第16話


         ※


 ふと気がつくと、僕は居室で一人になっていた。椅子に腰かけ、目の前のデスクに両肘をついている。その両手の指を組んで、その上に顎を載せている。

 開けっ放しだった窓の向こうから、点々と輝く灯り――きっと飛行機のランプだろう――が見え、現在がとっくに夜深くなっていることを告げている。


 もうこんな時間だったのか。春香、じゃない。摩耶と美耶はどこに行ったのだろう?

 ゆっくりと椅子を引き、ふらふらしながら立ち上がる。視野の下方を占めるデスクの上では、スマホがなにやら物言いたげな雰囲気を発している。


 ああ、そうか。スマホに着信があるのか。二十時ちょうどをデジタル表示したスマホを、僕はこれまたのっそりとした動作で手に取った。

 このタイミングを狙いすましたかのように、着信音が鳴り始めた。初期設定のまま、つまり一昔前の家電と同じ無機質な音がする。


 あまりの素っ気なさに、僕はスマホにまで同情されているのかとすら思った。

 問題は、頭が混乱していて何があったのかをよく覚えていないことだった。


 五、六コール目で、ようやく電話に出る気がした。正確には、電話に出ることに気持ちが傾いた、とでもいうべきか。


「もしもし?」

《おお! もしもし、わたくし、上村弦次郎でございます》

「あ、どうも」


 意図せずして、中身のない肩透かし気味の音が僕の喉から発せられる。

 対する弦さんは、まったく気にする風もない。どうかしたのだろうか?


 それを尋ねることから先回りして、弦さんは話を進める。


《坊ちゃまに追い出されたとのことで、月野摩耶様、美耶様がわたくしを尋ねていらっしゃいました。十五分ごとに、坊ちゃまの携帯にお電話させていただいていたのですが……》


 摩耶と美耶を追い出した? 僕が? 一体いつの話だ?

 いや、いつでも構わないだろう。ただでさえ、今の僕の体内時計は完全に狂っている。

 その間の記憶が飛んでいても無理はあるまい。


《単刀直入に申します。お夕飯の準備ができましたので、どうぞダイニングへいらしてください。大丈夫でいらっしゃいますか? あるいはわたくしめがドアの前までお運びいたしましょうか?》

「ああ、ええ、そうですね」


 僕の言葉に力がないのを察してか、弦さんは、ひとまず冷たいお飲み物をお持ち致します、とだけ言って通話を切った。

 着信のランプが消える直前、なにやらノイズが混じったようだが……。きっと月野姉妹が弦さんのそばにやって来て、喚き立ててでもいるのだろう。


「確かに、喉は渇くよな……」


 僕はさっと窓とカーテンを閉め、部屋の明かりを点けて、廊下に繋がる扉の鍵を開錠した。


         ※


 ダイニングに出ると、弦さんと摩耶と美耶がいた。

 弦さんがテーブルの向かい側に、よく冷えたスポーツドリンクの蓋を外してそっと置く。

 それに対して、月野姉妹は全く以て騒がしい。今回は珍しく美耶も含めて、だ。


「柊也、大丈夫か? ずっと電話には出ねえし!」

「そうですよ、柊也さん! 私たちがどれほど不安だったか……」

「随分待たせやがって!」

「お言葉ですが摩耶様、わたくしは、何故あなた様が坊ちゃまをお待ちになっていたのか、測りかねてしまうのですが」

「えーっ!? 弦さんだって随分心配して――」

「ごめん」


 僕は素直に頭を下げた。美耶はともかく、弦さんに詰め寄ろうとしていた摩耶までもがぴたり、と動きを止めた。


「一つ教えてくれ。摩耶、美耶、僕は何と言って僕を追い出したんだ?」

「覚えてねえのか?」

「ああ。だから困ってる」

「えーっと、あれ? 誰だっけ、美耶?」

「確か、春香さん、という方でしたでしょうか。その方の名前を連呼しながら、今はとにかく出ていけ、と仰いましたね」

「そう、か」


 急に恥ずかしくなってきた。自分がロリコンだか、あるいはその予備軍だかのように思われてしまったのだ。しかし、そんな趣味嗜好のレベルの話でないことは、すぐに自覚が及んだ。

 趣味嗜好ではなく、家族というレベルの話だ。


「うぐっ!」


 僕は思わず手で口を覆った。今までよりも鮮明に、春香の姿が思い出されたのだ。

 よりにもよって、救助船から救急車へ乗り換える際の姿が。


 全身が真っ白になっていた。あまりに白いので、どこが日焼けしているとか、そんなこともよく分からない。

 一番恐ろしかったのは、半開きになった彼女の瞳だった。


 その瞳は、ちょうど海面近くへ僕を押しやった時と同じものだった。


「まさか……」


 そう。まさか、僕を救った直後に息絶えたなんて、信じられなかった。いや、知りたくもなかった。


「坊ちゃま、大丈夫ですか? 摩耶様、水と胃薬を!」

「了解! これか?」

「左様です、水はどの食器を使っていただいても構いません。お早く!」


 弦さんはずっと僕の背中を擦ってくれている。思いの外あっさりと、春香についての思い出やら何やらは瞼の裏から消え去った。脳の奥底へと引っ込んだ、とも言える。

 これで胃薬を飲めば、大丈夫だと思うのだが。


「ぷはっ! はあ、はあ、はあ、はあ……」

「坊ちゃま、ご無理なさらず、ゆっくり呼吸を繰り返して下さい。――そうです、その調子です。ゆっくりで構いませんからね」


 そう言うなり、弦さんは顔を上げ、なにやらどこかを指し示すように顎をしゃくらせた。

 客人に無礼のないようにという彼のモットーとは異なるが、今は非常時だ。多少の無礼を働くのも仕方あるまい。


「念のため、摩耶様と美耶様には部屋に戻っていただきました。わたくしたちも参りましょう」

「参るって、どこへ……?」

「わたくしめの個室、別邸でございます」


         ※


「ふむふむ……。流石、あの朔愁一博士のご子息でいらっしゃる。これは面白い。わたくしめも、本格的に動かねばならないようですな」


 と独りごちながら、弦さんは僕の先を歩いていく。正門と邸宅の中間地点の石畳には、本道から垂直に曲がる部分があり、それが弦さんの自室に繋がっている。自室というより、コンパクト化された自宅と言っていい。一応、トイレも風呂も完備されている。


 それにしても、突然父さんの名前が出てきてびっくりしたな。

 もちろん、父さんと弦さんの間に交流、というか主従関係があったことは僕も把握している。それでも僕は改めて、家族の喪失という事態に向き合わされた。否応なしに、春香のことが脳みそにぶち込まれるような錯覚に囚われる。


 自分が死ぬのは、春香だって望んではいないはずだ。

 自分が何に巻き込まれたのか分からないが、とにかく今は、この日常から僅かにズレた非日常に立ち向かわなければなるまい。


 それだけの決意を以てしても、僕の膝は時折震えている。

 弦さんの戦闘能力の高さゆえに、である。

 昼間に見かけた、摩耶と美耶の大喧嘩。あれは凄かった。しかし問題は、それを一瞬で収束させた弦さんの格闘戦術だ。


 本気で弦さんが僕を殺そうと思ったら、さして手間はかからないに違いない。

 取り敢えず、距離を取ろう。彼の四肢のリーチ圏外にいられるように。

 と、考えはしたものの、弦さんはこちらを振り返るまでもなく、くつくつと笑い声を漏らした。


「そんなに緊張なさらないでください、坊ちゃま。獲って食いやしませんよ」


 いや、緊張するなって言われてもな……。僕はガシガシと後頭部を掻いた。


 随分と長く感じられた庭歩きを経て、僕と弦さんは、弦さんの自宅へと足を踏み入れた。

 やたらと警備が厳重である。玄関扉の両端には監視カメラと動体探知式の照明。鍵は通常の金属製モデルだが、開錠の際にピピッ、という機械音がした。ただの鍵じゃないってことか。


「さあ、もうこの扉をずらせば入れます。坊ちゃま、先に」

「い、いえ、弦さんのお宅ですから、家主が先にはいる方がいいのでは……」

「かしこまりました。そう仰られるのであれば」


 弦さんは、きっと僕の不安を了解しているのだろう。特に何かを警戒することもなく、靴を脱いで向きを変え、すたすたと短い廊下を進んでいく。


 僕は来客用のスリッパに足を通し、その廊下の奥を見つめる。

 普段なら、木造建築ならではの自然の香りに惹かれるところだろう。が、今の僕にそんな『普段なら』は存在しなかった。最悪、どうにかして弦さんと刺し違えても……。そう思っていた。


 が、それは一瞬で霧散した。


「坊ちゃま、コーヒーでよろしいですか?」

「あっ、はは、はい」


 ふむ。こんな情けない声を出すとは、僕は殺人鬼には向いていないらしい。


「坊ちゃま、よろしいですか? あなたにお渡ししたいものがあります」


 ん? 突然なんだ? そうやって僕をおびき寄せて、斬首刑にでも処するつもりか。

 たとえそうだとしても、僕は進まなければ。両親や春香に顔向けできない。

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