第21話


         ※


 それから数時間後、我が家のダイニングにて。

 現在のところ、弦さん以外でここにいるのは四人。僕、摩耶、美耶、そしてサワ兄だ。

 弦さんは、皆のグラスに炭酸葡萄ジュースを注いで回っている。祝杯のシャンパンに似ていると思ったらしい。

 まあ、月野姉妹は未成年だからな。ジュースで代用してくれたのだろう。


「ああ、ありがとうございます、弦次郎さん」

「どうぞご緊張なさらず。ここを我が家と思ってお使いくださいませ」

「は、はい……」


 どうやらサワ兄は、あまり丁寧に接されると恐縮してしまう性質らしい。

 それに対照的なのは、なんといっても摩耶だ。片手にジュースを、もう片方の手に照り焼きチキンを引っ掴み、どこぞの怪獣のようにガブガブやっている。


「おい摩耶、少しは落ち着いて食べろよ」

「ほげ?」

「ほら! 口の端のところ、汚れてるぞ。まったく……」

「むむむー!」


 僕が頬を拭いてやろうとすると、しかし、摩耶はそれを拒絶した。

 これ以上に下手なアクションを起こしても、自分の価値を下げるだけのような気がするのだが。


「摩耶、そんなに恥ずかしがることはないだろ? 今更……」

「ちょっ、今更、って何だよ! 今更って!」

「顔が赤いぞ。お前のチキンだけ唐辛子パウダーでもまぶしてあるんじゃないか?」

「ちっがーう! そうじゃなくて! 味じゃなくて! 気持ちの問題なんだよ!」

「気持ち……?」


 ああ、そうか。この数日、バタバタしている間に忘れてしまっていたが……。

 摩耶が僕に好意を抱いている、という助言? 忠告? を受けた気がするな。


 あの言葉が本当だとしたら、やっぱり気まずいな。僕はさっと顔を逸らし、葡萄ジュースをぐいっと煽った。僕まで顔が赤くなっていなければいいんだけれど。


「やっほう! ようやく面白くなってきたじゃないか! ええ?」

「どはっ!?」


 誰かが背後から、僕の首に腕を絡めてきた。一瞬窒息したものの、なんとか呼吸を整える。この声は――サワ兄か!


「サワ兄! 何するんですか! 僕を殺す気ですか!」

「うい~、そう畏まらなくてもいいじゃないか~。いざって時はウチが介錯してやんよ~」

「せんでええわ!」


 何故か関西弁で応じつつ、僕はやれやれとかぶりを振った。


「なあ、美耶」

「はい?」

「サワ兄って酒が入るといっつもこうなのか? さっきまで緊張気味だったけど……」

「そ、そうですね……」


 美耶はナプキンでそっと口元を拭った。やっぱり姉とは正反対。


「機会はあんまりないんですけど、いざお酒となると、随分弱かったという記憶があります。いわゆる『下戸』っていうものなんでしょうか」

「ああ、そうなんだ……」


 つまり葡萄ジュースの段階で既に酔っぱらってしまい、緊張から解き放たれてしまった、と。


「いい加減離れてくださいよ、サワ兄!」

「えー? そんなつれないこと言うなよー、お兄さん泣いちゃうぞ~?」


 ううむ、手の施しようがない。

 だが、今のサワ兄の言葉を聞いて、僕は自分の落ち着きが損なわれるのを自覚した。

 

 泣いてしまうのか。『お兄さん』が。

 言葉の一部が自分の心に滑り込んできた。

 春香だけではない。両親のことを思い出して泣きじゃくったことが、どれくらいあっただろう? 人前で泣くのは自身を制御できていない、弱者の行いなのだと胸に刻んでいるのに。


 僕は一旦トイレに行くと告げ、サワ兄を引き剥がして廊下を歩いた。

 自分の部屋の照明を点けて、棚の上に置かれた写真立てを見る。


「父さん、母さん、春香……」

 

 自分なりに思うところがあって、いろいろ頑張ってみた。だが、それは三人の『想像通りの僕』だっただろうか。

 立派に家族の一員として生活している。そう言える態度だっただろうか。


 ぎゅっと足の指が握りこまれ、カーペットの生地が奇妙な音を立てた。

 今ダイニングにいる皆を放っておくこともできない。僕はすぐに写真立てを元に戻し、ダイニングに向かおうとした。


 その時だった。甲高い悲鳴と怒号が散らばったのは。


         ※


「な、何事――うわあっ!」

「警察だ! 全員そこを動くな!」


 って、やっと片がついたと思ったら、また機動隊か。

 また? いや、そんな呑気なことを言ってる場合じゃない!

 

「動くな! 大人しくひざまづいて、腕を頭の上で組め!」


 巨大な怪物が僕たちを吞み込もうとしている――喩えるならそういう感じ。

 ドタドタという重苦しい騒音、ガタガタという硬質な衝突音、バリバリという甲高い破砕音。

 それらが巨大な渦を巻いて、僕たちを吸い込み、ぺしゃんこに捻り潰そうとしている。


「全員伏せろ! 伏せるんだ! 従えば危害は加えない!」

「令状だ! 裁判所から令状が出ているぞ!」

「大人しくしろ! 大人しく――いてっ! こら! 金属バットを振り回すな!」


 ああ、最後の機動隊員は摩耶にぶん殴られたのかな。


「よし、一旦君らを連行するからな! まだ若いんだから、年長者の顔を立てて素直にしていろ!」


 僕が返事をするか否かというところで、ぷしゅん、と軽い痛みが首筋に走った。腕を回して触れてみようと思ったが、その腕をぐいっと引き伸ばされる。


「下を向け! 顎を引くんだ!」


 僕は短い呻き声を上げて、背中から前に押し倒された。

 抗おうとしたが、その時には視界が真っ白に曇っていくところだった。

 そうか。首筋の痛みは、きっと何らかの薬剤を注射された時の反応だったのだ。


 ギリギリでその結論に至り、僕は意識を失うことになった。

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