第13話 少女の協力

 昔、溺れたことがある。

 息継ぎができずに、深淵の深く深くへ沈んでいく。ずっと頭上にある白い光へ手を伸ばしても届かなくて、ああ、人の死は呆気ないな。そう思ったのを覚えている。


 それからだろうか。

 死へ無頓着になったのは。


 自分の道を進むためなら、人を平気で殺し。そして、死なない薬種商、『判決ふぇるみ』の異名を与えられた。

 だから、ここで死んでしまってもいいかもしれない。詐欺師、悪人、人でなし、そんな奴にはこんな死に方が相応しい。


 でも、あの日のように、意識を水面みなもから引っ張り出されるように。肺に詰まった水のように、異物を吐き出した。胃酸で溶かされた白熊の肉が浮いている。視覚がはっきりとした世界を映し出し、味覚が胃酸の辛さを、聴覚が耳鳴を、嗅覚が酢のような臭いを、触覚が焼けるような痛みを伝えてくる。五感はただ無上に、生を実感させた。

 まだ、死ぬには早いようだった。


「飲みなよお」


 ハルエッドに渡されたコップの水を呷るように飲んだ。それでも、体中の痛みは簡単には引かない。


「毒に精通している薬種商が毒殺死なんて、笑えないよお」


 お前に試してやろうか、と笑いかけたが、そうさせるのが目的だったのだろうか。ハルエッドはにやりと笑い、床にひれ伏したままのフェルミに手を伸ばす。だが、それを掴みかけて、気が付いた。

 皮膚がぼろぼろになった、自分の手を。


「で、何があったんだい?」

「毒を……ルティネスに毒を盛られた」


 言葉が詰まったのは、喉に激しい痛みが走ったからだ。それなのに動けるのは、ハルエッドが助けてくれたからか。

 見れば、『聖職者殺し』の小瓶が床に転がっている。かつて誤飲した聖職者が死んだことから呼ばれるが、本来のそれは嘔吐剤。しかし、白熊の毒は劇的な効果を表していて、今もなお体を蝕んでいっているのが感じられる。


「ルティネスは……あいつは教会の手先だ」


 いつもはにやにやした顔なのに、その瞳が細くすぼめられた。


「その根拠は?」

「一つは、あいつが……異端児であることだ。つまりは、七つの大罪の、もっとも忌み嫌われる罪」

「っ!?」


 それだけで、勘の鋭いハルエッドが息を飲んだ。

 なんじ、異類とつがいになることなかれ。


「人間ではない……獣の耳を持っていた」


 そんな奴が偶然にも薬種商の工房へ上がり込み、あわや毒殺しようとした。それを一人で行えないだろうし、後ろ盾があるだろうと考えるのが自然だ。


 それなら、その後ろ盾は何なのか。商会、奴隷商、職人組合、傭兵組合、もしそれらがあの少女を得ていたとしたら、最高の財力機構である教会か、最高の権力機構である騎士団のどちらかが嗅ぎつくだろう。

 この町にはフェルミ以外の騎士団関係者はいない。だから、教会の手先。子供のように単純な考え方で、単純だからこそ的を射る事もある。

 教会がもしフェルミたちの敵だとしたら、最悪の可能性がある。それを考えないほどフェルミには余裕がないし、考えないわけにはいかなかった。


「しかし、フェルミ。もし教会だとしたら、何の利益がある」

「それは……」


 もうこの瞬間には、フェルミは頭痛を振り払って考えを巡らせていた。

 いくら世界随一の財力機構だとしても、クラジウス騎士団という世界随一の権力機構を敵にできない。互いの力が拮抗しすぎて、片方が滅んでも自身が満身創痍になるのは明白だからだ。つまり、両虎相闘えば勢い倶に生きず。


 だから、フェルミを刺激して、騎士団を敵にまわすような真似はしないはずだ。フェルミは騎士団の所有物で、なにしろ、もしそうなれば騎士団に開戦の口実を与えるだけだから。そして、騎士団にとってフェルミは駒でしかないし、替えはいくらでもいる。ハルエッドが教会に利益があるのか、と聞いたのは、ここに気が付いているからだろう。騎士団も、教会も互いに敵になれない。しかも、戦争を起こして互いに弱り合っている時、他国が漁夫の利を狙わないという保証はどこにもない。その保証を得るには、裏切らないという信用が必要だ。


 どこからか援軍を頼むとしても、それだけでは盤面を覆せないだろう。その上、問題はこれだけではない。多くの軍を動かすとしたら、いつだって自軍に内通者がいる。そう簡単には援軍を頼めない。

 もし、この盤面が覆るとしたら、それは世界が敵にまわった時。

 そこまで考えて、はた、と思い至った。


「世界が敵にまわる……?」

「ん?」


 まさか、そんなはずはない。と思いかけて、首を振った。可能性はある。

 一つ。たった一つの可能性がある。

 この盤面をいとも簡単に覆される方法が。

 文字通り盤面を覆されたら、フェルミは身の破滅だ。もしこれが本当だとしたら、フェルミだけではない、ハルエッドも、あの騎士団さえも。


 それを考えるといてもたってもいられなくなる。

 しかし、冷静さを欠いては負けだ。

 目を閉じ、爪を噛むのをやめ、フェルミはゆっくりと深呼吸した。

 吐き気を伴った焦燥感で胸が焼け、それでも考えを張り巡らせる。もし、教会が敵なら、もし、騎士団が負けるとしたら、もし、もし、もし、もし、それが本当なら?

 期待と、猜疑と、仮定と、事実が、四つの爪でフェルミの考えをばらばらに引きちぎってくる。

 それでも、フェルミが膝を付かなかったのは、ある確証を得られたからだった。

 ルティネスは、敵ではない。騙されただけだ。


「……おい、ハルエッド。行くぞ」

「ん、どこへ?」

「俺達を悉く嵌めたシャンディーの元へさ」


 そう言って、フェルミは外套も着ずに工房を出た。気持ちは先走り、自然と早歩きになってしまう。四肢を動かす度に激痛が走るが、興奮した頭ではなんとも思わない。

 ハルエッドはフェルミが何に思い立ったのか気にはなるらしいが、聞いてはこない。その説明はシャンディーの元で聞けると思っているだろうし、聞こうとしない物をわざわざフェルミも言わない。


 今日の朝にも市場には来たが、それよりも今は賑わいを見せている。最後の異教徒の町が改宗したのだ。正教徒側の人々は昼から飲んだくれて、異教徒側は義理程度に酒を飲んでいる。あちらこちらでは長きに渡った戦争の終結に聖歌を歌う人々がいて、中には酒で取っ組み合いに発展した者もいた。


 フェルミはそんな馬鹿騒ぎに脇目も振らず、一直線で職人組合へ進む。邪魔になった犬を蹴飛ばすと、商人がぎょっとしたのは言うまでもない。

 いつものように、そしていつもよりも殊更に扉をこじ開けて、職人組合へ踏み入った。シャンディーは白髪の執事を従えて、事務机に座っている。


「やはり、白熊の毒では死なないのね」


 その黒き少女はちょうど砂坪へ突っ込んでいた羽ペンを置いた。


「いいや、死にかけたさ。それでもここへ俺が来ることも、あんたの予想通りなんだろ?」


 そう言うと、シャンディーは薄く微笑んだ。やはり、全て掌の上で躍らされていたようだ。


「ただ、お前は一つ大きな誤算をした。違うか?」

「そうね、ここまで教会の手回しが済んでいるとは思ってなかった」


 この物事の始まりは、騎士団が最後の異教徒の町であるカザンへ侵攻を始めたことだった。この戦いでもし騎士団が勝てば、世界が正教徒によって支配されることとなる。

 そうなれば、異教徒を滅ぼす必要がなくなった騎士団も自然に必要になり、教会も騎士団が目障りな存在となる。しかし、教会は騎士団よりも財力があっても、兵力では勝てない。例え、援軍を頼んだとしても、この差は覆せない。


 なら、騎士団を世界の敵だとすればいい。

 だが、騎士団は世界のあちこちに拠点を置く。そんな存在に他の国がどうして歯向かうだろうか。

 そこで、こんな言葉がある。


 一度でも黒く染められた布は、どれだけ洗っても純白には戻らない。


 つまり、異教徒と戦い続けた騎士団は、ほとんど異教徒だ。そして、正教徒となったカザンの町に駐軍するのは、教会に離反した行為だ。そんなこじつけで、教会は騎士団に破門宣告をするつもりだろう。

 よく考えられた構図だが、問題がある。教会が自ら動けば騎士団側の国が容赦しないのだ。

 そんなわけで、教会はカザン周辺の町に、騎士団を攻撃するように働きかけるだろう。その町は嘗て騎士団が侵攻してきた異教徒の町。恨みを逆手に取って、カザンにいる騎士団本軍を袋の鼠にする。

 その間に、教会は騎士団を破門宣告する準備に取り掛かる。簡単に言えば、各地で騎士団が悪い存在だと印象付けるのだ。


「例えば、獣を薬種商の工房へ送り付け、共に過ごした無垢な薬種商を異端と見なしたりね」


 そんな行為を各地で行い、騎士団は世界の敵とする。それが教会の狙いだ。


「そして、あんたは教会の手先だろう?」


 フェルミの工房の前任者が不可解な死を遂げた件。

 前任者は職人組合の所属であった件。

 ルティネスの師匠も不可解な死を遂げた件。

 考えれば、理に適っていない事象が多すぎる。これも全てフェルミを陥れるための罠。


「だが、あんたは教会をも裏切ろうと考えている」

「……」

「その根拠は、俺に白熊の毒を教えたことだ。教会の手先であるのにもかかわらず、盾つく行為。あんた、教会に弱みを握られてるんじゃないのか?」


 これは、一つの賭けだった。

 白熊の毒を教えたのは、味方だと勘違いさせる目的だったのではないか。最初から最後までシャンディーは敵ではないのか。

 もしそうだとしても、八方塞がりの現状では、遅かれ早かれフェルミは葬られていただろう。だからこそ、危険を負ってまでシャンディーの元へ来たのだ。


「……それで? そこまで見越した上でここにくるのは、重要な話があるからでしょう」


 その真っ赤に燃えた瞳が、細められた。少女の姿には似つかわしくない威圧感に、ハルエッドが息を飲んだ。

 余計な小細工はいらない。まずは目的のみをはっきりと伝える。


「この町から聖職者を追い出す」


 そう言うと、シャンディーは馬鹿馬鹿しい、という軽蔑するように笑った。ただ、フェルミが真剣だとわかると、深く椅子に腰かけ直した。


「それで、私は何を?」


 極度の緊張感に、唇を湿らす。

 その見下したような言い方は、自身に優位性があると自覚しているからだろう。本来、シャンディーは教会に弱みを握られていたとしても、いつでも裏切れる。フェルミもやろうと思えば、町から逃げ出すこともできる。それなのに、フェルミがここへ訪れたのは、一つの理由があるから。


 ルティネスを取り戻す。

 ただそれだけ。だから、フェルミはシャンディーに協力を乞う形になり、その代償を払う義務が生じる。

 それでも、フェルミは笑った。


「あんたに頼みたいのは……」


 これから行われる、命を懸けた戦の舞台に。

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