第12話 少女の裏切り

 万物は流転する。

 時間は移り行く。人が作り出したものは、いずれ朽ち果て消えていく。それが真実で、世界の真理だ。


 しかし、流れというものは、簡単には変わらない。ふとした契機で金持ちが貧乏人に成り下がる事はあっても、貧乏人が金持ちになるのは簡単ではない。その上、金持ちはだいたいそれからも金持ちだ。

 騎士団だってそうだ。昔でこそただのクラジウス兄弟病院だったが、今では教皇を凌ぐ金と権力の巣窟にまでなった。つまりは、騎士団はこれからも騎士団であり、戦が無くなっても騎士団であるのだ。


 しかし、騎士団がそうでも、その指先であるフェルミたちには変化が訪れる。

 商人がやっと開店準備を始めるような早朝。朝日だけでは手元が暗いから灯した蝋燭が、ゆらゆらと形を変えていた。まるで、蜃気楼のように。


「……」


 薬種商のフェルミは、そんな灯りの中、新たな薬を調合していた。

 とは言っても、大量に残された前任者の道のりを辿るだけだ。釘で机に張り広げられた羊皮紙はかなり古く、かび臭い匂いもする。記されている文字は凄く几帳面だが、古代の言葉なのか読めない箇所もある。そこには比較的新しいインクで注釈が入れられていて、この羊皮紙が何人もの前任者を渡ってきたことが伺えた。


 誰もが寝静まるような深夜に、蝋燭の灯りだけで、ただひたすらに文字を羊皮紙に刻む姿が目に浮かぶ。時々、文字が震えているのは、眠気に襲われたのだろうか。

 知識と探求の世界に生きるフェルミは、その努力に賞賛と感謝しかない。新しい薬を創り出すだけで果てしない苦労なのに、その方法さえも書き遺した前任者へ。


 そんな気分になったのは、材料を練り合わせる作業がいくらか退屈に感じたからだろう。

 いつものように、磨り潰した草木の粉を水で練りながら、混ぜ合わせる。基本的に、いつだって薬の調合は根底的に同じだ。


 何種類もの材料を混ぜ合わせるだけ。ただし、その試行回数は果てしない。混ぜ合わせては効果を確かめ、混ぜ合わせては効果を確かめ、そうやってこれまで創薬してきた。

 薬種商の業界に入ってから、何年も。そして、これからも。

 ずっと変化しない、それがフェルミの日常。


 ただ、異なっているのは、隣でフェルミと同じ作業をしている少女の存在。

 民族衣装の一種らしい手拭いを頭に巻き、純白だった作業着は既に煤やらで汚れている。しかし、それは何日も洗っていないからではない。洗っても作業している間に汚れてしまう。

 ルティネスは書物で学ぶだけでは飽き足らず、フェルミの作業を積極的に手伝うようになった。今日だってフェルミと同じように材料を練り合わしている。学ぶ意欲もあるし、学ぶ能力もある。


「ルティネス、ちょっと乳香を取って来てくれ」

「……はい、わかりました」


 素直に頷いたルティネスは、作業する手を止めて、壁一面を覆う棚から探し始めた。

 乳香はその名の通り牛の乳のような色で、香料に使われるが、薬種商には鎮痛剤としての方が馴染み深い。


 現在、作っているのは死者を生き返らせたという伝説が残る『反魂丹』と呼ばれる薬。材料は乳香、枳実きじつ枳殻きこく黄芩こがねばななどの、主に植物性。そしてその効能は死者を生き返らしたりはなく、前に作ったことのある豊心丹と非常に似ているが、心痛と腹痛によく効くらしい。


「……おい、乳香は左から三列目の下から四段目だ」

「あ、ありました」


 棚の前で鶏のように首を伸ばしながら右往左往していたルティネスへ声を掛ける。薬包紙に乳香を乗せて戻ってきたルティネスは、少し納得していないような顔だった。


「あの……」

「あ?」


 目線で先を促すと、ルティネスの両肩がびくっと跳ねた。それでも、恐れずに口元を引き締めた。たいした度胸だ。


「ど……うして、乳香の場所がわかったんですか?」

「はあ、そんなことか」


 フェルミがあからさまに溜息をすると、ルティネスは少し困っている。


「もちろん、俺も細かい場所までは覚えていない。覚えているのは、よく使う材料と希少な材量だけだ。例えば、そうだな……もし夜に工房が襲撃されたとして、物の場所がわからなかったら危険だろ?」


 それに、工房の前任者が棚を綺麗に整理していたおかげで、大体の場所は見なくても把握できる。

 ただ、それをルティネスに話さなかったのは、その顔が見直したような、尊敬したような顔だったからだ。もし本当の事を言ってしまえば、少し落胆するだろう。


 フェルミはルティネスを引き取りはしたが、薬種商と錬金術師は根底的に異なる存在だ。だからフェルミはその壁を気にして、ある一定以上は心を開かないものの、自分の元から離れてしまうのは困ると思っている。そしてそう思ってしまう自分が、恐ろしく嫌だった。

 端的に言えば、懐いてもらいたいのだろうか?

 いや、そんなはずはない。フェルミは忌み嫌われる薬種商のはずだ。


「……『判決フェルミ』の二つ名が泣くな」


 死に向かう命なら実験に使うのも厭わないし、他人の血を吸って自分だけは生き延びる。まるで、気まぐれに命を殺し、そして生かすように。そんな姿を見て、与えられた二つ名だった。

 もう本来の名前すら思い出せないのに、そんなことを真剣に考えている自分へ呆れ、フェルミは乳香を適度な大きさに砕き始めた。


 机上に白い欠片が増えると共に、色々な薬品の臭いがする工房に、甘い匂いが混ざる。そろそろ太陽が昇り始めていて、意外に暖かい空気が支配していた。


「後はこれを水で混ぜ合わせて、暗室で放置するだけだ」


 甘い匂いがする乳香でも、混ぜ合わしてしまうと消えてしまう。黒く染められた布が純白に戻らないように。

 作業が一段落した直後のこと。

 コンッ、と音がした。

 フェルミは無表情でルティネスを見て、ルティネスは驚いた顔でフェルミを見た。

 来客?

薬種商の工房の扉がノックされる時は、ろくなことがない。

 前回だってルティネスが飛び込んできたぐらいだ。フェルミは腰の短剣の留め金を外しながら、静かに立ち上がった。


「どちらさんかな?」


 扉に近づく前に、一度そうやって確認する。

 すると帰ってきたのは、聞き覚えのある声だった。


「昨夜依頼された細工職人です」


 扉を開けてやると、白髪が混ざっている職人がいた。


「これを」


 と差し出されたのは、細長い箱だった。手に取り開けると、出てきたのは革鞘に納められた短剣。


「あの、引き出してもいいですか?」


 頷くと、ルティネスは刀身を鞘から引き出していく。その瞬間、その体がびくりと竦んだ。すぐに顔を上げて、フェルミを見てくる。


「ああ、綺麗だな」


 純度が低いからか、その刀身は複雑な模様をしていて、さながら伝説の金属ダマスカス鋼のようだった。持ち手と鞘の部分には控えめだが美しさが強調される小さなサファイアが入れられていて、美しかった。


「だが、まだ昼という時刻でもないだろう? 特別料金はいるか?」

「いえ、いりません。少し不穏な噂がちまたで流れていたため、急いで作業しただけですので。それでは私はこれで」


 そして、職人は短剣に見惚れているルティネスへ一瞥すると、工房を後にした。ルティネスが我に返ったのは、フェルミが咳払いをしてからだった。

 フェルミはルティネスから短剣を受け取ると、元々腰に差していた短剣と入れ替える。重さはさほど変わらない。しかし、そこにはしっかりとした存在感があった。


「さて、それでは行くとするか」


 フェルミが外套を手に取ると、ルティネスは慌てて口を開く。


「あの、どちらに?」

「そろそろ食料が尽きるだろ。薬の材料は数え切れないほどあっても、生ものは簡単に腐るからな」


 ルティネスはわかったような、わかってないような曖昧な顔をした。考えているのは、生ものを腐らせない薬はないのか、と。こんな所だろう。


「で、お前はどうするんだ?」

「え?」

「一緒に市場へ行くのか、それとも工房でお留守番するのか。もちろん、一人で実験などするなよ。残るなら、大人しく本でも読んでろ」

「……いえ、一緒に行きます」


 ハルエッドは町に出かけたままだ。だいたい、ハルエッドは工房で創薬をしているか、町で女性と会っているかのどちらかしかない。逆に工房で寝泊まりする方が珍しいぐらいだ。


 ここで大切なのは、薬種商の工房には希少な物が多いことだ。あからさまなラピスラズリやサファイヤ、高級な材量をふんだんに使用した薬、そして多くの金が動く情報。それゆえ、盗みに入る輩も多い。

 だから普通は誰かがいなければいけないのだが、ハルエッドにそれを頼むのは酷だし、また時にフェルミも町に行かなくてはならない。それゆえ、薬種商の工房には、あらゆる所に毒が塗られていたりする。

 それを教えているので、ふるふると頭を振りながらルティネスは出掛けると選んだ。


 先に工房から出ると、白い外套を纏ったルティネスが遅れてやって来た。道の端では野生化した鶏が、羽をばたばたとさせて犬から逃げている。あちらこちらに赤い花が咲いていて、春の訪れが感じられた。

 市場は昼前だが活気に満ちていて、どこかの小僧や使いが走り回っている。フェルミが向かったのは食品市。豚の腸詰め、蒸留した葡萄酒、多少は市場に来なくても耐えられるように日持ちのする根菜を少々。


 もちろん、騎士団から資金を得ているから、全て工房へ届けるように店主に言った。手早く食材の調達を終えて、工房へ戻ろうと目抜き通りを歩いていると、よく知った顔を見えた。

 ハルエッド。

 しかも、その右腕はどこの馬の骨ともわからない美女の肩に乗っている。


「……」


 フェルミの呆れ顔と、塵芥でも見るようなルティネスの視線を感じ取ったのか、ハルエッドは美女とわかれてやってきた。


「こんな所で会うなんて、奇遇だねえ」


 相変わらず人を見下したような、間延びた声。それでも、これがハルエッドにとっての処世術。舐められてはならない薬種商は、だいたいが一般人とは異なる考え方を持つ。


「お前と会うなんて、今日は運が悪いな」

「ひどい奴だよおおぉぉぉ……」


 ハルエッドの声に道行く人がいくらか反応したが、そこまで酷く恐れられたりはしない。今までの町では薬種商を見ると早足に歩き去られたものだったが、この町では薬種商がいくらか身近な存在らしい。


「そういえば、フェルミ」

「ん?」

「カザンの話は聞いたかい?」

「聞いてない。……そういえば、開戦の時期か」


 最後の異教徒の町カザンと騎士団本隊の争い。もし、騎士団が勝てば、この世界から表立った異教徒は絶滅する。つまり、これは騎士団にとって負けられない戦争になるはずだった。


「いや? 騎士団はカザンに攻めないみたいだよう」


 だからこそ、フェルミはハルエッドの言葉に驚いた。


「……は?」

「カザンが正教徒に改宗したんだよお」

「……つまり、騎士団は正教徒の町になったカザンへ攻め込む理由を失ったのか」

「そういうことだよ。そして、このままじゃ、俺達の立場が危ない」

「……」


 いつかは訪れると思っていた。

 世界で一番の権力を持つ騎士団なら、異教徒を滅ぼせるだろうと。しかし、それではフェルミたちの都合が悪くなるとも思っていた。

 フェルミは戦争に有用な情報と引き換えに、生活の保障がされている。新たな技術の開発と引き換えに、工房が与えられている。それなら、戦争のない世界になってしまったら?


 フェルミ達はただのお荷物ではないか?

 それ以上に、その頭には騎士団にとって不都合な情報すら記憶されている。つまりは、口封じされてしまうのも道理。

 だからこそ、初めからフェルミは戦争でどちらが勝とうとも、終戦前にヤーゾンの町から逃げるつもりだった。騎士団の庇護下でしか生きたことがなくとも、飼い主に首を絞められるのは嫌だった。

 だが、考えが甘かった。


「まさか、カザンが改宗するなんてねえ。逃げ出す準備なんかできてないよお」

「……今すぐ帰って準備を始めるか」


 本当に改宗したのならば、本当に猶予はない。

 ただ、幸運なのは、この町にフェルミ以外の騎士団関係者がいないこと。改宗の報が戦地から届いたのが今日なら、三日ほどは猶予があるかもしれない。

 焦りと共に踵を返そうとしたフェルミの裾を掴んだのは、ルティネスだった。


「どうした」


 鋭い目で聞くと、怯みはしたが、裾は離さなかった。


「……なぜ、そんなに焦っているのですか?」

「聞いていなかったのか?」

「聞いていたからです。どうして焦る必要があるのですか? 焦っても状況は変わりません」

「じゃあ、どうしろと?」

「食事です。食事をしている時は、落ち着いて状況を客観的に見れます」

「……」


 ルティネスの言葉に、息が詰まった。薬種商に大切なのは、状況を見定める冷静さじゃなかったのか。冷静さが一番欠けていたのは、フェルミだろう。


「私の一族では争いに勝った時、冷静に状況を見定めるために白熊の肉を食べます」


 よほどフェルミの顔が歪んでいたのか、ルティネスはそう言った。フェルミは動けない。その、緑の瞳で見つめられても動けなかった。


「私は、そうですね……少し白熊の肉を買ってきます」

「じゃあ、俺は情報収集の続きをするよお。フェルミは先に工房へ行っといてよお」

「あ、ああ」


 返事ができたのは僥倖か。

 引き留める間もなく、ルティネスとハルエッドは雑踏へ消えていった。フェルミも工房への道を引き返す。

 春なのに暖かく、すでに外套は不要かもしれない。それでも、フェルミは背中の冷たさを拭えなかった。


 工房に戻ると、鍍金の準備を始める。今は騎士団から金貨は支給されているが、今後はどうだろうか。鍍金もいつどこで必要になるかもわからない。

 鍍金は水銀に金を溶かし込んだものを表面に塗り、火であぶって水銀を蒸発させるだけの簡単な作業だ。しかし、その蒸気は毒性を持っていたり、水銀は簡単に突沸したりと気紛れだったりする。

 ルティネスの師匠は、熱した水銀で自決を図った。高温で肺胞が破れ、それで生き残っても、蒸気の毒で死んでしまう。恐ろしく単純で、恐ろしく合理的。


 そうやって水銀を熱し始めようとしたところで、ルティネスが肉の串焼きを持って戻ってきた。

 炭火焼なのだろうか。香ばしい匂いが鼻に入る。


「お昼には少し早いですが、白熊の肉です」


 フェルミは串を受け取ると、特に何も考えずに食べた。固い。焼きすぎて固いのではなく、もともとが固いのだ。


「次はこちらの肝臓です」


 こちらは、あまり固くない。だが、過去一度だけ食べた事のある普通の熊の肝臓となんら変わらず、味も普通だ。


「なんというか、面白くない味だな」

「そうですね。ですが、その効能は凄いらしいです」

「あ?」

「私の一族では白熊を白い悪魔と呼んでいます」

「へえ」

「……私の一族に伝わる話では、白い悪魔の暴力は人をも溶かすらしいですよ」


 それはフェルミでも知っている。

 ただの熊でさえ凶暴なのに、白い熊になると何倍もの力があるそうだ。その鋭利な爪はいとも簡単に骨を断ち切り、人では敵わないという。

 だからこそ、急に悲しそうな顔をしたルティネスが不可解だった。

 そんな沈黙のヴェールを取り払ったのは、ルティネスの一言。


「……ごめんなさい」


 フェルミが胃の中身を吐き出そうとした時は、既に遅かった。腰の短剣へ伸ばそうとしたその手は、握れない。視界がぼやけ、地面が傾くような感覚がする。


「同じ熊でも、白熊の肝だけは猛毒なんですよ。薬種商さん」

「うっ……ぐっ……!?」


 強烈な眩暈と頭痛で、どしゃっと床に倒れる。もはや、ルティネスの顔すらぼやけて見えない。息が吸えなくて、少しずつ思考に靄が掛かってきた。


「ごめんなさい。私に仮初の居場所を与えてくれた貴方を殺したくはありません。私は仲間が欲しかった。ですが、こうせざるをえない……」


 仮初の居場所?

 ぐわんぐわんと揺れる思考で、ルティネスの言葉を反芻する。

 だが、考えはまとまらず、体も動かない。

 その姿を見たルティネスは悲しそうな顔で、そして申し訳なさそうな顔で言った。


「……死に逝く貴方には、見せてもいいかもしれませんね」


 その白くて細い手が握っているのは、頭に巻かれた手拭い。

 民族衣装だというそれが、するりとほどかれる。


「っ!?」


 雪のように白いその髪は、なによりも美しい。

 幻覚とは思えない美しさだった。けれど、幻覚と思いたい醜悪さだった。

 異類婚姻譚。昔から獣と人が交わる話はある。だから、そんな可能性もあるのかもしれない。


「祖先の過ちなんです」


 ルティネスは悲しそうに、自分の耳を摘まんだ。


 白猫のような、人間のものではない獣のそれを。


「私は貴方を裏切りました。貴方は私を恨む権利があります。ですが、私にはすべきことがあります」


 フェルミは、薄れゆく意識でそれを聞いた。破裂しそうな頭の中で、ルティネス、と何度も呼んだ。それでも、白い猫は泣きそうな顔で工房から出て行った。


 息ができない。声が出ない。手は動かない。身動きができない。


 工房に残されたのは、フェルミだけ。


 裏切ったのか?


 その疑問の答えを知る前に、最後の線が切れそうだった。


 ただ、最後の気力を振り絞ってフェルミが見上げたのは、人影が顔にかかったからだ。いつものにまにました笑みは、驚きと焦りで染められていたのだった。

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