第5話

 あれ? おかしいぞ。摩耶の瞳がだんだんと黒味を増していく。

 元々細めだった目が線のようになり、何らかの強大な感情が爆発しそうになっている。


「あ、あの、摩耶……さん?」


 なんでも訊けと言ったのはそっちだろうに。そんな不気味な顔で睨みつけられても困る。

 僕がベッドに腰かけたまま首を傾げていると、摩耶はふっと息をついた。肩を上下させながら目線を逸らしたものの、その焦点がどこに合っているのかさっぱり分からない。


「摩耶、大丈夫かい? 答えたくないならいいんだ、ごめん」

「ん!」


 摩耶ははっとして、視線を床から引き剥がした。再び僕と視線を合わせ、こんなことを言い出す。


「お前はどう思う、柊也?」

「えっ? いや、その……」

「あたい、いや、あたいと美耶の生活環境のことだよ」

「いきなり言われてもな……」


 僕は後頭部を軽く掻いた。質問に質問で返されては元も子もない。

 いや、違うな。質問の遣り取り云々が問題なのではない。最初の質問が、あまりにも摩耶と美耶の心を抉ってしまった。きっとそういうことだろう。そうでなければ、摩耶の視線があんなに乱れることはなかっただろうし。


 その事態に、僕は薄々気づいていた。何らかの原因で、摩耶たちは保護者と別れて暮らしている。そして彼女たち自身が、そんな現状に大きな不安を抱いている。

 その事実に気づいていないとなれば、そいつは余程空気の読めない馬鹿に違いない。


「おい、柊也」

「……」

「柊也!」

「おっと! ああ、ごめん……」


 摩耶にぐいっと顎を引き上げられ、僕はようやく思索の沼から抜け出した。

 あんたの場合はどうなんだ、と言いたげな摩耶の瞳が、僕のメンタルをごっそり削っていく。

 しかし、回答する気には到底なれない。『君たちも家族と離れ離れになって、しかもこんなところで極貧生活だなんて、大変だね!』――こんな答え方をしたら、摩耶に速攻でノックアウトされそうだ。


 僕はさっと目線を落とした。摩耶とは形勢逆転だ。

 だがそれだけでも、摩耶は納得した、というか、僕が姉妹の生活に一定以上の理解をしたと判断してくれたようだ。


「まったく、世知辛い世の中だよな」

「ああ、それには同意するよ」


 じっとりとした、それこそ夏場にかく脂汗のような不快な感覚。これを打ち破ったのは、入り口の方から聞こえてきた美耶の声だった。


「ただいま! 今日のお昼ご飯だよ!」

「一応あたいらは、毎回二人揃って飯を食ってるんだ。柊也、あんたもどうだ?」

「えっ、いいの? だって……」

「大丈夫だよ、たった今コンビニで廃棄されそうになってた弁当だ。速攻で運んできたから心配はいらねえよ」

「あ、いや……」


 そうか。摩耶は僕が、食中毒に罹ることを不安がっていると思い込んだらしい。本当は、どうすればこんな理不尽な生活から二人を救い出せるか、などと考えていたのだけれど。

 流石にそれは無理があるよな。今日が初対面だというのに。


         ※


 こうして僕は、謎の闖入者として歓迎された。

 わけが分からない。僕にも分からない。取り敢えず、この場の雰囲気に馴染むこと。それだけに僕は集中力を担ぎ出した。


 場所は一階のダイニングで、やはり一番衛生的に管理されているようだった。

 そして今、僕の目の前には、のり弁・極大サイズが咀嚼されるのを今か今かと待ち構えている。

 ちなみに、じゃんけんで優勝した摩耶がハンバーグ弁当、二番目だった美耶がエビフライ弁当だ。


 摩耶も美耶も、揃って黙々と、綺麗な箸遣いで弁当を食べていく。

 美耶はまだしも、摩耶はもっとガツガツ食べそうなイメージがあったけど。――などとはとても言えない。


 それはさておき。三人共が『ご馳走様でした』を述べたタイミングで、僕は摩耶に問いかけた。


「一つ確認したいんだけど」

「ふいー、食った食った……。ん? どうした、柊也?」

「君たちがここに住んでいて、ちゃんと電気や水道の恩恵を受けている、ってことは分かったよ。でも、どうして家出先がここだったんだ?」


 数秒間、音を立てずに待機する。さっきも似たようなことを尋ねて、沈黙してしまったからな。ここは摩耶からの返答を待つことにしよう。

 と、思ったのだが。


「柊也さん、あなた、お姉ちゃんにそんなことを答えさせるつもりなんですか?」

「んっ、あ、ああ。そうだけど」


 答えながらぞっとした。美耶が、超攻撃的な目でこちらを見ている。

 えっ、僕、そんなに高威力な地雷を踏んでしまったのか――!?


「やめな、美耶。柊也に悪気はないよ。ちゃんと教えてやらなきゃ」

「お姉ちゃん! お姉ちゃんは優しすぎるんだよ! いくら私たちに非があったからって、どうしてそんなことを教えるの? 過去は変えられないのに! 私言ったよね、そんな話はもう止めにしようって!」

「まあ落ち着けや。お前だって、柊也の手当をするのを手伝ってくれたじゃんか」

「お姉ちゃんがこんなに打ち解けるなんて、思ってなかったんだよ!」

「黙れ!!」


 がたん、と鋭い音がした。ダイニングのテーブルに、摩耶の拳がめり込んでいる。

 椅子を蹴とばすようにして、摩耶は立ち上がった。


「そこが駄目なんだよ、美耶! お前、一人で勉強頑張って、ずっといい成績収めてたじゃねえか! それが一体どうしたんだ? 家を出てからずっとあたいの顔色ばっかり窺って……。少しは自信ってもんを持てよ!」

「できればやってるよ! お姉ちゃんだって、どうしてそんなに堂々としていられるの? 頭おかしいんじゃない?」

「てめえ!」

 

 摩耶の腕がぐいっと伸びて、美耶の胸倉を掴み込んだ。

 これには流石に、僕も黙ってはいられない。


「摩耶! その手を離せ! 美耶を解放しろ!」

「ッ!」

「美耶も! 年上の人間の言うことはちゃんと聞け! 従えとは言わないけど、一応頭に入れておくんだ!」

「柊也さん、あなた……!」


 そう言って歯を食いしばった直後、美耶はふっと僕と摩耶を解放した。いや、テーブルの上から突き落とした、というべきか。


「ッ! 柊也、逃げろ!」

「そんな! 僕だって話を――」


 僕が再び話をする機会は、一瞬で奪われた。何かが僕の視界を横切ったからだ。


「何だ、これ?」

「やめろ! 指を切るぞ!」

「だから、これは一体――」


 摩耶に引き倒された僕。それを見越してか、僕のいたところから数センチの間隔を経て、壁に何かが突き刺さっていた。

 きっと美耶が『何か』を投擲し、見事にその『何か』が壁に突き刺さったのだ。

 僕や摩耶の頭上に、横一文字に、寸分の狂いもなく。


 僕は横目で投擲されてきた『何か』を観察した。

 それは、やはりクナイだった。投擲を主な攻撃方法とした兵器で、日本で言う手裏剣のようなものだ。


「ま、摩耶、これって……」

「馬鹿野郎、本物に決まってんだろうが」


 そう言って、摩耶は両腕を挙げながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

 テーブルの上面からちょこっと顔を出して、僕も戦況の把握に努める。今のところ、摩耶に遠距離武器がないのが厳しいが――。


 一度引っ込んだ摩耶が、テーブルを滑らせて僕に何かを渡した。


「開けてみな」

「わ、分かった! ……ってこれ、拳銃じゃないか!」

「ああそうだよ」

「うっ、うう撃てるわけないよ! ここは日本なんだ! 銃刀法違反で――」

「そういう問題じゃ――うわっ!」


 僕と摩耶は咄嗟に頭部を守った。


「拳銃以外に、もっとマシな武器はないのか!?」

「贅沢言うな! ぼさっとしてりゃあ、美耶のクナイで八つ裂きになっちまう!」

「あんたの妹だろう! なんとかしろよ!!」


 そう。これでは月野家の長女と次女による、命を懸けた真剣バトルに発展しかねない。だったら、威厳のある摩耶に分があるだろう。


 だが。

 美耶の想いは、真剣さで解決するような安っぽいものではなかった。

 巧みに跳躍を繰り返した美耶は、俺の背後に着地した。それもあろうことか、僕の後頭部を引っ掴んだ状態で。


「おやすみなさい、朔柊也さん。さようなら、お姉ちゃん」


 呟くように言い放った美耶。それを聞き遂げた摩耶は僕を突き飛ばした。


「いてっ!」

「ぐっ!」


 これ以上は、こちらは最早戦いようがない。美耶からすれば煮るなり焼くなり、といったところか。

 こんなところで一生を終えることになるとは。しかし、ふっと殺気が和らいだ。ぎゅっと目を閉じている僕に、美耶は静かにこう言った。


「……ごめんなさい、二人共。私、あんまり人がたくさん出てくると頭の中で暴れ回っちゃって」


 ここで気の利いた言葉の一つも言えればよかったのだろう。だが、生憎そんな立場でいられるほど、僕のメンタルの防御性能は低い。

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