第14話 狂気の舞踏会

 分水嶺ぶんすいれいというものがある。

 そこを境にして、結果が白と黒ほども変わる点のことだ。

 例えば、ハルエッドが嘔吐剤を飲ませてくれたからこそフェルミは生きていて、飲ませてくれなかったら死んでいた。

 生と死の境界線は無慈悲で、そこを彷徨う者は綱渡りのようだと感じるだろう。

 ある者は一歩を踏み出すのに躊躇し、ある者は途中で滑り落ちる。終着点まで辿り着く者は微々たる数しかない。そして、その終着点を錬金術師はマグダラの地と呼ぶ。


「……」


 そこには、まず沈黙があった。

 そして次に、門を蹴飛ばす音。

 普通の町の教会は、立派な鐘楼しょうろう付きの石造りの教会が多いが、この教会は質素でみすぼらしい。それなのに色付き硝子があちこちに使われていて、質素か豪勢なのか判別できない構造は、異教徒との兼ね合いだろう。

 フェルミが教会に踏み込むと、奥の祈祷台から声が響いた。


「だ、誰だ!」

「……薬種商、って答えたらわかるか?」


 そこにいたのは、一人の司祭だった。振り向いてフェルミの姿を視認するなり、死者を見たような顔をした。

 本来、フェルミはルティネスの毒で死んでいるはずだから。


「俺がここにいるのが、そんなに不思議か? 俺は薬種商だぞ。あらゆる毒に耐性を持っていてもおかしくないだろ」


 フェルミはふんと鼻を鳴らし、埃の被った長椅子に腰掛ける。

 フェルミと司祭以外には、教会側が戦争へ勝利したのにも関わらず、一人の巡礼者はいない。その荘厳な雰囲気は、冷たく思考を蝕んでくる。


「……だがな、薬種商。毒に耐性を持っていたとしても、単身のお前が生きて帰れるはずはないぞ」

「ふん?」

「そうだ。……見れば、薬種商。お前はその短剣しか持ってないようじゃないか」


 その緊張した顔に、笑みが伺えた。

 どうやら、忌み嫌われた薬種商へ優位に立てている、という自分達に興奮しているらしい。

 司祭がゆっくりと腰に差していた細剣を引き抜き、ぴたりとフェルミの胸に向けた。武器を持つはずのない司祭が持っていることから、話の異常さが垣間見える。

 フェルミは目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。


「……俺が何の策もなしに、ここへ来ると思っているのか?」


 状況は限りなく最悪だ。

 本来、戦争の勝利を祝いに誰かしら来そうなものだが、誰もいない。それはつまり、人払いをしているということ。

 だから、フェルミは一人で戦わなければならないし、助けも呼べない。

 それでも、この状況がその推測を裏付けていた。人払いのような面倒なことをしているのは、万が一でも民衆に見られてはいけない者が教会にあるから。


「俺の要求はただ一つ。地下に幽閉されているルティネスを返せ」


 司祭がぴくりと眉を動かした。

 図星。

 おそらく、教会には司祭とフェルミとルティネスの三者しかいない。だが……。


「だ、だが、数の利はこちら側にある。もし、私と敵対すれば、すぐにでも教会本部がお前たちを異端と見なすだろう」

「……へっ」


 フェルミは鼻で笑った。


「数の利? いいや、あんたは勘違いしているよ。数の利は俺にある」

「は、はったりはよせ。お前はどう見ても……」


 その言葉が尻すぼんだのは、大きな金属音が鳴り響いたからだ。

 司祭が音の出処を探して、フェルミから視線を逸らした。

 瞬間。

 細く、しかし確かな響きを持った、歌。


「これは……聖歌?」


 司祭が、呟きを漏らす。急なことに両者が動けないでいる間も、その聖歌は大きな音となっていく。

 軽やかな子供の声。しわがれた老人の声。図太い男の声。優しい女の声。多くの声が聖歌を紡ぎ出していた。


「言っただろ? 数の利は俺にある、と」


 シャンディーが味方であるのを一つ目の賭けとすれば、これは二つ目の賭けだった。失敗する可能性は大いにある。だが、神がもしいるならば、神はフェルミの側に付いた。

 教会を取り囲んだ美しい聖歌の響きに、聖母像が微笑んだ気がした。


「で?」

「っ……」


 フェルミに向けていた細剣を取り落としたのは、偶然か。

 椅子から立ち上がると、司祭は体をすくませた。遠目でもわかるほど、ぽたり、ぽたりとその顔から汗が滴り落ちる。


「どうするんだ? もし、ここから逃げるつもりなら、俺は見逃してやる。ただ、外にいる人間がどう考えるだろうな」


 紙のように真っ白になった顔の中で、ぎょろりと目だけが動いてフェルミを見た。


「……」


 その場で崩れ落ちなかったのは、司祭のせめてもの見栄なのかもしれない。取り落とした細剣を拾いもせずに、まるで聖歌から逃げるように、奥の扉へ消えていった。

 ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りが、フェルミの横顔だけを照らす。


「終わった……のか?」


 司祭が戻ってくる様子は、ない。

 フェルミは急に押し寄せてきた緊張で、一歩すら動くことができなかった。

 我に返ったのは、それからしばらくして、教会にハルエッドが入って来てからだった。その背中の後ろには、黒い外套を纏ったシャンディーもいる。


「……それで、フェルミ?」

「あ、ああ。上手く事は進んだ」


 その言葉にハルエッドが口角を上げた。冷酷な印象があったシャンディーも口元を綻ばせる。


「それにしても、凄いわね。聖歌を使うなんて」


 死なない薬種商と呼ばれているフェルミでも、人のことわりには抗えず、死ぬ時は死ぬ。それも、相手の方が凶悪な武器を持っていればなおさらだ。

 しかも、目に見える敵は司祭だけだったが、奥に何人も控えているかもしれないし、教会を敵にするような無謀なことはできない。

 だからこそ、フェルミ達は司祭らを傷つけずに町から追い出さなければならなかった。


 しかし、数の差は簡単には埋まらない。そこで、聖歌を使ったのだ。

 アルベルムは自歌を纏う、こんな言葉がある。かつて将軍だったアルベルムが敵軍に取り囲まれ、そこから自国の歌が聞こえて絶望したという、つまり自軍が敵国に寝返ったと思い敗北を確信したということわざだ。


 教会は戦争に勝利し、それを祝わない者はいない。そこで民衆を教会の周りで聖歌を歌わせれば、アルベルムと同じ状況を生み出せる。フェルミはそう踏んだのだ。

 ただ、これが教会を裏切る行為だと知ったら、民衆は協力しないだろう。だが、職人組合頭首であるシャンディーなら、勝利の祝いと称して職人たちを扇動することもできる。


 しかし、この計画には、二つの大きな欠点があった。

 一つ目が、教会側の人間が教会の外を見ないこと。そうなってしまえば、民衆がただ祝うために歌っていると気付かれて、計画は破綻する。

 二つ目が、教会に町の外へ繋がる地下通路があること。これは言わずもがな、教会の外に出てしまえば、気付かれるからだ。教会には貴重な物が多いため、大体は地下通路があるが、確実とは言えない。だから、布石としてルティネスが地下に閉じ込められているのを確認したのだ。


 針に糸を通すような計画。だが周到に準備を進めてきた教会に一矢報いるには、針に糸を通さなければならなかった。

 ただ、フェルミの目的は単に司祭を逃げさせるのが目的なわけではない。フェルミは司祭が消えていった扉の先に視線を向けた。


「まるで、お姫様を助ける英雄譚だねえ」


 本来ならば、鍵が掛かっているべき部屋。四面は重厚な石の壁で、さまざまな貴重品が置かれている。鹿の剥製に、硝子をふんだんに使用した食器。それらは教会を権威付けるための物だが、荒らされた様子があるのは、司祭が逃げ出す時に持つ物を物色した跡だろう。

 やはり、どこまでも教会の司祭らしい、と少し笑えもする。


「ん?」


 様々な財宝に目もくれず進むと、壁際にあった聖母像がずらされていた。元々置かれていた場所には、ぽっかりと穴が開いている。

 隠し通路。

 フェルミは、ハルエッドとシャンディーを下がらせ、梯子で穴の中に入った。

 聞こえるのは、僅かばかりのすすり泣き。その声を頼りに、奥にある部屋の扉の前で止まった。


 フェルミは深呼吸して、扉を開けた。

 すると、向こうに見えたのは、大きく見開かれた、緑色の瞳だ。

 泣いてくれるのを期待したのだが、最初は夢を見ているかのように呆然としていた。


「ど、どう、して?」


 置いてあった椅子を引き寄せ、フェルミはその上に座った。実際、立っているだけでも限界に近かった。


「どうして? それを問うことに意味があるのか?」


 マグダラは遠い。でも、取り返したいものは、すぐ傍にある。


「勇者が、悪い司祭様をやっつけ……」


 そこで言葉が途切れたのは、ルティネスに飛びかかられたからだった。

 出会ったばかりの頃、ルティネスは放浪の民と名乗った。それでも、この町で一人で生きなくてはならなくなった。仲間が欲しかったはずだ。寂しかったはずだ。そこを教会に付け込まれ、僅かながらも一緒に過ごしたフェルミを裏切り、そして教会に裏切られた。それでも、フェルミが来たことに驚きがあるのだろう。

 ルティネスは、自分のマグダラがそこにあるかのように、力の限りにしがみついている。

 フェルミはそれを受け止めきれず、椅子ごと後ろにひっくり返った。それでも、ルティネスはしっかりと服を掴み、離さない。


「おい、お前……」


 フェルミは仰向けになったままその体を剥がそうとしたが、白熊の毒にやられた体力では到底かなわなかった。


「心配するな。何度でも、お前を助けてやる」


 そう言うと、ルティネスの白い耳がぴくりと反応した。しかし、それが滲んで見えた。

 瞬間、激しい吐き気に襲われる。

考えなくてもわかった。体力が限界を迎えたのだ。白熊の毒を飲んで、聖職者殺しで吐き出したとしても、毒は毒だ。その上、聖職者殺しも本来毒である。

 ずっと感情で無理矢理身体を動かしてきたが、ルティネスを取り戻したことで気が緩んだのだろう。


 指は痙攣して、まともな呼吸をすることもままならない。瀕死の蛙のように、ひゅーひゅーと喉へ空気が通るだけだ。

 白く染まる意識の中、ルティネスの名を呼ぶ声が聞こえる。だが、それも遠ざかり、深く深く落ちてゆく。

 ああ、くそったれだ、と思った。

 取り返したい物を取り返したのに、最後の線がぷつんと切れた。

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