6-21 わたしが許せないもの

 口にした途端に、漠然と胸に巣食っていた不安が明確な形を得た。目を覚ましたあのひとが、また、わたしの前に現れたら。


「花緒さんはどうしますか」


 ──わたしは。思考を巡らせるまでもなく、爪先から頭のてっぺんまで、支配されている。ちょうど一年前のように。


「もうここにはいられません」


 とにかく、逃げなければいけない。どこか遠くへ。誰もわたしを知らない場所へ。


「それ、おれもついて行っていいですか」


 あまりの身軽さに、は、と間抜けな声が出た。ぽかんと口を開いて固まるわたしに、公星くんはうっすらと笑いかける。


「おれ、あんまり口がうまくないから、こういう言い方しかできないんですけど。おれは花緒さんと一緒にいたいです」

「い、みが、わからないです」

「そのままの意味だと思ってください」


 余計に混乱した。そのままの意味のほうが、よっぽどわからない。


「どうしてわたしなんですか。おかしいでしょう。わたしなんか、あなたと一緒にいていいはずがない」

「おかしくないし、いいとか悪いとかじゃなくて、おれがそうしたいんです」

「だってわたし、あなたになにもあげられない。数字も、お金も」

「おれ、ここに来てから、花緒さんにそんなものもらった覚えはありません」

「だけど、じゃあ、体もあげられない」


 公星くんは困ったように笑った。


「おれも花緒さんが好きです。だけどそれは、恋じゃありません。だからべつに、そんなのなくても問題ないんです。花緒さんは、そんなにそれが許せませんか」

「許せない? わたしが?」


 わたしは、許されたいのだ。そのはずなのに。


「花緒さんはずっと自分が許せないみたいに見えます」


 わたしは、許せないのだろうか。


 今でも恋愛に臆病なのはわたしが弱いせいだ。お兄さんはわたしに優しかった。わたしたちは同じ気持ちを寄せ合って生きていたのに、わたしが狂わせた。お兄さんがわたしを傷つけたんじゃない、わたしが壊した。


 ずっと、そう思って生きてきた。だけどもし、そうじゃなかったら。──ねえ陽輝。陽輝の言うように、わたしは悪くないのだとしたら。最初からぜんぶ、おかしかったのだとしたら。


 公星くんが、なにも訊かずにわたしを温めてくれた。

 陽輝が、わたしを思って別れを選んだ。


 エアコンのない、からっぽになった狭い和室で、幼いわたしの問いが蘇る。





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