終章-4 壁の向こうの秘密

「今日は花緒さんに命預けるんで。よろしくお願いします」

「本当にやめてください」


 声を上げて笑われた。慎重にアクセルを踏み込んで車を走らせる。


「まだ慣れませんか」

「昼間なら大丈夫なんですけど、夜は、まだちょっと」


 金曜日とはいえ、二十一時前には交通量は控えめになる。市街地を抜けて山間のほうへ入って行けば、そのうちに車両は見えなくなった。後続車が消えると、途端に肩から力が抜ける。周囲は既に街灯もまばらで、見渡す限り田園風景ばかりだ。曲がりくねった細くてよく揺れる道を、ナビに従って進んでいく。


 星が見たいと先に言い出したのは、果たしてどちらだったか。


 今の住まいは市街地に近く、夜間でも多少の灯りが確保されている。引っ越して少しした頃、あの、小さな箱庭のようだった、白いコテージが恋しくなった。ふたり並んで見上げた夜空が。


 今度は隣同士とはいかなくて、わたしたちは今、同じ階の少し離れた部屋に暮らしている。


 わたしたちはふたりで生きる方法を探しながら、少しだけお互いの話をした。わたしは、苦手なものについて。カメラ、パトカー、サイレン、白いワンピース。ほかにも、緊急地震速報など。最後のひとつは、彼も実は苦手ですと苦笑していた。わたしは少し嬉しくなった。


 公星くんも、世界の秘密を打ち明けるように、とても慎重に教えてくれた。


「朝方、おれが寝る支度をしてる頃に花緒さんが起きる音がするんです。そうするとおれは、なんだか寝るのがもったいなくて。花緒さんが家を出た音がしてから寝るんです。……ごめんなさい、こうやって言うと気持ち悪いですよね。だけどおれはここに流れ着いてから、花緒さんの挨拶に救われてて。花緒さんはいつも、おれが出ていくときに、いってらっしゃいって言ってくれるでしょう。おれは、本当はずっと、朝ひとりで出ていくあなたに、おはようございます、いってらっしゃいって言いたかったんです」


 ひんやりと澄みきった、早朝の青い静寂を思い出して、わたしは音もたてずに涙を流した。


 あの白い壁の向こうで、彼は間違いなく息をしていた。わたしとおんなじに。


 ダムの駐車場は当然がらんとしていて、わたしたち以外には影すら見えない。せっかくだから、真ん中あたりに駐車する。


 分厚いダウンジャケットを着こみ、車外に出る。首を痛めそうな角度で夜空を仰いだ公星くんが、長い息を吐き出した。





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