第15話【第三章】
【第三章】
翌日。僕は大学の構内にいた。人の出入りの激しい、第一号食堂。
広大なスペースに長いデスクと、それに沿うように丸椅子が所狭しと並んでいる。
時刻は午後二時過ぎだが、僕は既に一時間ほど待っていた。
昨晩のうちに連絡を取っておいた、ある人物と会って話をするために。
「やあ、さっくん」
「どうもすみません、瑞樹先輩。せっかくのお昼時に」
「いいのいいの。まあ、あなただったらいつか私に辿り着くだろうとは思ってたから」
立ち上がって頭を下げる僕に、話の相手――瑞樹理沙先輩は鷹揚に手を振ってみせた。
今日はフォーマルスーツを身に着けていた。そうか、先輩はもう就活戦線に身を投じているのだ。
「先輩は大丈夫ですか?」
「ん? 何が?」
「いや……。今日はちょっと暑いみたいですけど。スーツ着てるんじゃ暑くないのかな、と思って」
「それもそうね」
そう言いながら、先輩はスーツのボタンに手をかけようとした。
「ぶわっ!? ちょ、ちょっとちょっと!」
「あらどうしたの、柊也くん」
「ああいや、そういうのはもうちょっと二人で仲を深めてから、っていうか、不特定多数の人の中ではやめといた方がいいんじゃないかな、っていうか……」
「ん? ああ、そういうことね。はいはい」
特に気分を害された風もなく、先輩はボタンを締め直した。ふっと安堵の息をつく僕。時々ボケでやってるのか、本当に分からないのか、それすら判断できなくなる。
「それじゃ、お話を伺おうかな」
僕が準備しておいた水のグラスに口をつけ、先輩は僕との会話を開始した。
「はい。よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
角ばったお辞儀の僕に対し、先輩のお辞儀は実に優雅で穏やかだった。
僕はポケットから小型の録音機を取り出した。目を合わせ、先輩がこくり、と頷いたのを見てから、録音を開始する。
さて、本番はここからだな。
「まずは、どうやってあなたの素性を探って、こうして話し合いの場を設けたのか、ということから」
笑みを崩さずに頷く先輩。
「現在僕の家に滞在している、鬼羅鬼羅通りで生活していた二人の女生徒、月野摩耶と月野美耶について。二人は昨日、酷い大喧嘩をしましてね、我が家のハウスキーパー兼執事の上村弦次郎がその場に仲裁に入りました。月野姉妹は二人共、軽傷ではありましたが、処置が必要な程度の負傷はありました。だから、上村はしばらくその場、すなわち僕の邸宅内で慌ただしく動く必要があったんです」
「つまり、その時だったら上村弦次郎さんに黙って彼の居室に侵入できる」
そこで何かが見つかったのね? と、先輩は笑みを崩さずに続ける。
「何があったのか、教えてもらえるかしら?」
「はい。この街の地下構造物の開発計画の発注書、それに構造物の設計図です。生憎コピー不可でしたので、証拠はありませんが」
「コピー不可、すなわちこの世に一枚しかない書類……。私がそれを破壊するのを危惧したの?」
「ええ」
先輩だって人間だ。仮にマズいと思ったら、その書類を僕から奪って八つ裂きにするかもしれない。
僕は先輩に対して、あなたを警戒しているぞ、と目力で訴えた。
「そんな怖い顔しないでよ、さっくん。似合わない」
似合わないのかよ。結構頑張ったのだが。
「大丈夫だから安心してよ。私も岩浅警部補も、あなたの敵じゃないからさ。たぶんね」
少し間を置くか。僕は先輩より先にグラスに口をつけた。いつの間にか、氷はすっかり溶けきっている。
先輩はと言えば、いただきます、と大袈裟に手を合わせてからグラスを手にするところ。
呑気なのか、肝が据わっているのか。
大学生でありながら、警視庁の現役刑事であることを知られてしまったというのに。
「怖くないんですか? 僕はあなたの裏の顔を知ってしまったんですよ? もちろん、下手な脅迫や尋問をするつもりはないです。けど――」
「大丈夫だよ。私は平気」
カチンと来た。流石にそこまで断言されると、馬鹿にされている気分になる。
「そう言い切る自信はどこにあるんです?」
「ん~、自信? そうだね~……」
先輩はテーブルに肘を、掌に顎を載せ、視線を彷徨わせている。
窓からの陽光が、先輩の頬をスッと肌色と黒色に分けている。どこか日本人離れした先輩の横顔。それは、憂鬱な日に見る西洋画を連想させる。単なるイメージの話だけれど。
次に目が合った時、僕の――もしかしたら先輩の――頭の中は、静寂に包まれていた。
情報の整理を終え、一旦冷却期間に入ったとでもいうべきか。
よほど僕はぼんやりしていたのだろう、先輩のグラスは空になっていて、代わりに皿に載せられたプリンがやたらと存在感を示していた。
僕はどうにか、自分の胸中が混沌としているのを先輩に悟られまいとした。が、一瞬で笑みを再構成した先輩を見て諦めた。
こんな早業、やってみろと言われてできるものではない。
「今さっくんが考えているのと同じだと思うな」
「え?」
「ほら、さっき訊いたじゃない? 私の自信はいったいどこから来るのか。そゆこと」
「は、はあ」
つまりは……。あれだ、平常心を保つとか、相手に対してポーカーフェイスもどきを披露するとか、きっとそういうことだ。
「さて、一通り知識を頭に入れることはできたと思うけど、まだ何かある?」
「いえ、僕からは……」
「ふぅん? 僕からは、っていうのはだいぶ控えめな表現だね」
この期に及んで、ようやく僕は表情筋の呪縛を解いた。どうしても頬が緩んでしまう。
「あ、そうそう。情報を擦り合わせるのに付き合ってあげたついでに、約束を一つ、してもらってもいい?」
「はい?」
互いに椅子から腰を上げ、空になったグラスと皿を持つ。
「私の正体、上手く隠してね」
「あっ、はい。大丈夫だと思います。口は固い方なので」
「よろしい!」
そう言って先輩は、利用者の少なくなった食堂を闊歩し、食器を回収用のベルトコンベアに載せた。残念なことに、振り返ってはくれなかった。
※
僕が帰宅するなり、摩耶と美耶が飛びついて来た。
「ちょっ!? 何だよ!?」
「柊也! あたい、とんでもないことを……!」
「私、本当に惨いことを……!」
「お、お前ら何言ってんだよ!」
「おお、これはこれは、柊也様。お帰りなさいませ。インターフォンの整備中でして、気づきませんでした。ご容赦ください」
「弦さん、それは構わないですけど……」
弦さんがすたすたと引っ込んでしまったので、僕は本人たちに尋ねることにした。
※
僕たちが向かったのは、僕の居室だった。あんまり広まってほしい話ではないからな。
「おいおい、摩耶も美耶も、一体どうしたってんだ?」
「美耶がさ、昨日見たって言うんだよ。柊也が隙を突いて弦さんの部屋に侵入するのを」
あちゃあ、見られていたのか。
「弦さんは気づいた様子だったのか?」
「いや、大丈夫だったみたいだ」
軽く腰を折って、目線を二人に合わせる。
痛々しさが目立ったのは美耶の方だ。顔にガーゼや絆創膏が貼られ、痣や切り傷が散見される。何より、額から後頭部にかけて輪っかを描くように巻かれた包帯だ。確かに、あれだけ殴られていればそんな姿にもなるだろう。
摩耶も摩耶とて、快調とはとてもいかない様子。
腹部を支えるためか、短めの杖を突いている。内臓の方をやられてしまったのか。
僕はぞっとして冷や汗が湧いてきたが、不安になった直後のこと。
「ああこれ? 弦さんが処置してくれたんだ。へその周りを丸一周して、支えてくれるんだってさ」
「お前、内臓は? 胃とか腸とか、大丈夫か? まさか破裂したんじゃ……!」
「ご心配には及びません。ダメージの軽減措置で、損傷した臓器はないようです。一週間もすれば、日常生活に戻れましょう」
それを聞いて、僕は摩耶と美耶の瞳の間で視線を行き来させた。
「ああ、よかった……よかった!」
これこそ『思わず』だと信じたいのだが、僕が気づいた時には、摩耶と美耶の二人の背中に腕を回し、自分に引っつけながら俯いた。
「ちょっ、何すんだよ柊也!」
「柊也さん!? どうしたんですか?」
姉妹は僕に引っ張られるようにして、ぺたんと玄関にへたり込んだ。
僕の背後から夕陽が差し込み、二人の顔を橙色に染めつけている。二人には悪いが、もう少しこうしていさせてほしい。
どんな無様でも構わない。だが、どうにかして二人のことを守り抜かなければ。
しかしその一方、もう一つ気づいてしまったことがある。
僕は月野姉妹のことを、事故で亡くした春香の代用品とでも思っているのではないだろうか。
その不吉で不潔な想像に、僕は二人を抱きしめていた腕をするり、と放してしまった。
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