暴力振るわれちゃった感じなんですけどぉ!?」
「あんたバカ!! 状況分かんないの!? どこまでクソバカなの!?」
もはや泣きが入ってきている竜泉寺の懇願に秋水の方は困り果てるのだが、紗綾音のノリはまるで周囲の雰囲気など知ったことではないと言うかのようである。
押さえ付けられていた口の周りを擦りながら、いつものキレ芸みたいな感じで文句を垂れる紗綾音に、わりと真面目に竜泉寺がキレ返す。
なんだこの状況。
しかしながら、紗綾音は全く怯んでいない。
教室の空気はもはや地獄だ。ヤクザがキレ散らかす数秒前、時限爆弾が爆発する直前の一触即発な雰囲気である。
それなのに紗綾音は変わらず、ぽやっとした感じで、それでもちょっと唇を尖らせた。
「そんくらい分かるよ。棟区くん、ずっと泣きそうだもんっ!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
:渡巻 紗綾音:
正直ウザい子。
学力は友達に泣きついて教えてもらいつつ、なんとか中の中をキープできるくらい。
運動神経は割と良いが、ガチ勢に比べると流石に劣るので中の上くらい。
他者に対して容赦なく距離を詰めていくスタイルではあるものの、男子に対しては苗字呼びを徹底している程度にはちゃんと一線を引いている、つもりでいる。
他人だろうとフレンドリーに接するのは、警戒心がない馬鹿だから、という以外に、他者の心情を汲み取る能力に長けているから、という理由もある。
だが、正直ウザい子。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます