第6話
「ひ、うわっ!」
僕は慌てて後退した。といっても、尻餅をついた姿勢でずるずると無様に這うのが精一杯だ。
摩耶はさっと僕の前に飛び出し、拳銃を手に取って美耶に突きつけた。その銃口と美耶の額の間は、僅かに十センチあるかどうかといったところ。
摩耶は飽くまで牽制のために拳銃を手にしている。一方、美耶は殺意や暴力衝動の向かう先を見失い、呆然としている。
どちらが先にメンタルを折られてしまうだろうか。
その決着は、意外なほど短時間で片がついた。美耶がぺたん、とへたり込んだのだ。ちゃりちゃりん、と音がして、クナイが床に落着する。
一方の摩耶は、クナイの最後の一個が床に落ちるのを確認して、拳銃にセーフティをかけた。
「柊也、持ってろ」
「お、おう」
テーブルに放り出された拳銃に、僕はびくびくしながら手を伸ばす。接触。
そのままグリップに自分の指を引っかけるようにして、恐る恐る手元へと収めた。
意外と軽いな……。そう思ってじっと見つめると、大手玩具メーカーの文字が彫られていた。
なんだ、エアガンだったのか。
ほう、と息をついて顔を上げると、摩耶がシューズを蹴り飛ばしてテーブル上で仁王立ちしていた。怒りに染められた眼球は顔から飛び出るほどで、爪先が美耶の顎に添えられている。
摩耶並みの身体能力があれば、そこから一瞬で美耶を昏倒させるのも容易だろう。
だが、僕はどこかで信じていた。いや、願っていた。摩耶はそんなことをするはずがない、と。
やはり、僕は不安を払拭しきれない。摩耶が、丸腰の美耶に暴力を振るう可能性が皆無だとは思えないのだ。殺さずにはいてくれるだろうけど……。
そして、過程はどうあれ、僕の想像は杞憂で終わりはしなかった。
美耶が細く、鋭く息を吸った。続いて響いたのは、こんな小柄で華奢な少女が発するには、あまりにも大きく、そして悲嘆に近い感情を纏った叫び声だった。
僕が慌てて耳を塞ぐ一方、摩耶がテーブルから飛び降りて、背後から美耶を抱きしめた。このままでは美耶の骨が折れるんじゃないか。本気でそう思わせる力で。
「美耶! 落ち着け! 悪かった、あたいが悪かったよ! だから落ち着くんだ!」
「お父さんも、お母さんも、皆……!」
「あれはもう起こったことだ、しょうがないんだよ! あたいらではどうにもならないんだ!」
摩耶はテーブルにあったタオルを取り上げ、無理やり美耶に噛みつかせた。美耶が誤って舌を噛まないように、との配慮だったのだろう。しかし、すぐにわきへ放られてしまう。
そんな攻防の末、美耶は今日一番の大声で叫んだ。
「柊也さんは、私のお兄ちゃんになるの! お姉ちゃんにだって渡さない! この人は私の……!」
「ふっ!」
摩耶の意識が一瞬で高まり、上下に斬り落とすような勢いで手刀が振り下ろされた。やや鈍い音が響く。同時に、あれだけ喚いていた美耶ががっくりと腰を折り、摩耶によって横たえられた。
「ふう……。まったく、手間かけさせやがる」
「手間? っておい! そんなこと言ってる場合じゃないぞ! 美耶が……!」
「心配すんな、気絶させただけだ。こいつに茶々入れられたままじゃ、ロクに話もできねえだろ?」
「それはそう、だけど」
美耶をお姫様抱っこで寝室に運ぶ摩耶。いつの間に呼びつけたのか、陰気な感じのヤンキーが二、三人いて、美耶を担架に乗せるのを手伝っていた。
そのへんの家財設備や装飾品を見つめながら、僕は今の争いの一部始終を振り返っていた。
やっと美耶が落ち着いて、鎮静剤と思しきものを注射されるのを見つめながら。
二人の身に何があったんだろう? 他の家族はどうしているんだ? ところで美耶のあの言葉……『お兄ちゃん』って言ってたな。摩耶や美耶の兄も失踪してしまったのだろうか?
「う~~~ん……。ん?」
鼻の下にひんやりした感覚があった。
汗? 違うな。鼻水? 可能性は低い。
じゃあ、一体何なんだ?
すっと鼻の下を拭うと、そこには衝撃的な色が踊っていた。
真っ赤。実に鮮やかな赤。
僕は一瞬、わけが分からず、どうして自分が出血しているのか、それすら考えられなくなった。
(お兄ちゃん……)
その言葉だけを反芻する。そしてようやく、鼻の周囲の液体に思い当たるものがあった。
ずばり、鼻血である。
え? でもなんで? 僕が何かしたのか? いや、そんなはずがない。第一、ベッドで休んでいたのは僕なんだ。摩耶や美耶の視線に晒されて、思わず興奮――。
「ぶふっ!」
おいおい落ち着けよ、僕。誰かの癇に障ることはしていないはずだ。きっとどこかの床で鼻をぶつけただけで、こんな鼻血、すぐに止まる。
必死に自分に言い聞かせる。が、しかし。
どれだけ努力すれば止まるのか? とか、出血多量で死んでしまうのか? とか、正直さっぱり分からなかったし、第一、誰かのことを考えて鼻腔の出血現象に見舞われるのか、皆目見当もつかなかった。
そして何の脈絡もなく、瑞樹先輩の姿が脳裏をよぎった。一言で言おう。限界だった。
「ぶはあっ!!」
「おいどうし――ってうわあっ! お前、何だよその鼻血!?」
担架で美耶を搬送している最中、振り返った摩耶がもろに血飛沫を浴びた。
ヤンキーたちが冷静でいてくれて助かった。彼らが驚いて担架を落とし、美耶が地面に叩きつけられるという事態は避けられた。
「おい、ティッシュ……いや、タオルだ! 綺麗なタオルを持ってこい! 摩耶、担架を貸せ!」
「あっ、サワ兄!」
「こっちの少年はワシが医務室に運ぶ! 美耶の方が怪我の程度が酷いようだ、急げ!」
「りょ、了解!」
朦朧とする意識の中、僕は真夏の雑居ビルの間を抜け、まだ見ぬ医務室とやらがある地下回廊を運ばれていった。
※
「わっはっは! ロリコンか、お主!」
「ちっ、違いまふ! 自分でも何が何だか……。突然鼻がおかしくなって……」
うむ。これは断言してもいいな。僕が恋い慕っているのは瑞樹先輩であり、今日遭遇したばかりの月野姉妹ではない。
僕はさっきから、コンクリート壁で包囲された殺風景な場所を歩いていた。鬼羅鬼羅通りのちょうど地下部分だ。後々地下道や地下街を建造しようと計画され、しかし結局放棄されてしまったフロア。
が、今それはどうでもよかった。美耶を担架で搬送する際に現れた人物、澤村吉右衛門――通称『サワ兄』の話の方が、僕に対する引力があったからだ。
サワ兄はこの鬼羅鬼羅通りに潜伏しているヤンキーたちのまとめ役で、三十代前半くらいに見えた。彼の言葉は鶴の一声に近いもので、大抵のヤンキーたちは、驚くほど彼の指示に従うのだという。
何故だろう。巨漢であるわりに人懐っこい顔をしているからだろうか。立ち振る舞いが穏やかだからだろうか。
それはさておき。
僕は自分にも与えられたタオルを首に巻き、鼻を押さえ込みながらサワ兄との会話に興じていた。
そしてどちらからともなく、この話題を持ち出した。月野姉妹と鬼羅鬼羅通りとの邂逅だ。
「五年ほど前の十二月のことだな。鬼羅鬼羅通りに一組の女子二人が紛れ込んできた。普段なら門番役のパーカー野郎が立ち入り禁止を伝えるんだが、そいつらも二人を軽くあしらうことができなかった」
「何故です?」
「そりゃあ柊也くん、二人の身なりがあまりにみすぼらしかったからさ。報告を受けて、ワシも向かったんだが――」
すると、サワ兄の声を切り刻むかのような甲高い音がした。
「うわっ!」
僕はどこが発信源なのか、しゃがみ込んで素早く視線を走らせる。が、そんな必要はなかった。発信源は僕のスマホだったからだ。
僕だけではない。サワ兄も、警護役のヤンキーも、それぞれ自分のスマホが発信源であることを確認する。
「こちら澤村、状況は?」
《西方監視中の観測係が、警察署を出てこちらに進行するパトカーを発見! 数は六、人員輸送車は確認できず!》
「了解。観測係は各自の場所から警察の動きを逐次知らせてくれ。一般人諸君は地下階層に退避、内側からきっちり施錠しろ!」
「サ、サワ兄、僕たちは……?」
「この場で乗り切ろう。柊也くん、君は彼らに連れて行ってもらうんだ」
振り返ると、気まずそうにしている青年が二人。どちらも灰色のパーカー姿だ。
「あ、君たちは……」
「柊也の旦那、さっきは失礼いたしやした!」
ざざっ! と音を立てて、その場に片膝をつく二人。
「ああ、いや、別にもう怒ってるわけじゃ――」
「嘘をおっしゃらねえでくだせえ、旦那! 月野姉妹の世話役でいらっしゃるのに! それなのに、旦那をあんなひでえ目に遭わせちまって……」
「だからそれはもう……」
「三人共、早くここから撤収しろ。ワシ一人では防ぎきれないかもしれん」
なんでこう中二病を拗らせるかなあ、サワ兄よ……。
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