第20話
あまりにもサッパリとした言葉に、僕は呆気に取られた。
一介の刑事が署長に物言いをすることがどれほどマズいことなのか。岩浅警部補のお陰で、それは分かっているつもり。
しかし瑞樹巡査部長は、その城壁をいとも簡単に叩き崩してしまった。
《世の中、『正義』という概念にしがみついてばかりもいられない。それだけで生きていくことは到底できない。それは承知しています。しかし、だからといって『正義を志すこと』を止めてしまったら、社会はどうなるでしょう? 人々は互いに相手を信用できるようになりますか? 交通事故の件数や死傷者数が減りますか? 悪に染まった犯罪者の更生を支援できるような、心ある企業や団体を増やせますか? 無理でしょう?》
《き、貴様! 署長に向かってなんということを――》
《だったらなんだよド畜生が!!》
僕たちは一斉にパソコンから飛び退いた。そのくらいの声量と気迫を備えていたのだ。瑞樹巡査部長の演説は。
僕は自分の耳を塞ぎながらも、先輩の意外過ぎる一面――キレて相手をビビらせることもあるという面を体感させられた。これでもか、という感じだ。
そして、怒気が一気に爆発したような最後の一言。おいおい警部補、瑞樹巡査部長を止めてやれよ。
いや、待てよ? これも、岩浅・瑞樹両刑事による作戦の一部なのではないだろうか?
署長と副署長が衝撃で固まってしまっているのが、ひしひしと伝わってくる。音声しか伝わってこないのにもかかわらず。
このまま喋り出したら、お偉方はボロを出すかもしれない。考え方を改めるかもしれない。
《失敬。こちらをご覧ください》
すぐさまいつもの調子を取り戻した巡査部長。これ以上は怒鳴られないだろうな? という不安を覚えつつ、僕たちは恐る恐るパソコンに注目する。
聞こえてくるのは、紙をゆっくりと開いていくガサガサという音。きっと僕が持っていた、コピー不可の地図の音だ。
それから、巡査部長は落ち着いた口調で説明を始めた。
鬼羅鬼羅通りの構造、中断されたままの駅前再開発、それによって居場所を失うであろう若者たち。
《彼らを一方的に敵視するだけでは、この街に、いえ、この国に未来はありません。若者たちの主張を受け入れ、鬼羅鬼羅通りの継続的な在り方についてご一考いただきますよう、お願い申し上げます》
瑞樹は再び頭を下げたようだ。そのそばで、岩浅が語り出す。
《この要望は、彼女だけのものではありません。私の、そして鬼羅鬼羅通りに住む若者たちの総意です。何卒、前向きに検討をお願い申し上げます》
それからたっぷり、十秒間はかかったと思う。
《分かった。検討してみよう》
《そ、そんな! 署長!》
副署長が慌てて止めに入るが、何の意味もなかった模様。
署長は続ける。
《ただし、一つだけ懸念事項がある》
《はッ》
巡査部長がすかさず応じた。
《君たちの言わんとするところは分かった。今まで通りの場所から、我々は鬼羅鬼羅通りとそこに住まう若者たちを見守ろう。私も個人的に鬼羅鬼羅通りの見回りをしている。確かに、彼らは生来の危険人物ではあるまい。だからこそ、私の権限で彼らを守ってこられた。だが――》
僕たち三人は揃って唾を飲んだ。
《世間体がよくないのだ。衛生的かどうか、危険性はないかどうか、今一度君たちの所見を聞かせてもらいたい。懸念事項と言ったが、それは二人の話を聞いてから考えることにしよう》
《了解しました》
それから、何らかの機材を操作するがちゃがちゃという音がしばらく流れた。
その合間に副署長が、署長に考えを改めるよう懇願する言葉の切れ端が混ざった。が、それが効果を上げた様子はない。
ああ、こうやって権力にしがみついている連中が、いわゆる天下りを行うのだろうな。
若者の将来には無関心なのに、自分の余生には傷一つ付けまいとする。
「いざこうして生中継されると、随分気色悪いもんだな」
「ですね」
「ん? 気色悪い? え? えぇ?」
一人だけ意味を取り損ねている摩耶。そんな彼女を無視するように、音声は一旦砂嵐状態になった。
《澤村さん、聞こえますか? こちらはマイクテスト中。そちらのカメラの状態はどうですか?》
《こちら鬼羅鬼羅通り、澤村吉右衛門! いつでも放送可能でござる!》
《了解! では署長と副署長には、鬼羅鬼羅通りの責任者より、この通りの実情をご覧いただきたく存じます》
君らは何をしているんだ? 越権行為だぞ、軍法会議だぞ! などなど副署長は喚き散らしていたが、署長は沈黙を貫いた。
《えーっと? ああ、そっちは署長室かい、瑞樹ちゃん! 随分大胆なことをしたもんだなあ!》
《私も幼い頃、あなた方の炊き出しで命を繋いだ人間ですから。これくらい余裕です》
割と冷たい口調で告げる巡査部長。
って、待てよ?
《は、犯罪者集団が炊き出し!? どういうことだ、瑞樹くん!》
《お聞きの通りです、副署長。あまり思い出したくはないですけれど、この男性の言うことは事実です》
瑞樹が言うには、鬼羅鬼羅通りの古参の者たちは、こっそりNPO法人の真似事をしていたとか。それが当局にバレたものの、人畜無害であると判断されたらしい。
様々な規約はあったものの(食品衛生や臨床心理の資格など)、全員がインテリ系で資格所有者だったため、当局から準法人のような扱いがされるようになったのだという。
しかし――と、サワ兄は続ける。
《ここ十五、六年で、急速にこの街の治安は悪化しました。今まで社会的弱者の受け皿だったはずの支援団体が、次々に撤退してしまった要因です。誰かが、超法規的措置を恐れずに誰かを守らなければならない。その役割が、この鬼羅鬼羅通りを拠点とする我々に割り当てられたのです。一番暴力沙汰に首を突っ込むことが多かったもんでしてね》
パチリ、と軽い音がする。どうやらスピーカーの向こう側では、プロジェクターが機能し始めたらしい。
《さて、改めまして。自分が澤村吉右衛門です。十七年前の三月十九日、自分と両親の三人は、この街の、まさに中心部で強盗事件に巻き込まれました。両親は死亡し、親類に恵まれなかった自分は、天涯孤独の道を行くことを余儀なくされました。鬼羅鬼羅通りに住まう若い連中に出会う前まで》
僕ははっと、息が詰まるような感じがした。そうか、サワ兄も僕や月野姉妹と似たような経験をしていたのか。
《腕っぷしには自信がありましたからね。自分たちより悪い、というか正反対の連中をとっ捕まえて、よく交番の前に晒しておいたもんです》
《あ……! ってことはこの前のひき逃げ事件の犯人を縛り付けておいたのも……!》
《そうですよ、副署長。自分たちのやったことです。あなたにはお気に召さなかったようですがね》
僅かな苦笑が、サワ兄の声には混じっている。
《ま、武勇伝はこんなもんで。次はこの通りの様子をご覧いただこうかなと》
気軽に語るサワ兄。生憎、僕たちの情報源は音声データしかないので、僕は初めて鬼羅鬼羅通りに歩み入った時の様子を思い出しながら進むことにした。
廃ビルの屋内、すなわち皆の居住室には電気と水道が走っている。衛生的な暮らしはそこで問題ない。
しかしながら、この通り自体の衛生管理状態は絶望的としか言いようがない。鬼羅鬼羅通りを挟むように建設されている二つの巨大構造物、すなわち、廃業したデパートと高級ホテル。その『間』が汚染されている。
タールのような真っ黒い何かがべっとりとついている。まるで、大きな筆でべっちゃべちゃに墨汁を塗りたくったような。嫌な臭いもするし、とても人間の住環境だとは言い難い。
《澤村くん》
《はい。あ、そのお声は署長さんですか。その節はどうも》
《その節? ああ、あの時か》
二人は何の話をしているのだろう。僕は首を捻ったが、答えはすぐに聞こえてきた。
《礼には及ばない。瀕死の君が指さしてくれたお陰で、我々はすぐに強盗犯の身柄を確保できた。逆に、君のご両親を救えなかったことが、今の私の胃袋のそこで燻っている状態だよ》
《やっぱり気になさっていたんですね。だからこそ、自分たち鬼羅鬼羅通りの連中の善行……ではないですね、自分たちの犯行を見逃してきてくださった。でしょう?》
《この会話、署長室から漏らすなよ》
この『漏らすなよ』という言葉。きっと副署長に当てて言い放ったのだろうが、殺気まで感じられたのは気のせいではあるまい。
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