第17話
僕はゆっくりと片腕を思いっきり伸ばし、弦さんが手渡してきたものを指で挟み込んだ。
この感触は、紙だろうか? それにしては随分と表面がつるつるしているが。
「鬼羅鬼羅通り周辺の再開発地図……。それも裏口用です。ご活用ください」
「えっ、ご活用って……?」
「あなた様が最善と思われる手段を取る時、きっとお役に立つでしょう。さあ」
弦さんに促される形で、僕は地図を目元に近づけた。そして、驚いた。
「これは……駅と鬼羅鬼羅通りの地下構造部分? 警察も見せてくれなかったのに」
「その警察、刑事さん方も入手困難だったそうですが、仕方ない。情報とは、多くの方に提供されつつも、機密保持・安全が立証されていかなければならない。厄介なものです、今も昔も」
ふむ。取り敢えず、弦さんからは有難く頂戴しておく。
っていやいや、その前に。
「弦さん、あなたはいいんですか? こんなものを僕に渡してしまって……。それこそ、僕が然るべき筋に提出したら、都市開発の重大な損失になってしまう。少なくとも、環境保護団体や騒音問題の苦情などで、計画が頓挫してしまうかもしれません」
「ふむ。道理ですな」
「あなたがどのくらい重要なポジションにいるのかは分かりません。でも、ずっとあなたの庇護下で育った僕なら、心当たりくらいはあります。あなたが自分の利益になるかどうかも分からない計画に関わっている理由が」
「ほう?」
「あなたの完璧主義っぷりです。それはもう、精神疾患といってもいいくらい」
僅かに弦さんの首筋がぴくり、と蠢いたような気がした。飽くまで『気がした』だけだけれど。
弦さんは音のない溜息をつきながら、両腕を組んで背中を壁に預けた。随分リラックスしている様子。本当に、この設計図は不要なのだろうか? 僕が好き勝手してもいい代物なのだろうか?
「お悩みのようですな、坊ちゃま」
「そりゃあね、弦さん……。あんなに身近だと思っていたあなたが、どんな利権関係があるかも分からない大規模な計画に携わっていたというんだから、どうしたものかと思いますよ」
弦さんは、左様ですか、などとは言わなかった。さも愉快げに笑うだけである。
「いろいろ訊きたいのは山々なんですけど……。以前、僕の父があなたの命を救った、って言ってましたよね。何があったんです、その時? それに、この駅周辺の再開発計画に秘密裡に関わっていた理由は?」
「なあに、簡単な話です」
ふふっ、と息を漏らしてから、弦さんは言った。
「春香様がお生まれになる前のことですが」
その場にない光景をじっと見つめるかのように、弦さんは目を細める。
「あの付近の掘削作業中に、地下水脈に繋がる岩盤を損傷させてしまうという事故が発生しましてね。わたくしは逃げ遅れたのです。現場監督は、わたくし同様に事故に巻き込まれる事態を懸念し、誰に対しても、助けに行け、とは言えなかった。彼を責めるつもりは毛頭ありません。わたくしが監督だったら、きっと同じ指示をしたでしょう」
「ふむ……」
「しかし、監督の指示を無視してわたくしに救いの手を差し伸べてくださった方がいた。それが、あなたのお父様である朔愁一様です」
「え?」
僕にはそれが、あまりにも意外だった。
父さんが工事現場で作業していた、って? インテリのイメージが強かった父さんが?
「そう、疑問でしょうね。事実、お父様は身体を壊してしまわれた。かといって、あの方は人生を駄目にするには若すぎるとわたくしは感じておりました。そこで、わたくしは先祖代々お仕えしてきたお宅への奉仕を辞退し、朔家のハウスキーパー兼執事になったのです」
お父様のことがインテリに見えたというのも、彼が病弱になってしまったから、インドア派になったというだけの話です。――弦さんはそう続けた。
詳しく聞いてみると、弦さんは高給取りの執事を務めることが多かった。そのため、自分の家庭もまた裕福だった。だから僕の父さんや母さん、僕と春香を加えた四人の家庭を養う手伝いができたのだという。配偶者や実子には恵まれなかったが。
僕が必死に脳内を整理していると、ゆったりとした口調で弦さんはこう言った。
「まだわたくしにお尋ねになられるべき事柄があるのでしょう? どうしてわたくしが、柊也様をお手伝いすることで贖罪になると考えたのか」
「ええ、まあ」
ふふっ、と柔らかい吐息を漏らす弦さん。
「柊也様、それに春香様もですが、お生まれになった際に、わたくしは涙で目が見えなくなりました。目に入れても痛くない、とはまさにこういうことなのでしょうな、まるで我が子が誕生したかのような喜びを得ました。しかし、あなた方が駅を頻繁に利用するようになって、どうしても考えてしまうようになったのです。また件の落盤事故が発生するかもしれないと」
それだけは絶対に避けなければ――。弦さんの目に炎が映り込んだかのように見えた。
「行政の対応もお粗末なものでしてね。いつ、どこからどこまでの範囲の地盤調査をしてくれるのか、未だに目途が立っていない状況です」
「そ、そうなんですか……」
神妙に頷く弦さん。僕はなんだか、自分がとんでもない物知らずに思えてならなかった。
事故のことも、行政の対応のことも。
そのまま、顎に手を当てて(癖になってしまったんだろうか?)、黙考し始める。
だが実際、僕のような学生の端くれが訴え出たところで、なんにもできやしないだろう。
「わたくしにできるのは、このままではこんな言葉遊び程度です。他の関係者のところにも行ってみられるとよろしいでしょう」
「……」
「坊ちゃま?」
「えっ? あ、何ですか?」
「今回の件、わたくしなりに調べましたところ、どうも警察組織が何らかのデータの消去や改竄に携わっているようだという結論に至りました。市の対策課と組んでね。わたくし一人での調査にはやはり限界があります。もし鬼羅鬼羅通りの方々、取り分け摩耶様、美耶様の安全をお考えならば、ご自身で足を運ぶ必要があるかもしれません」
「僕が、自分で?」
「はい」
僕は挙動不審に陥った。
自分が行政、つまりは市区町村の長に物言いをする、ということか? 冗談じゃない。そんなことできるわけがないだろう。
「で、でも弦さん、僕はただの、いや、随分と出来の悪い一大学生に過ぎないんですよ? 大衆の前で、窓口に立って相手に文句を言うなんて……」
「怖い、と思っていらっしゃると?」
「……はい」
正直に答える。それ以外、僕が弦さんの誠意に報いる方法はない。
だが、弦さんの取った行動は、僕の予想の斜め上をいっていた。
「柊也」
僕を呼び捨てにしながら、弦さんは僕の両肩に、自分の掌を載せたのだ。
「私はずっと君を見てきた。確かに、完全な人生ではなかっただろう。だが考えてもみてほしい。この世に完全な経歴を持つ人間など、いると思うかね? さらに言えば、そんな完璧主義を達成し得る存在を、人間だと主張できると思うかね?」
「そ、それは」
「皆、誰かの犠牲の上に生を謳歌している。君も、私も、月野姉妹も。もっといえば、君が相手をさせられるであろう市役所の窓口係員、企画委員、果ては市長まで、誰しもミスを犯さないわけがないんだ」
僕は胸のあたりから、何かがじんわりと広がってくるのを感じた。温かくて穏やかな、しかし明らかに熱量を宿した何かだ。
「残念ながらこの十数年で、私ができることはやってしまった。これからは君たちの、若者たちの時代が来る。機会を無駄にするな。なんとしても現実にしがみつくんだ。それでまたメンタルがマズいと思ったら――私を殴りにきてほしい」
力説する弦さん。その迫力に見入ってしまい、僕は首を縦にも横にも振れなかった。
だが、一つだけ確実に思ったことがある。
「嫌だ……。僕が弦さんを殴るなんて、そんなの嫌だ!」
それを聞いて、弦さんは再び表情筋を動かした。
「私だって、君に殴られるのは本望ではない。だが誰か、それも大人が、きちんと責任を取って、時代のバトンを君たちに託さなければならない。そのためのサンドバックになれというなら、私は喜んでこの身を捧げよう」
「弦さん……」
すると弦さんはいつもの冷静さを取り戻した。というか、自分で自分の心理状態を切り替えた。
「長々と無礼を申し上げたこと、どうかお許しください、坊ちゃま。もし気が済まないと仰るのでしたら、どうぞ遠慮なく」
軽く燕尾服を揺らしながら、弦さんは片膝をつき、もう片方の膝を立てるようにして両手をその上に置いた。
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