第2話 旅立ち

 やはり両手が自由な生活は便利だな、と素直に思う。


 日頃から両手を使って作業すれば、その恩恵をしばしば忘れる事がある。それは例えるなら、大気と似ているだろうか。

 人間を含む地上に存在する全ての動物は、例外なく大気がなければ生きられず、またそれは、川を泳ぎ回る魚達にとっての水と同義だ。

 人は身近な物になるほど、その必要性を忘れて生活しているらしい。


 だから、この二週間は自身の両手への必要性をまざまざと思い知らされた。

 何たって、牢屋の中では錠を掛けられて、手で食事さえ取れなかったのだから。

 それ故に、手錠を外してくれた挙句に、食事まで用意してくれた騎士団には感謝の辞が絶えない。


「俺に、まだ利用価値があるとはね」


 パンを咀嚼しながら独り言つと、フェルミを救い出してくれた騎士が疲れたように肩を竦めた。


「世間では白い眼を向けられるお前たち薬種商も、騎士団には必要な存在だからな」

「それでも、俺は問題を起こしてばっかりなので、今回ばかりは死を覚悟しましたよ」


 そう言いながらも、フェルミは用意された豚の塩漬け肉とチーズを挟んだパンを、がつがつと貪るように喰らう。


 いつもなら、毒が仕込まれていないか千切りして確認するのだが、牢ではまともな飯を食べられなかったフェルミには、そんな余裕は少しもない。


「お前が死を覚悟するとはな……」

「どうかしましたか?」

「いや、死なない薬種商と呼ばれているお前も、人間だと思うと感慨深くてな」

「俺でも食事に砒素を盛られたら、次の日には天に召されていますよ」


 当てつけのように、騎士が深い溜息をする。

 今回、フェルミが領主に処方したのも、砒素を使った新薬なのだ。


「でも、本当に俺を助けて良かったんですか? 教会は裁判に対して何も口出しはしなかったが、薬種商は異端ぎりぎりでしょうに」

「お前のお陰で、戦地に持っていく必要のある薬の量が減り、その分、武器を多く詰めるようになったからな。その恩恵は金貨の枚数にして、十万枚以上の節約に繋がった」

「その恩返しに、死刑に処される哀れな薬種商を救い出したってか?」

「優秀な道具を失うのはもったいない、と上がお考えのようでな」

「はっ」


 フェルミが吐き捨てると、騎士が革の背もたれに体を預けた。フェルミも倣って、深く座り込む。

 フェルミが乗っているのは騎士団の馬車。それも、ほろが掛かっているだけの安価な物じゃなく、貴重な硝子さえ使われている一級品の馬車だ。

 民衆や教会への牽制目的にしては無駄遣いが過ぎる。それでも揺れが緩やかで体は軋まない。フェルミが挑むような視線を向けると、騎士はふっと笑った。


 やはり、恩返しではないのだ。

 異端と見なされやすい職業柄、どこの職人組合も薬種商とは関わろうとはしない。放っておけば、領主を砒素で暗殺したり、民衆に怪しい薬をばら撒いたりするからだ。


 だとすれば、新技術で他の領主や敵国を出し抜きたい権力者は、自分で資金を出し、自分で育成し、自分の権利で保護しなければならない。だから、不要だと思われれば、簡単に道具として切り捨てられてしまう。

 そうならなかったのは、これまでフェルミが築き上げてきた実績が、騎士団の上層部のお眼鏡に適っただけだ。


「で、そうまでして俺を助けたという事は、まだ働いて下さいですよね?」

「無論。お前の手綱を騎士団が引いている限り、休みはないと思え」


 その声は、どこかフェルミをいたわるようだ。

 フェルミは騎士を見る。その眼は、薬種商だとしてもフェルミを普通の青年と捉えようとする努力の色が、ありありと読み取れる。いい人なのだろう、とフェルミは思った。高貴生まれの、騎士としての誇りを胸に抱いたまま、この年まで生き続けてきた幸運な男。

 きっと、すぐに違う仕事を押し付けて申し訳ないと思っているのだろう。


 だが、今はその親切が苛立たしい。

 二週間も自分の工房ではなく、牢で過ごしたのだ。すぐにでも実験をしなければ、控えめに言っても死にそうだ。出来るなら、この馬車でそのまま行きたいとも望む。


「次はどこの工房ですか?」


 そう聞いたのは、あるいは、自分の工房でないと生きられないからか。


「……しかし、今回の件は少し宜しくなかった。騎士団としても無罪放免とはできない」

「面子ですか」

「上層部では、辺地に赴いて頭を冷やせという意見でまとまっている」

「覚悟してますよ」

「ヤーゾン」

「え?」


 騎士から飛び出た地名が意外過ぎて、思わず顔を上げてしまう。


「ヤーゾン……は確か、天使の君臨伝説が残る町ですよね?」

「様々な植物が世界中から集められているらしいからな、お前には最良の物件だろう」

「ヤーゾン……ヤーゾンね」


 何度も繰り返すが、一向に意外性が頭から離れない。

 やはり、伝説が馬鹿げているのだ。

 天使が君臨し、金銀を生み出す灰を授けたというヤーゾンに伝わる伝説は、どこまでいっても御伽話なのだ。

 しかし、とフェルミは思う。それが御伽話ではなく、事実の延長だとしたら。本当は天使が地上に存在したとしたら。

 やはり馬鹿らしい話で、フェルミは首を振る。


「で、どうするんだ? 行くのか?」


 そう聞いてくる騎士の顔は、どこか苦々しい。どうしても、フェルミはまだ子供と言えるような年齢で、騎士は大人なのだ。


 しかし、フェルミに行かないという選択肢は残されていない。いや、この薬種商という職業を続ける以外に道は残されていない。

 ここまで堕ちてもなお。


「行きますよ、もちろん」


 こんな目に幾度となく遭ってもなお。フェルミには、それしかないから。

 フェルミは、死なない薬種商。この職業から手を引けば、死んでしまうのだ。

 騎士はフェルミの瞳の中に燃え滾る決意の炎を見たのか、諦めたように大きな溜息をした。


「お前には、そのヤーゾンと呼ばれる町で、新しい治療薬の研究をして貰いたい。一応、お前の他に薬種商を一人付ける予定だが、私も詳しく聞かされておらん」


 だから、素直に従え。さもなくば、ここで首が跳ねると思え。

 そう言いたいのだろう。


「そんな事を言わなくても、行きますよ。たとえ異教徒の町、カザンでも行きますよ。私は薬種商ですから」


 フェルミは即答する。これまでも、これからも自分の命は二の次なのだ。

 薬種商は、他人の命を預かる者。その手で殺す事も、生かす事もできる。他人の命は全て薬種商の判決に懸かっているのだ。

 だから、フェルミが自分の命を大切にするのは御門違いである。


「行ってこい、死なない薬種商『判決フェルミ』。お前が死んでも骨は取りに行ってやる」

「死にませんよ、俺は」

「戦場が近づいて来ている。あの時も、そんな予感がしたものだ」


 騎士は溜息交じりに、窓の外に広がる街並みを一望しながら言ったのだった。

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