6-23 推しの役割

 あいつに欠片も思考を割きたくないのに、忘れてしまえば許したことと同じになってしまいそうで、それもできない。ずっとこのまま生きていかなきゃいけないの。煮えたぎる怒りを内側に宿したまま。怒りに支配されないよう己を律し、その度に自らのいちばん柔らかい部分をずたずたに切り刻みながら。


「もういやです」


 許せない、の隙間に、たすけて、が入り込む。わたしに縋ったあのひとも、誰かに助けてほしかったのかもしれない。


 公星くんは目を伏せてなにかを考えているようだった。それから箱ティッシュを差し出す。


「爪が、顔に」


 なにを思ったのか机に身を乗り出して、ティッシュを顔に当てられた。強く抑えすぎたせいで爪が顔の皮膚に食い込んでいた。ぽんぽんと控えめに涙を拭われるのが恥ずかしくて、公星くんの手からティッシュを奪い取る。


 公星くんは唇の端を少し持ち上げて、向かいに腰を下ろした。


「なにかのせいで傷ついて、それでも苦しみに溺れずに生きていくためには、違うなにかで心の隙間をなるべく埋め尽くすしかないんだと思います」


 懐かしむような声だった。


「忘れることはできなくて、なにをしていても消えてくれなくて、ずっと苦しいままで、死ぬまでなにも解決しないけど。少しでも『そいつ』が占める面積を小さく小さく追いやって、忘れなくても、せめて思い出さないように。みんなそうやって生きてるんだと思います」

「違うなにかって」

「おれにとっては花緒さんです」

「そんなふうに言ってもらえる心当たりがありません」

「花緒さんはおれに安らぎをくれました」


 困ったように目尻を下げて、公星くんは語り掛ける。


「必死に逃げて来て、不安で仕方なかったおれに、静かな毎日をくれました」


 それは、ここへ流れ着いたわたしがたてた、最初の誓い。

 そうして彼がわたしへ落とした、最初の願い。





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