20『棟区 鎬(むねまち しのぎ)』

 扉を開ければ異国情緒漂う店内に、もはや国民食で異国感も何もない香りが漂う。

 見慣れた内観、知った顔の店員、嗅ぎ慣れた香り、馴染みのあるBGM。

 「いつものカレー屋」 と指定された瞬間に、ああ、あの店ね、と迷いなく通じるあたり、どれだけ自分は呼び出されているのだとげんなりする。


「いらっしゃいませ」


 出迎えてくれた店員は日本人男性。

 インドカレーの店で日本人が接客すると、安心する人とコレジャナイ感を味わう人とに分かれるだろうが、どちらかと言えば秋水はコレジャナイ感を覚えるタイプである。外国料理の店は地域の人が慣れない日本語を片言で喋ってくれると、本場っぽい、と思ってしまう単純な感性なのだ。このインドカレー屋の厨房スタッフが全員ネパール出身なのは知っているが。

 それに、差別的な発言になるのだが、東洋人の顔立ちから離れた人種の方々の方が、秋水の悪人面にビビらないでくれる、という理由もある。

 実際に出迎えてくれた男性店員の目尻がちょっとぴくついている。申し訳ない。

 そこまで広くない店内を見渡すと、昼飯時なので積が8割9割は埋まっている。そこに待ち合わせの相手が居るかどうかを確認して。


 居るなぁ。


 小さく手を振っている見慣れた女性が居るなぁ。

 すでにサラダ食ってるなぁ。

 早いなぁ。

 軽く嘆息してから、先にもう1人入って来ているのですが、と店員に伝えると、その席まですぐに案内してくれた。


「どうも、あけましておめでとう、秋水」


 椅子を引いてそこに座れば、向かいの女性はにこやかに挨拶をしてくれる。

 その笑顔に背筋の毛穴が開くのを感じるのは何故だろう。


「あい、あけおめにこんにちは、鎬姉さん」


 背負っていたリュックを隣の席に下ろしながら、秋水は半眼でその女性を一瞥してから気怠げに返事をしておく。

 席に案内してくれた店員は秋水の分の水をテーブルにことりと置いて、軽く一礼してからカウンターへ下がっていく。

 それから間髪入れることなく秋水の目の前にすっと小さいサラダが差し出された。

 目の前の女性からだ。

 いつの間にかにこやかな笑顔は消えていて、真顔であった。

 こっちの方が見慣れた表情である。


「チーズナンセットで良かったわね?」


「ああ、うん、ありがとう。今日の日替わりカレーなによ?」


「長芋とチキンだそうよ」


「ながいも……攻めるなぁ」


「7辛で良かったわね?」


「いや良かねぇよ。メニュー見たことあんのかよ、記載は5辛までだぞ、何で裏メニュー的な辛さ人に食わせようとしてんだカプサイシンが脳味噌に蓄積してんのかオイ、いただきます」


 ちまちまとサラダを食べながら真顔で当然のように間違ったことを聞いてくる女性に、秋水は半眼でツッコミを入れながらサラダを手に取ってカトラリーボックスからフォークを取り出す。

 いただきます、と一礼した後、秋水もサラダをもごもごと食べ始める。

 相変わらずサラダが美味しい。と言うよりも、ドレッシングが美味しい。

 インドカレー屋のサラダドレッシングは何処も似たような色をしていて区別がつきにくいのだが、ここのカレー屋のサラダのは別格に美味しく感じる。慣れの問題なのかもしれないが。

 秋水が一口目を味わっていると、女性の方はサラダを食べ終わり、皿の上にフォークをかちゃりと置く。


「冗談よ」


「本当に冗談だよな? マイケルとかトーセンとか言わないよな? 俺2辛で良いんだからな? フリじゃないからな?」


「いやね、新年の挨拶みたいなものじゃない。あまり引っ張られても困るのよ。ねちねちした男は嫌われるわよ、ただでさえ秋水はその辺り絶望的なんだから、彼女の2人や3人欲しかったらこれくらいのジョークは軽く受け流せないと駄目よ」


「何で今度は俺が責められる番なの? それに彼女が2人も3人もいたら浮気糞野郎だからな? え、まさか鎬姉さんもうお酒飲んでるとかないよね? だったら俺今すぐ帰るけど」


「失礼ね、今年に入ってからアルコールは一滴も飲んでないわよ」


「ああ、そりゃ良かった」


「ま、今日は飲む予定だけど」


「帰るわ」


「今からじゃないわ」


 人相の悪い秋水の睨みにも全く動じることなく、その女性は表情を一切変えずに軽口のスマッシュを叩き込んでくる。

 びしっとスーツを身に纏い、真顔で秋水を真っ直ぐ見つめているそのガワだけ見れば、仕事のできる冷徹キャリアウーマンに見える。

 そして実際、仕事のできる冷徹キャリアウーマンだ。

 しかも美人である。

 腰まで伸ばした黒髪は、それだけ見れば小動物のようなややもこっとした印象を受けるものの、その顔が攻撃性の高いクール系のせいで小動物感が一切漂わない。

 身長が180を越してしまっている秋水を基準にすれば話は別だが、170程のその背丈は女性としては高い方であり、体つきもメリハリが効いて、と言うかやや効き過ぎた非常に女性らしいスタイルをしている。


 そんな美人が秋水の叔母、棟区 鎬(むねまち しのぎ)であった。


 年齢は23で、今年で24になる。

 秋水とは8歳差の年上ではあるが、鎬に対して秋水は敬語で接するつもりが毛頭無い。フランクにタメ語で付き合えるという、ある意味貴重な存在ではあるが、じゃあ会いたいかと言われたら会いたくない。

 秋水は、鎬が苦手なのである。

 そんな鎬と軽口の殴り合いをしていると、店員がカレーを運んできてくれた。

 ちらりと見たらチーズナンが見える。鎬が先に注文してくれていた秋水の分が先に来たようだ。店員から声を掛けられる前に秋水はサラダの皿を持ち上げて残りを一気に掻き込んで皿を退かす。


「おまたせしました、チーズナンと、日替わりカレーの4辛です」


 そう言って店員は慣れた手付きでナンとカレーをテーブルに置き、一礼してから戻っていく。

 うん、美味しそうである。

 相変わらず美味しそうであるし、実際に美味しいのであろう。

 それは分かるし知っているのだが、秋水はじろりと鎬を睨んだ。


「鎬姉さん、辛さ間違ってるんだわ。4辛じゃないんだわ、2辛なんだわ俺」


「人生にはスパイスが必要よ」


「そのスパイスが多いっつってんの。カエンペッパーに偏った人生のスパイス配分に問題があるつってんの」


「あまりイライラしちゃ駄目よ。カレーでも食べて落ち着きなさい」


「今はそのカレーのせいで荒ぶってるのが分からないかなぁ」


「アラブじゃないわ、インドのカレーよ」


「鎬姉さん仕事のし過ぎで頭おかしくなっちゃったの? その若さでアルコールが肝臓通り越して脳細胞で暴れ回っちゃったの?」


「大丈夫よ、4辛くらい普通に食べれるわよ」


「ちなみに鎬姉さんはどの辛さ選んだ?」


「8辛」


「はい出たー、檄辛食える人間の他人に辛いの大丈夫とか言う無責任発言ー」


「他人じゃないわ」


 すぱっと言い切った最後の言葉に、秋水は一瞬だけ言葉に詰まった。

 まあ、確かに。

 鎬は叔母で、確かに他人ではない。

 それに。




「他人じゃないでしょ、今は」




 表情は変えず、真顔のまま、鎬はそう言い切ってからサラダの入っていた皿を退かした。

 再び店員が料理を持って来たのだ。


「おまたせしました、プレーンナンと、日替わりカレーの9辛です」


「ありがとうございます」


 店員にはにこりと笑顔を向け、鎬は朗らかにお礼を口にする。

 そしてテーブルにナンとカレーを置いてから店員が下がると、再び鎬は真顔に戻る。

 いや女の変わり身って怖い。


「8辛じゃないじゃん」


「てへ」


「いや可愛くないから。真顔でやられると怖いから。てかキツいから。自分の年齢もうちょっと考えてよ鎬おばさん」


「次おばさんつったら目玉くり抜いてデスソース流し込むぞこのハゲ」


「ハゲじゃねぇよ丸刈りだよ目玉くり抜く前に自分の洗浄してこいよコラ」


 すわ殴り合いの喧嘩になる手前のような雰囲気になったが、カレーの香りはそれ以上に暴力的であり、とりあえず2人は黙っていただきますと手を合わせることにした。

 相も変わらずにカレーが美味い。

 アホみたいに辛くされてしまってはいるが、それでも旨味がしっかり分かるのが凄い。

 そしてナンも美味しい。チーズナンのチーズもたっぷりと入れられており、それなりにしっかり食べられる人じゃないとまず残す質量である。大満足な乳製品量、つまりタンパク質量だ。


「うひー、4辛はやっぱ辛いー。キツぅー。汗がめっちゃ出てくるんだけど」


「本当よね、汗が止まらないわ」


「いやそっちは9辛……いや鎬姉さん汗出とらんやないか」


「私、胸から下に結構汗かくのよ。スーツの中が大変なのよこれ」


「へぇ、そんな汗のかき方あるんだなぁ。上はいっそ脱いだ方が良くない? 外出たら体冷やして風邪ひくぞ」


「あら、下半身が濡れると言わせた次に服を脱げとか、流石にセクハラの度が過ぎるわよ」


「やめような鎬姉さん、健全な青少年に下ネタぶち込むのは本当にやめような前科一犯」


「一犯で済んでたかしら……」


「おい警察に自首すんなら今のうちだぞコラ」


「食べ終わったら考えるわね」


 汗を噴き出しながら食べる秀水とは対照的に、鎬は涼しい顔でカレーを食べていく。

 一応汗はかいているとのことだが、それにしたって9辛とか意味の分からない辛さを平然と食べることができるとか、どんな耐性を持っているのだろうか。秋水が真似をしようものなら、舌と喉が焼けて胃がボロボロになる未来しか想像できない。

 互いに軽口を叩き合いながらカレーを食べ、半分を過ぎたくらいだろうか、ふと鎬が顔を上げた。


「そうだわ秋水、今日呼んだのは秋水に渡さないといけない書類があるのよ」


「え、今言う? 食べ終わってからで良くない? てか今渡すなよ? 俺の手今ナンでべたべたなんだから」


「大丈夫よ、クリアファイルに入れてるから」


「そのクリアファイルがべたべたになるんだわ。俺この後普通に用事あるからな?」


「秋水、なんで用事前にカレー食べてるのよ。その用事とやらがデートだったら致命的よ? そんな作業着みたいな服装でカレー臭がするとか最悪よ? 大丈夫?」


「カレー臭って言い方止めい、と言うかデートじゃないし、その前に店指定したのもカレー注文したのも鎬姉さんなの覚えているかどうか聞きたいところだし、そもそも俺に選択権なかったこと思い出して欲しいなぁ」


「そう、デートじゃないの……寂しい青春をおくる弟を見てお姉ちゃん涙が出てくるわ」


「乾いてるんよ。鎬姉さん目ぇ乾いてるんよ。あと弟じゃなくて甥ね俺」


「おいおい甥、人を勝手にドライアイ扱いするんじゃないわよ」


「うん、俺達の関係もドライになりそうなのそろそろ理解してくんないかなぁ」


「で、彼女くらいいないの?」


「何で急に外角低めに会話の球投げてくんだよ。アウトローってそういう意味じゃねぇぞ。いないよ」


「そう、いないの……いたことないの間違いよね?」


「何で急にトゲつき鉄球みたいな会話の球投げてくんだよ。デッドボールとデスボールの区別つけろよ。いたことねぇよ」


 最後のカレーをすくって食べ、鎬の方もほとんど同じタイミングで食べ終わる。

 おしぼりで手を拭いた後、紙ナプキンで顔に吹き出ている汗を拭いてみると自分でも引く程べたべたになった。このまま外に出たら汗が冷えて風邪引きそうだな、と考えていると、すっ、と秋水の前にクリアファイルが差し出された。鎬からである。

 ああ、書類ね。

 黙ってクリアファイルを受け取って、何の書類からとぱらりと中身を確認してみると、秋水からは見慣れない結局何だか良く分からない書類達であった。


「別に今すぐ使ったり提出したりする物はないわ。とりあえず大事にしまっておきなさい」


 そうなのか。

 ふーん、と秋水は鼻を鳴らしてからそれらの書類にざっと目を通す。

 なるほど、お役所的な書類である。

 カード1枚でコンビニで印刷できるご時世、別に必要ないと言えば必要ないタイプの書類だ。色々変更されました、という確認の意味でしかない。

 まあ、持ってて困るものでもないしな。そう考えてそれらの書類をクリアファイルに戻そうとすると、追加でもう1冊クリアファイルが差し出された。


「で、こっちは私の戸籍謄本」


 水を飲みながら、しれっと鎬はそう口にする。


「は? 戸籍?」


「そう、戸籍謄本。ああ、違うわ、間違えたわ」


「だよね、戸籍謄本じゃないよな。ここでしれっと渡されても何でやねんなって話にしかならないもんな」


「今は戸籍全部事項証明書って言うのよね」


「正式名称の話をしてるんじゃないんだわ。何でそんなもん渡されるんだって話で、いやちょっと待ってマジで戸籍謄本なのこれ?」


「戸籍全部事項証明書よ」


「そうじゃねぇのよ」


 律儀に鎬へツッコミを入れてから、秋水は渡されたクリアファイルを手に取って中身を改める。

 とは言えども、自分の戸籍すらまともな書類で見たことのない秋水にとってはそれが本物なのかどうか見分ける術はないのだが、ざっとその紙に目を通してみれば、うん、なるほど。

 本籍。

 氏名。

 生年月日。

 親族。

 出生事項。

 婚姻事項。

 たぶんこれ、本物だよな。

 渡されたそれからちらりと顔を上げると、真顔のままの鎬。冗談なのかどうかも判断つかない。と言うか、戸籍謄本渡されてもドッキリにならない。


「……えっと」


「見ての通り未婚よ」


「知ってるよ。これで結婚してたら知らなかったことに逆にビックリするわ」


 反応に困ったところで、棟区 鎬は平常運転だった。



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 他人に対してはツッコミたいのを堪えることが多いけど、堪えない場合、主人公の喋り方は基本的にこんな感じ。


 長くなったので分割。

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