第22話【第四章】

【第四章】


「……ん、うぅ……」


 真っ黒い空気に取り巻かれながら、僕は仰向けに寝そべっていた。何故周囲が暗いと分かったか? いや、実際は瞼を閉じていたので、空間の暗さ、空気の黒さなど分かるはずがないのだが。

 感覚的なものだとしか言いようがないのが苦しいところ。強いて言えば、軽い振動が頭から足先に伝わってくるのは辛うじて分かる。そうか、今僕は担架に乗せられ、運ばれているのだ。

 

 耳を澄ましてみると、付近にはそれなりに多くの人がいるようだ。

 にしても薬品臭いな。ここは病院、または救護所なのだろう。


 僕は一生の中で、気絶というものを経験したことがない。ということは、これが記念すべき最初の気絶、ということになる。

 ああ、これが気絶している人間にできる精一杯の情報収集なのだな。全身の感覚器官が、これ以上の散策を拒否している。


 ここはまだ麻酔が効いている振りをして(実際まだ四肢は動かないようだし)、運ばれるがままになることにする。でもこの担架、もう少し寝心地がよくならないのか?


 ところで。

 もし僕がここで起き上がったら、皆はどんな反応をするだろう。

 くだらない『もし』の使い方。だがそれ以上のこととなると、急に恐ろしく思えてくる。

 これは勘だが、きっとまた注射を仕掛けられるだろう。場合によっては、それが過剰使用ということになるかもしれない。どんな障害が残るか分かったものではないのだ。


 仕方ない。大人しくしていよう。

 皆は無事だろうか? せめて声を聞かせてもらいたいが……。ううむ、皆、眠っているか気絶中の振りをするか、どちらかの選択を済ませたようだな。

 いずれにしても、互いに連絡し合えなければ手の打ちようなどないのだけれど。


 僕はごくり、と唾を飲んだ。その時だ。


「ん……?」


 聞き覚えのある声がする。それもここ最近、というか先ほど?


「まったく、この小僧たちには苦労させられましたな」

「君の言う通りだ。ようやく中間管理職としての苦労を理解してくれたかね、副署長?」

「いやいや! わたくしなどあなた様には及びませんよ、署長殿!」


 こいつら、瑞樹や岩浅から報告を受けていたやつらじゃないか! 何しに来やがったんだ?


「そうそう、副署長である君の前だからこそ言うが」

「ええ」

「もう少しこの街の若者には統率というものが必要だと思うのだが、どうかね?」

「おお! 署長殿はこれでもまだ押しが弱いと仰せになられるので?」

「その通りだ。青少年で犯罪をやらかす連中に対しては、常に牽制のポーズを示しておく必要がある」

「畏まりました! 窓口として少年課の改正は可能かどうか、会議を開きましょう。至急、有識者立会いの下、ディスカッションの準備にかかります!」


 ここで会話は切れた。きっと、署長が頷くか何かしたのだろう。

 これだけ切り取ってみると、本当にアホな会話、茶番だ。しかしながら、全く以て不快である。こっちが手を出せないうちに好き放題言いやがって……!


 僕は音が鳴らないように気をつけながら、奥歯を噛み締めた。


         ※


 担架が下ろされ、軽い衝撃が背中にぶつかる。

 もういいか、目覚めても。薄っすらと瞼を開けてみる。

 僕たちが降ろされたのは、結構な広さのある牢屋だった。時代劇に出てくるような、格子の嵌った監獄。

 外向きの窓はあるものの、角度的に日光が入りづらくなっている。なんとも卑劣だ。

 手錠はそこで外された。この監獄に隔離してしまえば、僕たちが何をしようと悪あがきに過ぎない。そう言いたいのか。


 ひとまず、この監獄の中は安全だろう。薄ぼんやりしていた視界も、数度の瞬きですぐにはっきりとした輪郭を持ち始めた。

 この監獄の中にいるのは、僕が思った通りの面子だ。僕、摩耶、美耶、サワ兄。

 加えて監獄のすぐそばに、見張り番の警官が三名。

 僕以外の戦闘狂である三人が力を合わせれば、脱出できるだろうか?

 いや、厳しいな。屈強で近接戦の経験を経てきた警察官を相手に、楽観はできない。


「はあ……」


 軽くもたげた上半身から、自分でも驚くほど長い溜息が流れ出した。


「ちょい。柊也くん」

「どふわあっ!?」

「騒ぐな。ウチだ。澤村だ」

「あ、サワ兄……」


 あまり音は響かない。見張り番に声は聞かれるかもしれないが、会話の内容までは『神のみぞ知る』状態だろう。


「柊也くん、脱獄ゲームの始まりだぞ」

「な、何言ってんすか、サワ兄! 呑気なことを……!」

「それは聞き捨てならんな。ウチもここは使っとるわい」


 そう言って自分の側頭部を指さすサワ兄。


「何か細いものはないか? できるだけ先端が鋭利なもの」

「あるわけないでしょ。牢屋ですよ、ここ」


 流血沙汰は勘弁願いたいな。


「じゃあ、ずっと捕まったままなんですか、私たち……」


 不安げな美耶の声が重なる。僕は美耶に声をかけた。少しは不安を和らげてやりたかった。


「いや、ずっと牢屋の中ってことはないと思うよ」

「ん……。そう、ですか。そうですよね。ありがとうございます」


 何故美耶は僕に礼を述べたのか? よく分からないが、きっと悪いことではあるまい。


「美耶、ところで摩耶は?」

「向こうにいます」


 美耶の指さした方を見ると、摩耶は後頭部に手を遣って仰向けに横になっていた。ぐーすかぴーすか、寝息を立てている。

 あの心臓の強靭さは見習うべきだろうな。無事脱出できたらそうしよう。――できるのか、脱出?


 僕たち三人が腕を組み、唸り始めた時のこと。

 がたん、と重い音がして、廊下奥の鉄扉が開かれた。この拘留フロアに来客か?

 見張り番の一人がその場を離れ、鉄扉の方に大股で歩き出した。そちらはそちらで、積もる話があるのだろう。

 と、感慨に浸りそうになった、次の瞬間。


 ばごぉん! という明快な轟音と共に、鉄扉のある方から見張り番が吹っ飛んできた。

 本当に、アクション映画のスタントマンのように。

 ぐるんぐるんと回転しながら僕の視野を横切り、べたりっ! と頭から落っこちる。


「うわ、すげえ」


 と言ったのは、いつの間にか目を覚ました摩耶である。僕の思ったことを見事に言い当てた。

 

 ぽかんと眺めている僕たちの前で、それこそ映画みたいな激戦が繰り広げられた。

 視界の右奥から現れた、救世主と思しき人物。背丈は見張り番と変わりないが、随分華奢な印象を受ける。無駄な筋肉を付けず、身軽に動けるような鍛え方をしているようだ。

 まあ、どうせ見えないのだけれど。頭頂部から真っ直ぐに、黒いレインコートを被っているから。


 見張り番は、二人揃って警棒を構えた。

 しかし救世主は怯むことなく前進。自分の頭部に向かって振り下ろされた警棒を、しゃがみ込んで回避。

 立ち上がりながら僅かに跳ねて、そのまま中断の回し蹴りを相手の脇腹に喰らわせた。

 よろめいたところで、ストレートを鼻先に叩き込む。

 誰からともなく、おおっ、というざわめきが起こる。


 吹っ飛んだ相手をもう一人の見張り番が受けとめ、ゆっくりと床に寝かせる。

 その間に彼を攻撃しなかったあたり、救世主は随分と立派な人格者だな。

 

 三人目の見張り番は、立ち上がってすぐさま戦闘体勢を取った。取り落とした警棒は使わず、すっと腕を上げ、軽く足を開いて片方を踏み出す。空手に近い戦闘術だ。

 対する救世主。ボクシングの構え。相手の上半身を中心に据えた、攻撃性重視の体勢。


 二人の隙間から、ぴりぴりとした感覚が走る。見ているこちらが息を呑む。

 そのタイミングを見計らったように、二人はまったく同時に動き出した。


 瞬発力で距離を詰める救世主に、見張り番が牽制のローキックを放つ。

 拳と膝が軽く接触し、遠ざかる。

 と見せかけて、救世主が繰り出したのはもう片方の腕による鉄拳。それを、見張り番は最低限の動きで阻む。軌道の見えづらい打撃を見事に弾いた。


 そこから先は、互いに隙のない技の打ち合いだった。

 拳の裂いた空間を、突き出された腕が塗り替える。

 鋭利さを纏った爪先が、直前まで相手の顎のあった場所を叩き割る。

 凶器と化した四肢が、瞬間的な殺気を放って相手を滅さんとする。


 決着はあっさりしたものだった。

 互いに体力が削られてきた、二人の打ち合い。その数十度目。見張り番が僅かに体勢を崩した。重心が前のめりに移動する。

 救世主がそれを見過ごすわけがなかった。屈みこんで思いっきり腕を見張り番に見舞う。美しいまでのアッパーカットだった。

 念のためということだろう。ふらついている見張り番の直上に、救世主の強烈な踵落としが直撃。見張り番は完全に脱力しきり、廊下の床にキスをする羽目になった。


 救世主は余裕のある、しかし油断のない空気を纏わせながら、最初の見張り番の下へと近づいた。片膝を立てて屈み、首筋に手を当てる。

 軽く息をつく。それを二番目、三番目の見張り番に対しても行う。


 ……まさか、呼吸の有無を確かめていたのか? 死なせてしまった危険性を考慮して?

 僕は、自分の尾骶骨から頭蓋骨まで、冷や汗が伝っていくような感覚に囚われた。

 すると、救世主がぐるりとこちらに向き直った。表情は未だに窺えない。


「ひっ!」


 尻餅をついた僕を、コートを脱ぎ去った救世主がすっと見つめる。


「怪我はない、さっくん?」

「瑞樹せん、ぱい……?」

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