第5話 錬金術師との邂逅
クラジウス騎士団。
それは、この世界で名前を聞かずには生きられないと言われるほどの、金と軍事力の塊だ。
元は教会が失われた聖地を取り戻すために主導した、宗教的軍事行動が発端になる。
聖典の書かれた約束の地、クルダロス。そこは永遠とも言える年月を、異教徒によって占領され蹂躙されていた。
教皇フランジヌス四世はその事実を見過ごせぬとばかりに立ち上がるや、当時の希代の神学者、アメリアの聖ジルベールの神学理論を用いて土地の奪還を教理的に正当化した。言ってしまえば略奪に、神のお赦しを得たのだ。
その戦いは開始されて以来、二十二年経つ今でもなお続いている。
たくさんの人間が、教会の文様の入った鎧に身を固めたり、あるいは体に文様を刻み込み、東方へと向かった。また、剣を持つ者だけでなく、聖典の書かれた約束の地で死にたいと願う、杖を持つ者たちも巡礼の旅に出た。
クラジウス騎士団の前身であるクラジウス兄弟団は、そんな戦いに赴く物や巡礼に赴く者たちを泊め、癒す、聖地へと続く道の途上にある病院のようなものだった。
だが、はるか遠方の地にあるそこでは、病や怪我が原因で斃れる者が少なくなかった。
彼らはその場で遺言を残し、すべての財産を兄弟団に託して死んだ。
クラジウス兄弟団はそれらの遺産で裕福になり、裕福になれば自分の財産を守るために独自の武力が必要になる。やがて、優しき修道士が敬虔な信者の最後の施しを受け取るだけだったそこは、いつしか貪欲な騎士が積極的に富を追い求める組織になった。
今では教会の総本山である教皇をもしのぐと言われる資金力と信徒を持ち、圧倒的な数の騎士を抱えるクラジウス騎士団を止められるものはこの世に存在しない。
その喧伝がいくらかは大袈裟にしろ、少なくともフェルミは四度の死罪を教会から言い渡され、四度とも助かっている。損得勘定に長けた騎士団から見て有用なうちは、教会といえどもフェルミを火刑に処すことは難しいということだ。
騎士団には、約束の地のために戦って死にたいと考える修道士たちの集団である聖歌隊や、物資の補給と確保や新技術を開発したりする輜重隊、戦地と戦地を飛び交って情報を共有するのが役目の
だから、新技術を提供する代わりに、騎士団の後ろ盾を期待していたのだが、今回はそうでもないらしい。騎士団の力が及ばないということは、現地の組合との交流にも影響するみたいだった。
フェルミが工房に戻ると、カウンターの向こうにある扉から光が漏れていた。職人は夜に働くことはないが、薬種商には夜も昼も違いはない。新しい書物を手に入れたら昼夜関係なく読み耽るし、どちらかと言えば、昼に起きている方が少ないくらいである。
「帰って来たんだったら、フェルミ、そっちの棚から
「へいへい」
扉の向こうから聞こえたハルエッドの声に、フェルミは気の抜けた声を返す。
白檀はさわやかな甘い香りがすることから香木として使用され、薬の分野から見ると、殺菌作用や利尿作用があり重宝されている。だが、その生息地は酷く限定され、また人の手による栽培が難しいことから、フェルミはかつて二度しか扱ったことがなかった。
そんな物まであるのかと思いながら壁を覆う多くの引き出しを眺めていると、その一つに色褪せた文字で「白檀」と書かれているのを見つけた。
その中から少量を取り出して薬包紙に載せてフェルミが隣の部屋に行くと、ハルエッドはテーブルに張り付けた羊皮紙を見ながら、なにやら石臼で薬を調合していた。
「職人はどうだったい?」
「騎士団の加護がないせいで、収穫は何もなし」
「それでもここが薬の町のおかげで、知らない知識は満ち溢れてるよ。これだって初めて見る薬だしね」
「へえ、何を調合しているんだ?」
「……豊心丹、って名前らしいねえ」
フェルミはハルエッドの手元に白檀を置くと、広げられた羊皮紙を覗き込んだ。
羊皮紙は分厚く乾くと縮んでしまうので、どうしても端っこがたわんで丸まってしまう。その上、この工房の前任者には文字を小さく書く癖があったようで、なおさら広げないと読めない。そんな事態を防ぐために、テーブルに広げて四隅を釘で固定するのだ。
そんな面倒なことをするなら、紙に書けばいいかもしれないが、紙は羊皮紙よりも安価だが、水にも火にも弱い。羊皮紙は火事が起きても燃えにくく、水に流されても文字は消えにくいのだ。
ハルエッドが広げていた羊皮紙は、豊心丹と呼ばれる薬の調合工程のようだ。材料は人、白檀、沈香、
見た事も聞いた事もない薬ではあるけれど、下痢や風気、そして吐血や下血にも効能はあるようで、汎用性には目を見張るものがある。
「……へえ、凄いな。ここの前任者は」
「工房に残された諸々を少し調べてみたけど、とにかく情報量が凄いよお。前の町で調合した六神丸よりも効能が高い物も置いていたし、これなら、全てを試そうとしたら何十年も経っちゃうかもねえ~」
「それほどの情報を、何の暗号化もせずに残していたのか」
「命知らずな事だよねえ」
職人の多くは、自分たちの技術を文章に残さない。工房に独自に伝える秘術として、他の工房と差異をつけるためだ。
しかし、職人よりも多くの情報を扱わなければならない薬種商は、だいたい暗号化して文章に残す。自分にしかわからない暗号だったり、神学理論や天文学を落とし込まなければ解読できない暗号だったり、その形はさまざまに及ぶ。それが情報の欲しさで他人に殺される危険も減らせるし、それゆえ、暗号化しないで文章にするなど狂気の沙汰じゃない。
「まあ、でも解読する側からしたら、幸運なことだよねえ」
フェルミは肩をすくめ、「それは俺らが解読する側の視点にいるからだろ」と言った瞬間だった。
二人そろって、野山の小鳥のように首を伸ばした。
「っ?」
フェルミがハルエッドを見れば、ハルエッドはフェルミが部屋に入ってきた扉の向こうを見ていた。
重く、ごんごんと何かを必死に叩く音。
どう考えても、鳥やネズミには思えない。
そう思っていると、また、何かを叩く音。
「来客か? こんな時間に?」
市場はだいぶ前に閉まり、外はすっかり暗くなって人が出歩くような時間ではない。
それでも、この音は、必死に扉を叩く音だとわかった。
「俺が行こう」
フェルミが立ち上がると、ハルエッドは頷いてカンテラの灯りを消した。工房の前任者がこの町で殺されたのは、もはや確定事項だ。しかも、ここは忌み嫌われ迫害される薬種商の工房。それなら、扉の前にいるのは敵か味方か。
フェルミは腰に差した短剣を握り、中腰で扉まで中腰で歩いていく。その間も、扉を必死に叩く音はひっきりなし。
そして、フェルミが扉の内側の鍵を開けて半歩下がった瞬間、叩いていた衝撃そのままに扉は開け放たれ、襲撃者と思われる人物が工房の中に倒れこんできた。
「今すぐ、助けて下さい!」
「はあ?」
フェルミの前で転んだ「物」が上げた声は、異質を通り越していた。
異質にちぐはぐな服を身にまとい、目が痛くなるほどの白い髪を背中まで下ろし、エメラルドのような澄み渡った紺碧の瞳。頭には工房見習いのように手拭いを巻き、異質な雰囲気を全身から醸し出している。
だいたい口調というものは思っているよりもその人の情報を含んでいて、身を守るために鍛え上げられたフェルミの耳では、それも発音の違いから出身地をあてることさえも難くなかった。
しかし、その床に転がった白き物体はフェルミの想像を超えた異質であった。
異質、……そう、フェルミのような異質を被っていた。
「ふうん、こんな時間に珍しいお客様だねえ」
「で、何を助けて下さいだって?」
背中から覗き込んできたハルエッドが素直な感想を漏らし、フェルミは親近感を覚えながら、少女に優しく声を掛けた。だが、少女は慌てるように立ち上がると、
「師匠がッ、水銀を!」
慌てた少女の言葉は、何の説明にもなっていない。しかし、フェルミにはそれで事足りた。
普通の町娘なら、この時間には出歩かない。それも目的地が忌み嫌われた薬種商なら、なおさらだ。もしかしたら緊急の薬が必要で来ているのかもしれないが、町の中にも薬種商の工房は存在しているはずで、こんな辺境の工房に来るはずがない。そして、フェルミと同質の雰囲気を被っている少女。
それらを鑑みると、少女がここに来た理由は一つだけだった。
「錬金術師か……、ハルエッド。そこの棚から『聖人殺し』を頼む」
「はいはい」
忌み嫌われた薬種商や錬金術師は事故を起こすと、それを口実として簡単に付け込まれる。だから、秘密裏に事故を隠蔽することが多い。
それに、少女が着ている異質な服は、どこか錬金術師の異質感と似ていた。
そうと決まれば行動は早い。
フェルミは少女の腕を引くと、工房から出る。
町の中心から離れているせいか、それとも時間的な関係か、職人組合から退出した時よりも多くの星々が天で瞬いている。優しい月の光が地上に降り注ぎ、小川の波がきらきらと反射していた。
冬から春に季節は移り変わっているが、それでも太陽が去ると肌寒い。やはり上着の一枚ぐらいは持ち出していた方が良かっただろうか。
女好きのハルエッドは、急ぎ足で先行する少女から色々な事を既に聞き出していた。相手の心に溶け込むのが上手いのか、急ぎながらも少女はぽつりぽつりと話していく。
名前はウル・ルティネス。
放浪の民として各地を旅してきたが、この町で問題を起こしてしまい、錬金術師の見習いとして働く事になったらしい。
らしい、と断定できないのは、これが罠の可能性を捨てきることができないからだ。二人でいるときはハルエッドに話し相手を任せ、自分は罠であった時の対処法を考える。
まさしく、飴と鞭。
少女が立ち止まったのは、錬金術師の工房の前だった。
薬種商や錬金術師のような実験を繰り返す工房では、何が起こるか予想できない。だから、巻き込まれるのを懸念して、工房の周辺はちょっとした広場になっている。
フェルミは少女に「息をするなよ」と声を掛けて、扉を蹴飛ばしずかずかと入り込む。
鼻につくような水銀の悪臭。
天井には怪しげな煙が溜まっていて、その元は炉の火で加熱し続けられている釜だろう。水銀は突然沸騰すると泡と煙が吹きあがり、跳ねる。そんな失敗を防ぐために、水銀はかき混ぜながら熱するのが定石なのだが。
その失敗を引き起こした元凶の人物は、奥の執務机の上で痙攣をしていた。傍には冷えた水銀がこびりついたコップ。考えなくても、自殺の図った親方を助ける為に少女、ルティネスが薬種商の手を借りにやって来たのだろう。
「……ハルエッド」
「はいよ」
声とともに飛んできたのは、『聖人殺し』という毒が入った小壺だ。うっかり誤飲してしまった聖人が死んだ故事から付けられた名前だが、本当の使い方は毒ではなく嘔吐剤。
もしも毒を飲んでしまった時に『聖人殺し』を摂取すると、強制的に毒を吐き出すことができるのである。元々が毒なので副反応があり、あまり推奨できない。
フェルミは痙攣している男の頭を持ち上げると、小さく開いた口から『聖人殺し』を静かに流し込んでいく。
小壺がすっかり空になった時、一際大きな痙攣が起こり、男の口から嘔吐剤が混じった水銀が吐き出た。しかし、それだけだった。男の命の残滓はもうここにはない。加熱された水銀で喉が焼け、肺胞が潰れてしまっていたのだろう。
「あ、あの……親方は?」
「魂ここにあらず、ってな」
フェルミはそれだけを答えると、丘の工房へ帰るために外へ出た。もう死んでしまっていては、薬種商の仕事はない。風邪や熱を緩和させる薬は存在しても、死者復活の薬や惚れ薬、そして賢者の石は存在しないのだ。
もう手遅れだった。ルティネスには悪いが、どうしようもなかった。
親方を失った彼女に行く当てはあるのか、道端で食べ物を乞う運命になるのか。フェルミにはどうすることもできない。悲劇はどこにでもある。
「どうするつもりだい、フェルミ」
「どうもなにも。彼女は悲劇の主人公でした。それでおしまい」
「彼女を、引き取るつもりは?」
「ない。ただでさえ厄介事に巻き込まれやすい俺達が、どこの馬の骨ともわからない奴を引き取る理由がない。もしも彼女が教会の手引きだったら、お前こそどうするつもりだ」
フェルミが言うと、ハルエッドは気味悪く笑った。
どうせ、身包み剥がして食べてやるとでも考えているのだろう。
そんな事を考えながら歩いていると、後方から足音と荒い息遣いがフェルミの耳に届くのは、時間の問題だった。
ルティネスは全力で走ってきたらしく、今にも倒れそうなほど絶え絶えの息で足を止めた。
近寄ってはこない。
フェルミも声を掛けない。
ハルエッドはというと、事の成り行を楽しむよう、にやついているだけだ。あくまでもフェルミに相手をさせたいのだろう。
だが、それでもフェルミは声を掛けない。
幸運は自ら手を伸ばす物。兎が切り株にぶつかるのを期待したり、道行く人の恵みを待つ物ではない。いつだって、求める時が得る時なのだ。
「あ、あの……」
沈黙に耐えられないように、白い少女はそう言った。
「どうした? 悪いが、俺でも死者の復活なんてできないぞ」
とぼけるように言ってやると、少女は顔を伏せた。不安に押し潰されそうな、それとも悔しさに歪められた顔を隠すためだろうか。
だが、ルティネスは断られると予測していた。
子供は、自分が頼めば聞いてくれるとよく勘違いをする。
「ち、違います」
「何が違うんだ? お前の親方は既に手遅れだった。熱された水銀で肺胞が潰れていたんだぞ」
「……違います、お願いがあるんです」
「ほう?」
聞き返しながら一歩前に進むと、ルティネスは慌てたように後退った。
わかっているのだ。薬種商にお願いをするという意味が。
薬種商は、時に生身の人間ですら実験に使う。動物の内臓を食べれば病気が治ると言うならば、人間の内臓を食べればどうなるのか。その頭蓋骨を、その眼球を、その脳を引き摺りだし、何かの材料になりうるのか。そんな常識外れの事を考える奴もいる。
薬種商に願い出るのは、自分の身をどうしてもいいと言うのと同じ事だ。
それでもルティネスは怖気ずに言葉を続けた。
「あの……わ、私を」
「お前を?」
「私を引き取ってください。……私には帰る場所がありません、行く当てもありません。だから引き取ってください」
わざと溜息を付いてやる。ハルエッドは笑いを堪えようと、腹を抱えていた。
「……俺がお前を引き取る利点は何だ。俺がお前を引き取って、どんな利点がある」
「わ、私の体を自由に使って構いません」
「覚悟はあるようだが、俺はそんな事を望んでいない。俺達は今日この町に着いたばかりだから、案内役としてならいいが」
「わ、私も最近来たばかりで、土地勘がありません」
思わず本当の溜息が出る。
薬種商は大体どこへ行っても嫌われる。腫物として扱われ、町との関係も長くは続かない。そこで顔の広い人物を必要になるのだが。
土地勘がなく、薬種商にも精通してなく、そして体力のない女、しかも子供などもはや不要だった。
「それなら、他をあたってくれ。行くぞ、ハルエッド」
終始一貫にやにや顔で眺めていたハルエッドに声を掛けて、ルティネスから背を向ける。だが、服の裾が引っ張られた。
「私はもう後戻りできないんです。なぜなら……」
ルティネスはその細い指で、町の方を指した。
「お、お前」
フェルミの言葉に、ルティネスは初めて表情を見せた。
それは決意した大人の表情。
「もう、あの工房には戻れません」
指差した方角には、夜に染まったはずだった町。しかし、その中心は異様に明るく、ここからでも火柱が見て取れた。
確認しないだってわかる。工房に放火したのだ。
不退転の覚悟。
ルティネスはしっかりと瞳でフェルミを見ていた。
「……わかった。お前を引き取ってやるから、先に工房の前で待っとけ」
「はい」
諦めたように言うと、ルティネスは緊張が解れたかのように工房へ走っていった。
後に残されたのはフェルミとハルエッド。
遠くからは夜中の火事への怒声が聞こえてくる。だが、実験の失敗が多い業種の工房には隣接した建物がないので、燃え広がる事はないだろう。
「で、お前はどう思う?」
ハルエッドに聞くと、それまでの笑みが消え失せ、瞳孔が細まった。
「きな臭いねえ」
「どこが?」
「嘘を言っている様子はなかったけど、可笑しいよねえ。そもそも、今日来たばかりの俺達の工房に尋ねるのも怪しいし……」
「親方が弟子を置いて自決するとは思えない、か。ハルエッド、調べ物を頼めるか?」
「あの親方の周辺関係だろう。言われなくても、やっておくよ~」
ハルエッドは片手を挙げると、町の方へ歩いて行った。女に好かれる性格で、夜の店やらから情報を得るつもりだろう。
フェルミはハルエッドの背中が見えなくなるまで、夜風に吹かれていた。
ただ、あの少女の未来を想像しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます